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   夏 〜巡る絵本〜


 昔は、人の数だけ世界があって、そこに無限が広がっていると感じていた。
 今の自分には、それがない。
 例えば、何も知らなかった子どもの頃は、外に飛び出してそこに溢れるものの感触を、直に確かめる事がとにかく楽しかった。
 でもだんだん大きくなるにつれ、傷ついた時の痛みや辛さを覚えて、それが怖くなった。
 身を守るために家を建て、その内を覗かれないように塀を作り、虫さえ入り込めないように庭をコンクリートで埋めた。
 扉を閉めて無機質な床に寝転がり、天窓からだけ見える四角くちっぽけな空を、空の全てだと思うようにしたら、気が楽になって――。
 そうして、俺の感覚は衰えていったんだろう。

 そんなふうに寂しく年を重ねて大学生になった俺は、今、町の一角にある書店で休日だけバイトしている。
 たくさんの本に囲まれていると、磨り減った自分の心が、ほんの少し埋められるような気がして好きだ。昔他人に感じたように、そこにある本の数だけ、世界が広がっていると思えるからだ。 
 今は夏休みで、連日、昼間は大勢の子ども達が入れ替わり立ち替わりしていく。客が増えるのは結構な事なのだが、子ども達は本の扱いが乱暴で、俺が片付ける端から本を引っ張り出しては散らかしたまま去っていくのが、毎度腹立たしかった。特に児童書や絵本のコーナーはひどく、汚されたり破かれたりしている事もしばしばあった。
 今日も日が暮れ、騒がしい子どもの集団が去った後、俺はやれやれと思いながら児童書のコーナーの片付けにかかった。
 乱雑に積まれた本を順に元の書棚に並べている時、ふと、一冊の絵本が目に入った。ページが折れ曲がって、外にはみ出して見える。手にとって開いてみると、その中ほどのページは派手に破かれていた。
 いつもはうんざりしながらも、忙しさの中でしょうがないな、と溜め息をつくだけで大して気に留めずにおくところが、今回はそれが妙に心に引っかかってしまった。
 他の本と一緒に引っ掻き回され、破かれ放置された、絵本。
 何故かわからず首を傾げつつも、もう売り物にならないこれをこのまま並べておくわけにもいかないので、とりあえず、フロア隅のワゴンに載せた返品雑誌のダンボール上にでも置きに行こうと振り返った、その時。
「すてちゃうの?」
 そこに、俺の腰ほどしかない小さな男の子が、いつの間にか立っていた。俺の手にした絵本をじっと見上げている。
「ねえ、それすてちゃうの……?」
 そう聞いてくる男の子の様子は、どこか寂しげで。
 子どもの扱いに慣れていない俺は戸惑ったが、この本がこのまま処分されてしまうしかないのならば、と考えた末……。
「ちょっと、待ってな」
 そう言ってレジ台の方へと歩いていき、その絵本に挟んであったスリップを抜き取ってレジ横に置いた。そしてついてきた男の子が台の横から背伸びして覗き込む中、俺は絵本の破かれたページを開いて、折れ曲がりを伸ばし、そこにあったセロハンテープでさっさと接いでやった。
 思ったより絵がきれいに合わさり、俺はちょっとそれが気に入ってそのテープのあとを指先で撫でながら眺めた。
 ――ふと起こった、既視感。
 同時に思い出された、ひとつの事。
 もう、いつかもわからない程小さかった頃。俺には飽きもせず繰り返し繰り返し見ていた好きな絵本があった。絵も内容もさっぱり記憶から抜け落ちてしまっていたが、唯一覚えている事に、確かその絵本には、折れ曲がり、破れをテープで接いであるページがあって――。
「どうしたの?」
 男の子の声にはっとする。俺はその子を、何とも言えず不思議な気持ちで見つめた。男の子は目を輝かせて、俺の直した絵本を見ている。
 気づけば、俺はその子に絵本を差し出していた。
 男の子はそれを両手で受け取ると、嬉しそうな笑顔を見せてそれを胸に抱え、風のように店の外へと走り去って行った。
 ありがとう、という言葉と共に、死にかけていた世界が、小さく息を吹き返して元あった場所に帰っていったような――そんな満足感を、俺の中に残して。


 巡る絵本/終 (初掲載:2005/07/27)



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