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 服飾店を訪れ、ラセフは試着部屋の前で2ヶ月前の日と同じように、アルアの着替えが済むのを待ちます。例の担当店員は、別の客に呼ばれてどこかへ行ってしまいました。
 程なくして扉のノブを回す音がするも、アルアはなかなか出て来ません。隙間から顔を覗かせた彼女に、ラセフは姿を見せるよう促します。
「着替えが済んだのなら、出ておいで」
「でも慣れない服で、急に恥ずかしくなってしまって……。笑いませんか」
 来る時には喜びをいっぱいに開かせて店へ飛び込んだのに、今は一転、しおらしく閉ざす蕾のようです。
「私がアルアの事を、おかしいと笑った事があるかね」
 彼女は無い、と首を振る仕草で返し、ためらった後、ようやく扉を開放しました。真っ白なスカートが広がり、部屋から零れ出ます。
 一度同じ姿を目にしていても、彼は今一度その姿に感嘆しました。
「やっぱり素敵だ。よく似合っているよ、アルア」
 その言葉も繰り返しになりますが、受け手のアルアからは、これまでにない幸せの香が振りまかれたのでした。


 衣装の支払いを終え、2人は店を出ました。寒さが幾分和らぎ、春の鼻先で頬を染めるように花弁が色づく季節。といっても街の中では土が分厚い蓋をされているので、季節を告げるような植物を目にする機会はとんと無くなりました。その季節も、気候や天候とともに、元来の風土と主な産業等に基づき、地域別に人為的な操作と管理がなされたものです。四季や空を回転させる大自然の力に畏敬の念を抱いていた過去を忘れて久しく、人々は一年先の天気さえ決められた、よそ見させる草花ひとつないその舗道を、迷わず歩いていきます。
 そこに降り立ったアルアだけが、真新しい服をひらめかせて楽しげに舞っていました。彼女のココロは、毬のように街路をあちこちと弾んでいきます。
「父様、お早く」
 アルアは逸るのを抑えきれない様子で、ラセフを呼びます。彼女は表へ出た時、ラセフやユディエの後ろについて歩くのが常でした。そのため自分の前を行ってはしゃぐ彼女の姿は、ラセフの目に新しく、より色鮮やかに焼き付きます。
「そんなに急かなくとも、街は逃げていかないよ」
 ラセフが歩のゆるやかなテンポを保ったまま冗談交じりに言うと、アルアはその場に留まり真剣な顔で返しました。
「逃げるのは、時間です。楽しい時間はすぐに逃げていってしまうと、母様は私の髪を梳きながらよく仰っていました。時間の進む速度は不変なのにと、長いあいだ理解出来なかったのですが、今になってその意味が、少しだけ分かったのです」
 彼女に追いつき、彼の革靴の底は休符を打ちます。
「ほう、どのように」
「父様と過ごしている時はとても短く、父様がいらっしゃらない時はとても長いと、感じるようになりました。理屈までは分かりません。時の流れとココロは、繋がっているのでしょうか。ココロが、時の流れを作っているのですか」
 思わぬ問いかけで、ラセフは答えに詰まります。
「心と時間における相関関係の真偽か。それはまた、難題だな」
 ただそれはとても興味深く、彼の中で未解決な別の問いに、新たな見解をもたらします。
 ふと、アルアは何かに呼ばれた気がして振り返りました。しかし周囲を見回してみても、行き交う誰も、彼女を気に留めている様子はありません。そうしている間に、身体を巡る循環液中のマイクロマシンが足先へ沈殿していくような、重く冷たい息苦しさに襲われていきます。
「どうした、アルア」
 彼女の異変に気づき、その肩に触れた矢先でした。足元が揺らぎ、連なる建物の窓硝子がざわめくように震え、街全体がどよめきます。
 アルアのココロが起動した時と、同様の状況でした。その揺れはいわば地震なのですが、今や人は、大空だけでなく大地――地殻やマグマといった地下の岩石部にも機械的な手を加え、また更に奥の金属核さえ管理下に置いて、それらの熱や流動のエネルギー、地磁気などを利用しながら、宇宙におけるこの惑星の天体活動を維持しているのです。故に自然現象としての地震はあっても、発生位置の予測、規模の調節が可能となっていて、通常であればこのように体感されるほどの地震はまず起こりません。ラセフや周囲の人々が驚いたのは、その前提が破られたためでした。
 ラセフが慌てて抱き寄せたアルアは、その腕の中で唇を震わせます。
「何か、何かが、訴えかけるのです」
 それについて訝しげに尋ねられる前に、彼女は続けて発しました。
「分かりません。ただひたすら苦しいのです。母様を失った時と似ています。言葉にしようがないのです」
 アルアが落ち着くまで、ラセフは彼女の背を撫で続けます。そうしながら、アルアの奇妙な話を頭で繰り返していました。
 街に刹那広がった動揺の色はすぐに薄れ、元の無色へと返ります。
 ユディエを埋葬した日と、今日と。2度起きたその地震に、ラセフはアルアとの因果を、茫漠と感じ取ったのでした。



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