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 文化祭が終了した翌日の学校は振り替え休日で、俺は最近あまり町内を回れていなかった分、今日は丸一日コクミツとしてボス猫の仕事に専念しようと決めていた。
 いつも通り龍彦の家から出掛けるが、その前に孝史郎の身で柔軟体操。開脚前屈で畳に伏した俺を、折り畳みテーブル越しに龍彦が眺める。
「お前は相変わらず猫並みに柔らかいな」
「実際、猫だしな」
 孝史郎とコクミツが一つになれたのは、両者がよく似ていて相性が非常に良かった故。それは精神面のみならず身体面も併せての事であり、受け入れ側の孝史郎が、猫の柔軟性やボスの強さに近似する身体能力を備えていた点は大きい。
 ちなみに町という縄張りを守る『ボス猫』は元来喧嘩によって決まり、勝利した強者が必然的になるもの。余所からの侵略や内紛などがほぼ起こらず、力の行使を求められる機会が無きに等しい葦沢町においては基本話し合いで決められるが、それでも何だかんだで最終的に選ばれるのは毎回、『喧嘩に最も強いであろう者』。例に漏れずコクミツの俺も、客観でそう認められるくらいには強いのだ。
「――話戻すけど、ほんとに天瀬は誤解しないでいてくれたんだよな?」
「事情が分からないまま疑っちゃ駄目だって、俺と梶居に一生懸命言ってたから多分な」
 天瀬とは昨日グラウンドで別れたきり、会っていない。そのため彼女が俺と北原の事をどう捉えたのかが窺えず気にしていたのだが、後の様子をようやくちゃんと聞けて一安心する。
「やっぱ優しいな……あんな状況でも、俺を信じて庇ってくれたなんて」
「んー、ただどっちかっつーとお前を『信じる』というより、目の前の展開を『認めない』って感じに見えたんだよなあ。だとしたら、それってさあ――」
「どう違うんだ?」
 問うと、龍彦は頬杖をついて問い返してきた。
「分かんねえか?」
「どっちにしても、風紀委員の俺が風紀を乱すような真似をしないと一番に理解してくれたって事だよな。違うか?」
「……まあ、いい。あ、俺もちょっと柔軟やるわ。手え貸してくれ」
 彼は自分がそこに乗せた話題ごとテーブルを横に退け、空いたスペースで長座位になる。放置された答えは気になったが、前屈させるべく龍彦の背中を押し始めたら、その身体の硬さの方がもっと気になった。
「……お前も相変わらずだな。普段からちゃんと柔軟やっとけよ、部活の試合で勝つ前に怪我したら困るだろ」
「いててて、俺は小さい頃から格闘技やってたお前とは違うし……。そういや俺も、お前が空手で怪我した時の試合相手がどんな奴だったかまでは聞いてなかったな。それがあんな可愛い子で、お前がそんなこと悩んでたなんてよ」
 龍彦にすら明かさずにいた真相に、俺はまた羞恥を覚える。
「……だから天瀬には余計に、そこに触れる過去を丸ごと黙っていたいんだよ」
「ま、やましく思うほどのもんでもないだろ。聖人じゃあるまいし、俺等の年なら普通だフツー。って言ったところでお前の気持ちの問題だし、気にすんなで解決できるもんじゃないのは分かるけど」
 彼の言う通り、これは俺の気持ちの問題。自分で自分の未熟さを認めるより他に解決法はない。
「来年北原が入学して来たら、いずれあの試合の事自体は知られるだろうしなあ……」
 それを聞いた龍彦は俺の手に逆らって上体を跳ね起こし、振り向く。
「えっ、あの子うちを志望してんのか?」
「ああ。で、俺が貸したハンカチを必ず入試に受かって来年の春に返しに来るからって、持ってった。受験の御守りにさせてくれって」
「……孝史郎の、ハンカチを? 御守りに……? お前、それってよお――」
 その驚かれようを奇妙に思いつつ、無問題だと返す。
「ハンカチの替えくらい一杯あって困らないし、返しに来るんだっていう意志を持つ事で北原の受験勉強が捗るなら、俺は全然構わないけど」
「……いい。もういい」
 また呆れか諦めみたいな表情で流され、俺はむっとする。
「何なんだよさっきから、言いたい事があるならはっきり言えよっ」
 彼の背を両手で強く押し返し、更に体重を乗っけて訴える。
「いででででで言えなっ……無理無理無理無理っ!」
 龍彦の叫びを知らんぷりで流してやり返す。
 まだ確定していない先についてをごちゃごちゃ考えたって仕方がない。今は自分の問題とは切り離して、ただ北原の入試合格を祈るのだった。
 
 
   ***
 
 
 刈り入れが済んで久しく、稲の切り株も茶色く枯れて眠りについた田は、秋から冬へと大きく開かれた道のようになって、閑々と風を通している。
 堤字の畦道でその風に伴走し、班長猫ホクテンを探していた俺は、ヤエばあちゃん家の裏手で『猫だかり』を目にする。最初あれがカマボコとチクワの違いについて議論しているメンツだろうかと思ったが、違った。
 そこに交ざっていたホクテンがいち早く俺に気づき、急いで駆け寄って来る。
「ああコクミツ、良いところに来てくれた」
「どうした」
「あそこで猫が一匹、行き倒れているんだ」
「何だって?」
 心当たりといったら、例の尋ね猫以外になかった。ホクテンについて行き、猫だかりへ割って入る。
 そこに横たわっていたのは、浜に打ち上げられて干からびたナマコ……ではなく確かに猫。黒くこびりついた泥や灰や煤のせいで元の容姿が全く窺い知れず、何者なのか不明だが、今それは後回し。
「おい、大丈夫か! 息は――」
 あるのか、と前足で触れようとした矢先、猫の空きっ腹が盛大な返事をし、俺の脚はびくりと引っ込む。
 ホクテンは対応に苦慮していた。
「とにかく暖かいところへ連れて行って何か食わせてやりたいのだが、動かしようがなくてな……」
 意識もあるのかないのか定かでなく、起き上がれそうにない猫を囲って皆で頭を悩ませる。人に助けを求めたくても、困った事に周辺には誰の姿も見当たらない。最終手段となるが一旦帰って孝史郎になり、通りすがりを装って保護するより他ないか――と考えていた時、ススケがやって来た。
「何事だ、こんな所に集まって」
「行き倒れの猫がいてな、どうしたものかと参っているんだ」
「何?」
 ススケは答えた俺の横まで歩を進め、自分と同じ長毛らしき汚れた猫を確認する。そしてすぐに身を翻した。
「待っていろ、梅じいさんを呼んで来る」
 確かに鈴音の湯の梅じいさんが来てくれれば、猫を連れ帰って手厚く介抱してくれるに違いない。ただその発案には難点が一つ。
「呼んで来るって、猫の言葉が通じないのにどうやって?」
「伝わる」
 きっぱり言ってのけて颯爽と駆り行くススケの後ろ姿に、俺は彼と梅じいさんとの確かな絆を見た。



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