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   4.甲板に咲く


 ラセフは研究所に赴き、そこでまとめられた『ココロプログラム』に関する報告書に目を通しました。しかしそれを完成させたという記載はどこにもなく、また所や上の機関から、それらしい発表がされる事もありませんでした。ユディエは集積した甚大な情報の統合作業を行なっていたはずですが、彼女が組んだそのプログラムデータの一切も、死の直前に消去された形跡のみ、後に確認されます。
 その作業について、かつてユディエはラセフに、多次元上を逃げ回る無限個のピースをそぞろな多様体に組み立てるパズル、と語っていました。定理も認識も持てない、物理的な干渉の叶わないもの相手に、人がそれを解く事など本当に出来るのかと、彼はその途方のない話を意識が遠のく感覚まで一緒に思い出します。
 だのにユディエは、それを成し得たというのでしょうか。にわかには信じがたくとも、今のアルアの存在が、彼にそれを否定させません。
「父様」
 アルアに呼ばれて気づき、食事の席で手を止めてしまっていたラセフは顔を上げます。焦げ茶色のワンピースにエプロンドレスを付けたアルアが、向かいに立って不安げに見ていました。
「すまない、考え事をしていた」
 亜麻のクロスが掛けられたテーブルには彼女の用意した朝食がありますが、彼はパンを少し齧っただけで、同じ皿に盛られた豆や卵にはまだ口をつけていません。
「味付けを変えたのが、いけなかったのでしょうか」
 飲み物のカップを運んで傍らに来たアルアは、それをテーブルに置きながらおずおずと尋ねます。
「そういうわけじゃないんだ、まだ味をみていないからね。変えたのかい」
「はい。いつもと同じでは、なかなかお元気を取り戻されないようでしたので」
 ユディエが亡くなってから4日。アルアは彼女の事を気に病んで食欲も落ちたままの彼を、ずっと心配していました。彼がいま袖を通している、さほど回数を着ていないはずのシャツまで、彼女にはくたびれて見えるのです。
 ユディエが完成させたココロ、という先入観も多いに影響しているでしょうが、アルアの言動は若い頃の彼女と似たものを、ラセフに感じさせます。
「でも、いつもと違う工程にしたら正しいお味というものが、分からなくなってしまって……それでお口に合わず、かえって召し上がらなくなってしまったのかと思ったのです」
 アルアは種類豊富な食事の調理法を正確に記憶しているので、食材の状態に左右される分を除けば、毎回同じ味を再現できます。逆に言えば、今回のような自己判断での調味の変更などは全く出来ませんでした。
「味には正しいも間違いもないよ。好みの問題だ。そのように食べる者をおもんぱかって作る事が、いちばんの調味料といってね」
 味覚もあるので自分で味の確認をする事も可能ですが、しかし規定を外した調味というものが初めてだったアルアは、試行錯誤する中でその方向性に迷ったようです。
 話の合間にすくった煮豆を口に運び、ラセフは固まりました。それは昔、落ち込んでいた彼を励まそうとユディエが初めて手料理を振舞ってくれた時の懐かしい状況と、よく似ていました。様々な意味で涙が出ます。
「うん、まあ……ナトリウムが食欲増進に有効なのは確かだが、塩は、もう少し控えたほうが良いかな」
 ラセフの反応でやはり味付けに難があったと分かり、アルアは動揺しました。
「申し訳ございません父様! すぐにお取り替えいたします!」
「いや、いいんだ。これはこれで」
 下げようとする彼女の手と、それを制しようとする彼の手の間で一瞬まごついた皿が、そこから逃げるように滑り落ちます。あ、とふたりが声を上げるとともに、その中身はアルアの服や板張りの床に、全部ぶちあけられてしまいました。
「ああ、また失敗してしまいました――本当に、申し訳ございません」
 機械の完璧さを有して長く務めてきた彼女にしてみれば認めがたいその惨状に、まさに目も当てられないと、アルアは両手で目を覆います。ラセフはテーブルに置いてあった布巾を手に椅子を降り、彼女の裾に付いてしまった汚れを、静かに拭いました。
「いつもと同じより違うほうが私の元気が出る、と言ったね。なるほど、そうかもしれないよ。アルアがこんな失敗をする事はこれまでになかった。それこそ、いつもと違う事だ。私はそんな今のお前に、元気をもらえているのだから」
 重なる不手際にいよいよ咎められると思った彼女は、しかしそれに反した言葉をかけられて、こわごわ瞳を覗かせます。
 ラセフは手を動かしながら、確かに微笑んでいました。言われた事が本心であると知り、アルアは安堵して顔をほころばせます。
「ありがとうございます、父様」
 身を屈めて彼から布巾を受け取り、床に散ったものを集め始めます。
「その服の汚れは、すぐには落とせそうにないな。着古したものでもあるし、そろそろ新しいものを買い足さなければ」
 エプロンはともかく、それが被っていないスカートの裾の染みを気にしてラセフが呟くと、アルアは少し思案して、跳ねるように顔を上げました。
「それでしたら、あの服が良いです」
「あの服?」
 彼女の瞳の灯が、ますます輝きます。
「前に母様が選んでくださった服です。私は、あの服が着たいです」
 それはアルアの誕生日にと決めたきり、買いに行けなかった服の事でした。予定の日は過ぎてしまったものの、まだ取り置きの期限内です。
 アルアの様子からは、彼女に残されたユディエの記憶がとても温かなものであると伺えました。それが、アルアの情緒をより豊かにしているようです。
 いつも相手の表情を真似て作られていたアルアの笑顔に、今はラセフの方が、それに照らされる形で笑顔になります。
「そうか、分かった。では午後から買いに行こうか」



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