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   春 〜一夜の猫〜


 昔から、物を捨てるという事が出来ない性分だった。
 使わないものは処分しなさいとよく人に言われるけれど、使い古した物は愛着が沸いていて、捨てられない。ほとんど使っていない物はいつか必要とする時が来るかもしれないと思ってしまい、捨てられない。
 そんなこんなで、捨てられないから、はじめから持たないようにと気をつけて生活するようになった私。
 それは、物に限った事ではなかった。
 別れが辛いなら、失うのが怖いなら、最初から出会いなどいらないと――。

 短大を卒業し、四月から会社勤めが始まる。
 今住んでいるアパートから会社近くのコーポへ引っ越すために、私は部屋でひとり、溢れる荷物と引越し屋から届いたダンボールの束を相手に格闘していた。
 整理整頓や片付けに関しては、その言葉にさえ拒否反応を起こすほど大の苦手な私だけれど、自分の持ち物を触られるのがもっと嫌いな私は、根性でどうにかこうにか、今日までにひとりで粗方の物をダンボールに収める事ができた。
 ほっとして、部屋の真ん中に座り込む。結局、真夜中までかかってしまったな……。
 明日の昼、引越し屋がこの部屋の隅に詰まれたダンボールの山と、電化製品と家具を全て運びに来る予定だ。ひとつだけまだ封をしていないダンボールの中には、今夜から明日の朝にかけての生活に最低限必要な日用雑貨と、明日の着替えが入っている。
 本当は、このダンボールひとつだけで今後も十分暮らせるのかもしれない。他の箱の山には、一体何を詰めたんだっけ。あんなに必死に作業したのに、よく思い出せない。きっと冷静に考えれば使わないガラクタばっかりなんだろうな、と思いながら、私はひとりでふふっと笑った。
 ひとつひとつの物への思い入れは強いくせに、上手に整頓してしまっておくという事ができず、どれも埃をかぶり、とても大事にしているとは思えない状態になっていた。
 こんな風になってしまったのなら、いっそ捨ててしまおうか……。
 何度もそう思いながら、しかしどれもゴミ袋に放り込むふんぎりがつかず、結局また全部持って行く事になってしまった。そしてそんなダンボールのいくつかは、封さえ開けずに押し入れにしまいっ放しになるような気が、今からしていた。
 夕食をとったのは、もう五時間も前。作業が終わった事で気が抜けた私に、急に空腹感が襲ってきた。
 仕方ないから菓子パンでも齧ろうと思い、疲れた身体でのろのろと立ち上がった、その時。
 ――ニャーオ。
 どこかから、猫の鳴き声。
 私は振り返り、窓の方を見た。窓の外の柵に、夜の闇に紛れて黒い猫がちょこんと座っている。
 私は、とても驚いた。単に猫がいたからじゃない。その黒猫が、子どもの時に一緒に暮らしていた「福」という猫に、とても似て見えたからだ。
 でも、私はすぐに思い直した。黒い猫なんていくらでも見かける。第一、福はもう十年以上も前に死んでしまったじゃないかと……。
 猫は、私を見てまた一鳴きした。おなかを空かせているのだろうか。
 ここはアパート。もちろん動物を入れてはいけない。しかし、私はその窓を開けずにはいられなくなった。
 ゆっくり窓辺へと歩いていき、鍵を外してガラス窓を静かに開ける。
「おいで」
 猫はそれに答えるように、軽やかに部屋の畳の上に飛び降りた。そしてその場にまたちょこんと座ると、その胴色の瞳で私を見上げた。
「今、ミルクあげるからね」
 私はその猫に笑いかけながらそう言うと、開けてあったダンボールから皿を一枚取り出して台所へ行き、冷蔵庫から明日の朝飲み切るつもりだったミルクを取り出して、テーブルの上でその皿に注いだ。
 猫は、隣の部屋からその様子を座ったままじっと見ている。
 私は、その姿に懐かしさを覚えた。
 福に餌をやる係は、私だった。そして福はいつもこんな風に、私が台所のテーブルで準備しているのを見ながらおとなしく待っていたものだった。
 ミルクの入った皿を持って戻り、私は猫の前にそれを置いた。猫はしっぽをひょこりと動かした後、すぐにミルクを飲みだした。
 私は少し離れたところに腰を下ろし、そのままころんと横になってその黒猫を見つめた。疲労感からすぐにやってきた眠気の中、そのぼんやりとした頭で、福が死んでしまった時の事を思い起こす。
 福は何の前触れもなく、ある日の朝、動かなくなっていた。私はあまりに突然の出来事にショックを受けて泣きじゃくり、その日の小学校を休んだほどだった。
 ――ああ、そうだ。その時初めて、思ったんだ。
 こんなに悲しい思いをするくらいなら、はじめから会わなければよかった、と――。
 悲しみに呑まれて、一緒に過ごした楽しかった思い出を、全て封じ込めて……。そう、考えてしまったんだ……。
 私は、心の中で謝っていた。
 ……ごめんね。あなたとの思い出、大事にできていなかったね……私……。

 スズメ達の声が、いつもよりよく響いてきた。
 気がつくと、私は昨日寝転がった畳の上で、そのまま朝まで眠り込んでいた。
 黒猫の姿は、もうそこになかった。開けてあった窓の隙間から、出て行ったのだろう。空になった皿だけが、残されていた。

 昼、アパートの部屋から全ての荷物が運び出された。
 きれいさっぱり何もなくなったその部屋を、玄関口でひとり、振り返る。
 遠い未来、こんな風に過去を振り返った時、まるで何もなかったら――それこそ、寂しいじゃないか。
 悲しくて、辛くて、そんな捨てられたらよかったのにと思っていた事全部が、今の自分を形作ってきたものだと受け入れられる――そんな日が、いつか迎えらたらいいなと……。少しだけ、思えた。


 一夜の猫/終 (初掲載:2005/07/30)




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