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「せっ、先輩……どうして、こんなとこに」
「ここ、俺の場所」
 確かにここは日頃、徳永先輩が時間を潰すためによく一人で過ごしている場所だ。というかここで彼と知り合った過去があったが故に、俺は殆ど人が来ないこの場所の事を思い出し、北原を連れて来たわけで。
「……いつ、から」
「お前等が来る前から」
「どこに――」
「そこの裏」
 先輩は校舎の壁の張り出したところを指す。その陰に居たと。
「じゃ、今の話」
「全部聞こえた」
 頭を抱え込んだ俺に、徳永先輩は聞いてくる。
「蹴り一発で昏倒させられたって言うから、てっきりゴツい男が相手だと思ってたよ。手加減でもしようとして、失敗したか?」
「……手加減なんて出来る相手じゃないです、組手競技で何度か全国大会まで勝ち上がっている実力者なので」
「ほお、見かけによらねえな。何にしろ、やりづらかったんだろ」
 ぎくりとする。
「いっ、いや可愛いと思ったからやりづらかったとか調子が狂ったとかでは決して――……あ」
 聞き流してはくれず、彼は意外そうな目で俺を見る。
「……可愛いと、思ったって? 今時バカみてえに品行方正でお堅いお前が? 真面目な試合ん時に? へえ……」
 ……痛むところを探られて、口が滑った。
 俺があの試合での事故に関して、心情として特に天瀬には知られたくない『ある事実』とは、実は対戦相手を見てほんのいっとき、心を乱してしまった事だった。
 試合の組み合わせが決まって挨拶した際、ぴょこぴょこ元気かつ礼儀正しい北原に、俺は胸を跳ねさせられてしまったのだ。とても可愛い子だ――と。
 彼女の力の程は聞き及んでいたし、そうでなくても女子や年下だからってみくびるような礼を欠く真似などするわけがない。それに雑念が競技中の集中力欠如に繋がったわけでも絶対にない、と強く主張したいところなのだが、如何せん結果がこのザマとなったばかりに自分の中で一切の言い訳がきかなくなり、微妙なやましさが残ったのである。
 徳永先輩に打ち明けた時にもそこだけは伏せたのだけど、自爆してしまった。にやつく彼に、俺は弱味を握られた気分になって恐る恐る乞う。
「……あの、この話は、誰にも」
「別に、お前の笑い話を聞かせたい奴なんざいねえけど。天瀬くらいか」
 それが一番困るんです先輩――。
「ま、演劇で泣かせてもらったしな。黙っといてや――……あ」
 言ってしまってから、徳永先輩ははたと止まる。
「……泣いたんですか」
「……泣いてねえよ」
 果たしてあの劇に、泣かせどころなどあっただろうか――と演じた側の俺は遠い目になるが、猫と三男が抱き合うというより締め上げ合った例の滑稽なラストは、観客視点ではちゃんと感動を呼べていたようで。何より文化祭への出席を巡って演劇で一本釣りした徳永先輩が、そこまで思い入れるほど楽しんで観てくれたなら諸々苦労した甲斐があったというものだ。
 それにつけてもこの場所では徳永先輩も俺も、秘密を明かしてしまいがちである。
「面白がって牧村とかに言うなよ……」
「先輩も黙っていてくれるなら……」
 気まずい空気を、突然真横からの声が吹っ飛ばす。
「いたあーーーーーっ! 高峰君っ!」
 校舎の一階窓より、たったいま名前の出た人物が身を乗り出していた。
「るっせーな牧村! 耳痛えだろ!」
 鼓膜に直撃を受けて怒る徳永先輩。だが牧村先輩はそちらに構わず、俺に向けて息巻く。
「そこ、動かないで! すぐ靴に履き替えてそっち行くから! 逃げちゃ駄目だからね、絶対! そこに居てよ!」
「はあ……」
 しつこく念を押し、びしゃりと閉められる窓。
「……お前、何やらかしたんだよ」
 徳永先輩にもそう思われるほどの剣幕だったが、身に覚えがない。思い出す間も与えない速さで校舎裏まで回り込んできた牧村先輩は、俺に詰め寄った。
「聞いたわよ女の子を泣かせてたって! 風紀委員が風紀を乱してどうするの!」
 目眩がした。間違いなく、つい先程グラウンドで起こしてしまった騒ぎの件だ。
「いえあの、それは完全に誤解……というか誰からその話を」
「誰も何も生徒の間で噂になってるの! 孝史郎君が別れた女の子に押し掛けられて、殴られそうになってたって」
 洒落にならない尾ひれがついた噂とやらに、膝から崩れ落ちそうになる。
「ちょっと、待ってください……彼女とはそういうのじゃなくて、偶然、久しぶりに会っただけで……」
「ホントにい? だって居合わせた子達がそう見えたと――」
 噂に上がっている女の子というのが北原である事は、騒ぎを見ておらずともここで泣く彼女を見た徳永先輩には察しがついたらしい。たじろぐ俺を見かねてか、口を開く。
「空手の知り合いだとよ。さっきまでここに居て孝史郎と話してたが、それ以外に何の繋がりもねえのは横で聞いてりゃ分かった。殴られそうにってのは、多分こいつらの挨拶みてえなもんを周りが勝手に勘違いしたんだろ。信じてやれよ」
「徳永先輩……」
 彼が全面的に肩を持ってくれた事にいたく感動して、俺は泣きそうになる。
 頭に上っていた血が急速に下がり、牧村先輩は考え直す。
「……そう、なの? そっか、そうよね……そもそも品行方正でお堅い高峰君に、不埒な女性遍歴があるはずないわよねえ。私ってば、びっくりして鵜呑みにしちゃって」
 意図せず重ねられた言い回しに、今し方かさぶたを剥がされた俺の古傷がまたちくちくする。
「……空手で、一度対戦した子なんです。本当に、ただそれだけです」
 そう伝えると、牧村先輩は俺に手を合わせた。
「うん分かった、信じる。ごめんね、普段信頼していろいろと仕事お願いしてる高峰君を、庇うどころか疑うなんてどうかしてた」
 コクミツが誤解された時に続き、孝史郎の俺も徳永先輩に救われた。猫一匹分上乗せしてありがとうございます、と彼に感謝を述べると、別に、とそっぽを向かれた。
 俺は牧村先輩に向き直る。
「分かってもらえたところで相談なんですが、その……先輩の力で、広まっている誤解を何とか解けませんか」
 この件をどうにかしなければ全校生徒の俺を見る目が変わってしまい、今後の高校生活が地獄と化す。
「私の力って、うーんそんな大それたものはないけれど……風紀委員会の信用にも関わる事だし、やってみるわね」
「ありがとうございます……」
「まあみんな日頃高峰君の真面目な姿を見てるわけだから、何もしなくても噂の内容が有り得ないってすぐ分かるだろうけど。今はお祭りムードの高揚が手伝って、囃し立てちゃってるところもあるんじゃないかな」
 だといいのだが。多くの人間に知られているほど、伴う話題も周知されやすく、悪い事は出来ない――。そう身に染みて、俺はつくづく肝に銘じたのだった。
「だけど噂の女の子が泣いたっていうのは、事実なのよね? どうして泣いたの? 高峰君と偶然会えて、そんなに感極まっちゃった? それはそれで興味あるなあ。どんな子か、私も会ってみたかったな」
 そこのところに牧村先輩が食いついてきて、俺の目が泳ぐ。
「え、と……二年振りの、再会だったので……。来年の春まで待てば、先輩も会えると思います」
「来年?」
「いま中三の受験生で、高校はここが第一志望だと言っていましたから」
「わあ、そうなんだ! って事は今日文化祭へ来たのは、志望校の見学が、目的――」
 手を打って言い掛けた牧村先輩は、はっと徳永先輩に目を向ける。
 中学三年生。志望校。文化祭――。居合わせる三人共が、同じ出来事を思い出した。
 徳永先輩が、背を向けてこの場を去ろうとする。
「待って!」
 牧村先輩は彼を呼び止め、できればもう一度話をしたい、と言っていたそれについての口を切る。
「文化祭に出てくれて、ありがとう。でも私の件がなかったら、徳永君は本来、ここには居ないはずなのよね……」
 振り返った徳永先輩は一度牧村先輩に目をくれた後、俺の方もちらりと見てきた。
「あ、高峰君にだけは話したの。私の代わりに、あなたを説得してもらったから」
 二人の込み入った事情を既に俺が知っていると分かり、徳永先輩は舌打ちする。彼に視線を逸らされても、牧村先輩は続けた。
「高校生に囲まれて、からかわれていたのを助けてもらった中学のあの時以来、私はずっと、徳永君に庇われ続けてるんだと思ってる。私に、何も話さない事で。……河西高校、第一志望だったんでしょ?」
「……違う」
 これまでこの話に取り合わなかったという徳永先輩が、初めて応じた。
「もういいの、いくらだって責めてくれて構わないの。だって私に関わったせいでその進路を絶たれていなかったら、今頃はそっちに――」
「違うっつってんだろ! 勝手に思い込んでんじゃねえよ、俺の第一志望は最初からここだ」
「嘘! じゃあ何で河西高校の文化祭にまで遥々出向いたの? 志望校だったからとしか考えられないじゃない!」
 徳永先輩の眉間の皺が深くなる。
「……お前も所詮、俺の言う事を信じねえクチかよ」
 牧村先輩にも、その言葉は二人の関係に亀裂が生じる音に聞こえたのではないだろうか。彼女の表情が強張るのを見て、そう感じた。
 俺はそこで差し出がましくも口を挟んでしまった。
「『言わない事』の方を、ずっと信じてきたからだと思います。それが、徳永先輩の優しさだと」
「は?」
 俺も徳永先輩に睨めつけられる。
「……横から、すみません。でも言わせてください。徳永先輩は、もう過ぎた事を牧村先輩に気にしてほしくなくて、この話題を突っぱねていたんじゃないですか? だけど負い目のある側は、事実を知りたくても知りようのない状態が続くのはすごく不安で、思い込みが強くなって……だからいざ本当の事を打ち明けられた時に、素直に信じられなくなっていても無理はないんです。そこだけは、分かってもらいたくて」
 北原がそうだったように。徳永先輩が牧村先輩に対して心を閉ざす結果には、なってほしくなかった。
「高峰君……」
 徳永先輩は髪を掻き毟って怒鳴る。
「じゃあ俺にどうしろってんだ! 言っても言わなくても終われねえじゃねえかよ!」
「殴って」
 出し抜けに、牧村先輩がぶったまげた事を発する。
「ま、牧村先輩、それはいくら何でも――」
「高峰君は黙ってて。言ったでしょ、私は初めて徳永君に話し掛けた時に限らず、いつぶん殴られても構わない覚悟で今までいたの。本気よ」
 流石に、徳永先輩がこれを真に受けるわけは――という俺の見込みは、大外れする。
「……ああそうかよ、お前がそうまでしてけじめつけたいってのはよおく分かった。なら目ぇ瞑って歯ぁ食いしばれ。俺は誰かと違って女相手でも容赦しねえからな」
 誰かと違って、って――。いや今はそんなところを気にしている場合じゃない。大変な事態となり、一歩踏み出した徳永先輩の前に立ちはだかる。
「徳永先輩やめてください、絶対駄目ですって……!」
「どけよ」
 彼は聞き入れてくれず、ポケットから抜いた手で俺を横に突き退けた。その手が握り込まれ、慌てて再度二人の間に割り入ろうとした俺は、しかし途中で『目に入ったもの』に意表を突かれ、踏み止まる。
 牧村先輩は言われた通り固く目を瞑り、ぐっと食いしばっている。晒された彼女の左頬を目掛けて、加えられる制裁。
 ……きっと牧村先輩は、容赦しないと言われた割に、頬を叩いた感触がやたら柔らかくて軽いと思った事だろう。
 そうっと目を開けて、彼女は真正面の徳永先輩を見る。彼の左手にあるのは赤インキのスタンプ台。そして右手にあるのは――。
「……ゴム板?」
 牧村先輩の頬には、『猫の顔』がばっちりスタンプされていた。彼女はここへ来る前に校舎の中から開け閉めした窓へ駆け寄り、そのガラスに自分の顔を写し見る。
「えっ……えええええ?」
 牧村先輩が徳永先輩にひとつ頼んだと言っていた、スタンプラリーに使うオリジナルスタンプ用のゴム板彫り。彼はちゃんとやってきていたのだった。
「今日一日その顔でいろ。誰にも理由を言うな。それでこの話は終わりだ、金輪際話さねえ。いいな」
 思わぬ罰ゲームを課され、牧村先輩は駆け戻る。
「ちょっと、ゴム板彫ったのなら提出してくれればよかったじゃない! 使えなくて勿体ない、せっかくこんな可愛く出来てるのに!」
「……だから出しづれえと思ったんだよ、ほっとけよ」
 徳永先輩が若干の照れを隠しながら返す。まめさが高じて掛けた手間で、思いのほか可愛く出来上がってしまったらしい猫スタンプ。よく見ると縞柄が入れられている。どうやらモデルは、ユキチだ。
 ゴム板とスタンプ台を元の小袋に入れてポケットへ押し込み、この話をするのは今日限りと決めた徳永先輩は、牧村先輩をもう事実を知りたくても知りようのない状態に陥らすまい考えてか、残る疑問にも答えてくれた。
「もう一度だけ言っとくが、俺の志望校は河西なんかじゃなかった。一回も進路希望に書いた事ねえし」
「それが私には不思議なの、徳永君なら学力的に十分だったでしょ? 将来を考えたら、よりレベルが高いところへ行くに越した事ないのに」
「誰があんなクソ遠いとこに好き好んで通うかよ、家出る時間が滅茶苦茶早くなって朝寝てらんなくなるだろ! 家から一番近いここ一択だっつの!」
 ……徳永先輩が低血圧で朝にものすごく弱いという事情を知っている俺と牧村先輩にとっては、この上ない説得力だった。三年間通う事になるのだ、学力だけで決めず、自分の身体と生活スタイルに適する学校を選んだ彼は正しい。
「な、なるほどね……なのに、河西の文化祭に出向いたのは……?」
「学校で配られてた文化祭のチラシに、ベビーカステラのフードチケットがついててよ。それ見た妹が食べたがったんで、引き換えに行っただけだ。結局手に入れられねえで帰る事になって、家で大泣きされたがな」
 当時はまだ幼稚園にも入っていないほど幼かった妹のみゆちゃんが、どうしてもチラシに載っているのと同じ物が食べたいと癇癪を起こし、聞き分けてくれなかったという。その日はいろいろ大変だったろうに、それでも帰宅後に懸命に妹を宥めすかす徳永先輩の姿を想像したら、少しほっこりした。
「あと、もう一つだけ――。どうして見ず知らずの私がからかわれているところに飛び入って来て、河西のあの人を殴ったの?」
 最後の最後となる問いに、徳永先輩は少しだけ物思う素振りを見せた。
「……てめえの代わりに人に恥かかせてやり過ごしてる賢い奴がむかついたのと、一人で突っ込んでって爆死してる馬鹿な奴が、嫌いじゃなかったからだよ。じゃあな」
 高校入学後、周りから煙たがられている自分に物怖じせず一人で突っ込んできた唯一の同級生にそう返答し、彼は踵を返す。
 去る背を見つめながら、頬に押された平和の象徴であるユキチ印をそっと撫で、牧村先輩は嬉しそうに笑っていた。



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