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 ユディエの休暇が認められないまま、日は過ぎていきました。彼女はこの1週間一度も家へ帰らず、研究所に篭りきりです。本人の意向もあって無理に連れ戻す事は出来ないので、ラセフは今進行中の仕事に区切りがつくのを、ただ待つより他ありません。アルアの誕生日まであと2日ですが、彼女が約束した事を覚えているかどうか分からず、その予定についても、半ば諦めていました。
 夕食をとった後に書斎で製図していた彼は、いつの間にか机に伏し、眠り込んでしまいます。目を覚ますと、どれだけ経ったのか時間の感覚が無くなっていて、いつも身につけている懐中時計で確認しようとしました。しかしズボンのポケットに入れていたはずのそれがありません。どこかに落としたのだろうかと、ずれた眼鏡を直しながら寝起きの冴えない頭で考えていた時、目の端に銀のチェーンが映ります。
 彼の時計は机の上にありました。それを重しとして留め置かれた紙片に、ラセフは目をしばたかせます。その半分に折り畳まれた四角い紙片は、バースデイ用のカード。表側には、右隅に蝶結びの図柄と、誕生祝いの定型句が印されています。
 時計と一緒に手に取り、開いてみたところ、内には2つの言葉が手書きされていました。

 ――愛しい娘へ ココロを込めて
 ――限りがあるから アイは芽生える

 すんなりとは入って来ないその謎めいた文言に、ラセフは首を傾げます。ただ筆跡がユディエのものだった事から、彼女がこれを置きにここへ来た事は分りました。
 時計の盤へ目を移すと、どうした事か針が止まっています。構成部品の破損か電力機器の不具合かは気になるところでしたが、原因を探るのはとりあえず後回しにして、彼はユディエの部屋へと向かいました。
 その途中の廊下でカーテンを閉めて回るアルアに会ったのですが、見れば肩に掛かっていたはずの彼女の髪は、項が伺えるほどすっきり整えられています。
「その髪はどうしたんだね」
「母様が、切ってくださいました」
 尋ねると、アルアはにかむ表情を作って見せました。
「そうか、それは良かった」
 アルアの髪は、いつもユディエが丁寧に手入れしています。バースデイカードの件と合わせて、ユディエはアルアの誕生日の準備をするために仕事を切り上げてきたのだろうと、ラセフは考えました。
 彼女の部屋の前まで来て、彼は扉を叩きます。しかし返事がありません。
「ユディエ、いないのかい」
 真鍮のノブを回してみると、鍵は掛けられていませんでした。開けた隙間からうっすらと月影が零れます。何故か照明が切られたその中へ踏み込んだ時、ラセフは予測の一切を覆されて息を呑みました。
 窓を開け放された、水底を思わせる冷たい部屋。ユディエは、そこでうつ伏せに倒れていました。
 ラセフは名を叫び、駆け寄って彼女を抱き起こしましたが既に息は無くなっています。傍には、小さな薬瓶と蓋が転がっていました。カーテンが魂の抜け出ていった道を知らせるように、夜風にはためきます。
 置き去りにされた彼女の身体は、後にラセフを苦悩させる悲しみや悔いを具現して、腕に重くのしかかるのでした。


 何が彼女をそうさせたのか。それは理屈ですぐ解けるものではなく、そもそも、理屈をこね回すような気分にもすぐなれるものではなく。
 葬儀と埋葬が終わるまでの間、ラセフは自分の身を、心とは離れたところから遠隔操作している感覚でいました。寿命から解放された時代であっても、人の死因は寿命が尽きる事ばかりではないため、別れのための儀式は残っています。事件や事故の他、昨今は人工生体により『死なない身』となった者の脳が身体動作に関する出力信号を一定期間発しなかった場合も死亡とみなし、全機能を強制停止させて葬儀を出すのです。
 街外れの墓地は、皆同じ灰白色、直方体の墓を、等間隔で幾列も整然と並べています。その中のひとつ、刻まれたばかりの名の前に、喪の黒に身を包んだラセフとアルアはしばし立ち尽くしていました。
 追想するのは、アルアの衣装選びに夢中になっていた時の彼女。思えばあれが、ユディエの笑顔を見られた最後の日でした。彼女がそれを取り戻せると分かったあの時点で無理矢理にでも仕事を辞めさせていたならと、ラセフは自分を責め続けます。
 アルアも彼にならい、その墓を見ていました。顔を覆うベールはシェードのように、灯の入らないランプの火屋とよく似た瞳を、一層深く隠しています。
 永遠に沈黙した者達が音を連れ去ってしまったのかと思うほど、辺りは静まり返っていました。追想の世界は、その静けさが震わされると同時に途切れます。
 ラセフは、ズボンのポケットの中で金属が弾かれるような音と感触を覚えました。そこに入れているのは壊れた懐中時計。常に持ち歩いているものなので、壊れていても無意識にポケットへ押し込んでいたのです。
 奇妙に思いながらそれを取り出してみると、どうした事か止まっていたはずの3つの針が、互いの進む比率は保ったまま速度を上げ、忙しく回っています。そして現在の正確な時刻に到達すると一旦動きを止め、本来の動きを取り戻して再び時を読み始めました。
 その異様な出来事に、しかし驚く間はありませんでした。不意に襲っためまいのような感覚が、しかしめまいではなく大地の揺れと知ったのは後の事。更にそれが治まると同時に、ラセフの隣に立っていたアルアが、両膝を折る形で崩れ落ちたのです。
「アルア!」
 ラセフはとっさに身を屈め、その上体を支えます。はずみで彼女の頭からベールのついたヘッドドレスが外れ、下の人工芝へ落ちました。
 呼びかけても、アルアは目を閉じたまま反応しません。彼は彼女のはめている儀礼用の手袋を片方取り、その手首の内側を見ました。そこは人で言えば脈を測る箇所ですが、アルアの場合は小型のディスプレーが仕込まれていて、内部に何らかの異常があった場合はそこに原因のコードが表示され、身体の状況をある程度把握出来るようになっているのです。
 ただ、今回は何のエラーも確認されませんでした。表示にあるのは再起動を示す文字だけです。このような事は滅多にありませんが、ラセフはひとまず再起動の処理が済むのを待つ事にしました。
 彼の腕の中で、アルアは眠りから覚めるような緩やかさで目を開けます。
「アルア、私が分かるか」
 彼女は応答を遅延させていましたが、やがてラセフの言葉に対し、小さく唇を動かしました。
「はい、父様」
 促されて彼と一緒に立ち上がると、まだ覚めきらない鈍い動作で、周囲を見回し始めます。ぼんやり、という曖昧な表現が当てはまるその視線は、ユディエの墓標で焦点を定めました。
 手招かれるように歩み寄って、アルアは少しの間、姿が映るほど磨き上げられた面を見つめます。片方残っていた手袋を取り、その指で直接、眠る彼女の名に触れました。
 アルアが見せる、おぼつかなく、まるで漂うような一連の行動。それはラセフにこれまではと異なる何かを、感じさせました。
「母様は、もういらっしゃらないのですか」
 発せられた言葉が、一陣の風となって彼の胸をさざめかせます。
「ああ、いないんだ」
 その風に心をさらわれたまま、ラセフは自分が答えるのを、遠いところで聞いていました。
「会う事は、叶わないのですか」
「死んでしまった者とは、もう会えない」
 それだけ尋ねて、アルアは口を閉ざしました。墓標から力なく手を下ろした後も、その場を動こうとはしません。ラセフが側に来ると、彼女は握っていた手袋を落とし、うつむいて両手で顔を覆いました。
「アルア」
 彼女は、首を横に振ります。
「私には、分かりません。今、どのような顔を作ればよいのですか。言葉に変換出来ないものも膨大で、負荷が喉元を熱くして、痛くて、どうすればよいのか、私には――」
 ラセフは何も言わずに、彼女を抱きしめました。言葉に表せないものの伝え方を教えるように。
 ユディエの遺した言葉の1つが、ラセフに確信をもたらしました。

 ――愛しい娘へ ココロを込めて

 言葉通りの意味で、アルアはユディエによって『ココロ』のプログラムを、与えられたのです。
 銀の時計が動き出したのは、5年前の今日にアルアを初起動させたのと同時刻。そして喜ばしい誕生日に授かった、そのココロが最初に知った感情は、死別の哀しみでした。



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