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 夕食の仕度を済ませてから、アルアは再びユディエの部屋を訪れました。開け放され、書物から衣類から置物から、何もかも散らばったままのその奥で、昼からずっとユディエの机についたまま動こうとしないラセフは、面した窓から射し込む、黄昏の朱に包まれていました。机に両肘をつき、組んだ手の指を口元に当てて、向かいの景色を突き抜けた更に向こうまで、考えを馳せているようです。
「父様」
 その横顔にアルアが声を掛けて応えが返るまで、間がありました。やおら手を解いて彼女の方へ身体を向けた彼からは、憔悴の色が伺えます。もう一度だけためらった後、ラセフはようやく口を開きました。
「今から話す事を、アルアがどう捉えるかは分からない。黙っていれば、少なくとも苦悩させる事はないのだろうが、それでも、私は告げなければならないと思った。隠し事は、相手から自分を遠ざける。私はそれを望まない。結果としてアルアに荷を背負わす事になったならば、私は側にいて、共にそれを背負いたい」
 言葉にしきれないものを補って余りある眼差しが、そこにありました。しばしそれを受け止めていたアルアは、固くしていた表情をふいと緩めます。いいえ、というやんわりした返答は、彼の意志を拒否するものではありません。ラセフが問題とする事の前提にみられた、認識の相違に対してのものです。
「父様は今、本来私が背負うべきものをお一人で抱え込んでいらっしゃいます。私もそれを望みません。父様が遠ざかってしまえば、私はそれだけで潰れてしまうかもしれませんが、父様が側にいてくださるのなら、何を背負おうとも私は大丈夫です」
 ユディエの死という大きな哀しみを経て、短くも心通わせる濃い時間を送った彼等が、互いに離れる選択をする事など、もはや有り得ませんでした。ラセフもアルアの意志を受けて、口元を和らげます。そうしてすぐにまた引きしめ直し、彼は話を切り出しました。
「ユディエが遺した言葉の真意を、私は読み誤っていたようだ」
 ラセフは机上に置いていた例のバースデイカードを手に取り、開きます。
「『限りがあるから アイは芽生える』――。アルアの心に愛を生ませるために、ユディエは自らの死を以ってその儚さを教えたのだと、私は考えていた。いや、それについては結果として間違っていない。ただ用意された『儚くなるもの』は、ひとつではなかったかもしれない」
 彼はうなだれて額に手を当てます。
「他に、何があるのですか」
 空けられた間が長くなるほど、先に待つものが暗澹としていくように思えて、アルアはおそるおそる尋ねました。
 ラセフはひとつ息を落としたのち、それに答えます。
「私達が今ある、この星だ」
 アルアは、自分のために母が死んだとする内容にはすぐに重みを感じましたが、それに続いた内容はあまりにも事が大き過ぎて、はじめ重みどころかまるで現実味を持てませんでした。
「星が、死んでしまうと仰るのですか」
「ユディエがこの星に流し込んだというファイルの正体は、確かめられない。ただ星は、何らかの繋がりをもってアルアに訴えている。その『ココロのうち』を」
 アルアは記憶から、それを呼び出しました。
 ――何か、何かが、訴えかけるのです――。
 2度目の地震に遭遇した際、彼女はラセフにそう言いました。その『何か』が星の声だったと、彼は言うのです。
「ファイルがアルアのものと同じ『ココロプログラム』であったなら、唐突に自我を持たされた星は、その身に蓄積する名状し難い痛みに押し潰されて、あるいは――」
 ――ただひたすら苦しいのです。母様を失った時と似ています。言葉にしようがないのです――。
 それを感受した時の痛みが、甦ります。
 ラセフは静かに立ち上がり、朱の光が宵の闇へと変貌しつつある外に視線を放ります。彼の瞳も、それに染まりました。
「この星は、人のために過去に幾度も破損と汚染を被っている。損なわれた作用を重層な機械で補い、また汚れた地層を厚い遮蔽板で塞ぐ事を繰り返して、人はこの星を延命させてきたんだ。自分達の身体と同じように」
 宇宙は海。星は船。人の操舵は海原さえも従えて、航行を自在にする――。
 過去に学術雑誌で謳われた文句です。そうした驕れる観念が浸透するほどに、人は定めの軌道から外れていきました。星は船などのような人工物ではなく、あくまで宇宙に包括される天然の恩沢。元来、人智の及ぶところではないのです。
「手を加える程に、人は身体という自己の証明ばかりでなく、星という自己の所在についての機軸までも、忘失していったのだろう」
 かつては自然の現象が、人にその星の存在を知らしめ、そこに生かされているという事実を重んじさせていました。しかしそれらを管理下に置いた事で、人はあたかも全てを自分達で作り上げたかのように、錯覚していったのです。
「そうして実を虚ろにし、不毛な時間ばかりを際限なく求めるようになってしまった人に対し、ユディエは断罪を謀ったんだ。星が耐え切れない事を見越して、人がもたらしたその苦衷に一切を巻き込ませるという、歪んだ手法で」
 あくまで仮説であり、真相を知る手立てのない話ですが、アルアには、ラセフが何らかの確信を持ってそれを話しているように見えました。
「そうであったとしても、何故そのように暴力的な形を用いなければならなかったのでしょう。私には、母様のおココロが分かりません。あれほど、お優しかったのに」
「心は、有限を定められた人の中に無限を広げ、個を確立させるものでありながら実体を持たない、ねじれに位置するものだという。ユディエがその仕組みを解き、プログラムとして完成させられたのは、『正常』という既成概念の壁が崩壊して、そこから解放されたからだと私は踏んでいる。ああ、口にした途端に事実として固まる気がして言えなかったが、ユディエは許容を超える無限と矛盾に中てられて、狂ってしまったんだ。心を解明するために要した犠牲は、彼女の心だったのだと……!」
「父様」
 机を殴りつけた拳に優しく被さったアルアの手は、火を蓋して消すように、気を昂ぶらせた彼を我に返します。
「――すまない」
 ラセフはこれまで、ユディエの遺した言動のひとつひとつを拾い集めてきました。彼女が正気を失くしていたであろう事を知りながら、その断片に意味を求めるなど無意味に思われます。けれどもそれは、彼にとって愛した妻と唯一触れ合える、大切な時間だったのです。
 そして、狂気は伝播するもの。ラセフの確信めいた口ぶりは、少なからず彼女のそれに同調してしまい、核心に限りなく迫った事からきていました。アルアのように外から鎮めてくれる者がなければ、彼もおかしくなっていたかもしれません。それを自覚して、変調に気づきながらユディエを止められなかった自分に改めて失望します。彼女にもアルアにも、ただ詫びる事しか出来ませんでした。深い息とともに、椅子に腰を落とします。
「私のこのココロは、星と終わりに、連係していたのですね」
 アルアは目を伏せ、両手で胸を包みます。泣く子を抱きしめるようでもありました。
 ――愛しい娘へ ココロを込めて
 ――限りがあるから アイは芽生える
 ココロを与える事の示唆。
 儚いものの上にしか生まれないアイの主張。
 ラセフの説が正しければ、アルアのココロとアイは、母と星、更にはそこに生きる全ての命と引き換えに生み出されたようなものです。何の落ち度もない彼女にそうした多大な罪の意識を背負わせてしまう事を危惧して、彼は告白の前に確認と断りを入れたのです。自分は共にあり続けると。自分にたったひとり残されたアルアを守りたい一心で。
「今日来た者達は、現状に対しこのまま打開策を見つけられなければ、アルアからもその手がかりを得ようとするだろう。彼等にしてみれば、アルアはユディエが生前に最も大切にしていて、かつ簡単には手出し出来ない代物だ。そこに何かを隠していると勘繰られても無理はない。心配なのは、検証の必要ありという強制力を持った判断が下った場合に、どのような扱いをされるか分からない事だ」
 ラセフは夕暮れの這う、散らかされた床とは対照的に遺品を持ちさられてまっさらな机を、片手で撫でます。
 あの時に向けられた、射るような眼はアルアの危機感も煽っていました。ラセフは如何にして彼等をアルアに近づかせないか、そればかりを考えていたのですが、しかしアルアは先に顔を上げ、一歩前へ踏み出す発言で彼の考えを覆します。
「私のココロが星と繋がっているのでしたら、私はあの方々と協力して、事態の収拾を試みるべきではないでしょうか」
 ラセフは目を見張りました。
「自ら申し出て、閉じた星へ通ずる手段になろうというのか」
「正直に申し上げれば、恐ろしいです。そもそも私の方から星へ、通信できるかどうかも定かではありません。それでも可能性のあるノードのひとつとして、私は出来る事をしたいのです」
 アルアにそう決断させたのは、自分という存在に対する贖罪の念も多分にあったでしょうが、何より、ラセフを失いたくないという強い思いでした。星が死んでしまえば、その上にある全ての生き物が運命を共にする事になります。当然、ラセフも。大切なものを守りたいココロは、アルアも同じなのです。
「しかし」
 アルアのココロは理解できました。けれどもラセフは、ユディエが迷い込んで燃え尽きたのと同じ炉にアルアを放り込むような懸念を抱き、難色を示します。
 アルアは彼のそれを払おうと、今一度、表情を緩めました。
「最初にお答えしました通り、父様が側にいてくださるのなら、何を背負おうとも私は大丈夫です」
 ラセフはしばし悩みましたが、彼女のその健気な笑顔が、翳る彼の頬に陽を射しました。
 彼女の意志も、寄せられた信頼に応えて守るべきもの。また先にこちらから協力を買って出れば、少なくとも強制力が働いた場合よりは、下手な扱いを受けないでしょう。そう考えた上で、彼は承知する前にひとつ問いかけました。
「アルアは、今もユディエを愛しているかい」
 ラセフは心配したのです。自分が話した内容のせいで、アルアは彼女への思いを、冷ややかなものにしてしまったのではないかと。
 アルアは静かに、ユディエが選んだ衣装のキャップを頭から取りました。綺麗に切り揃えられた髪が露になり、潤沢な紅で光を弾きます。
「母様は最期の日まで、私にアイを注いでくださいました。それは今も、私のココロから母様への思慕を溢れさせています」
 返答から負に偏ったココロを感じたなら、ラセフはアルアが星の深いところへ赴く事について、反対したでしょう。同時に、ラセフは救われる思いでした。どのようになろうともユディエを慕い続ける存在は、この世に自分ひとりだけではないのだと。彼と交わした言葉は、アルアの中に、確かに息づいていました。
「私には、愛してくださる両親がありました。でもこの星は、ひとりぼっちです。星に比べてずっとずっと小さな存在ですが、私は星にこのアイを注いで、脈々と継がれてきたその流れを、守る事が出来るでしょうか――」
 ラセフは頷くように顔をうつむけて、眼鏡を外しました。片手で目頭を押さえましたが、そこに入り混じったありとあらゆる感情はどうにも押さえ切れずに、やがてはたはたと、床に零れます。

 その滴が玉となっていくつも跳ね、数々の過去を写し取りながら、巻き取られ続ける時間の糸を、七色に染めていきました。



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