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 返事を待たずして、その子は確信する。
「ほんとに、ほんとに高峰さんだあ! 良かった、生きてる……!」
「え、生き……?」
 高めに結わえた後ろ髪を跳ねさせ、大胆に俺の両手を握ってきた。キラキラとした眼差しを向けられても、何が何やら。コクミツと違い、孝史郎の俺には過去に死ぬような目に遭った覚えなどない。しかし、彼女の事は何処かで見覚えある気がした。
「ごめん、誰……だっけ」
 生きて再会できたのを喜んでもらえているところ大変申し訳なかったが正直に尋ねると、彼女は慌てて俺の手を離し、後ろへ飛び退いた。
「す、すみません! そうですよね、一度会ったきりで、今は制服だし、背も髪も伸びたし、名乗っても名前、覚えてもらってないかもだし、どうしたら――。あ、そうだ!」
 すぐに何か思いついた素振りを見せたかと思うと、今度は唐突にびしりと姿勢を正し、俺に礼をし始める。
「一体、な――」
 口にしかけた戸惑いは、頭を上げた彼女の変化を前に、引っ込む。
 凛と締まった顔つき。気迫というものに久しく相対していなかった俺は、構えた彼女が引く手を目で捉えながらも、全く反応できなかった。
 一歩踏み込まれた刹那、繰り出された正拳突き。息を呑んだのは、その拳が眉間の手前で寸止めされた一秒後。
 真っ直ぐな腕と眼差しに、『彼女と会った日』の記憶が蘇る。
「……あ……もしかして前に試合した、えっと、北原――」
「そうっ、そうです! 北原舞花(きたはら・まいか)です! あの時の、あの、ときの――」
 俺が思い出した事で、彼女はまた笑顔全開なった。……かと思いきや、見開かれた大きな目から、途端に大粒の涙がぽろぽろ零れ出す。
「――ごめんなさい、ごめんなさいっ! 私が悪かったんです、嫌われて連絡を絶たれたのも分かってます、でも私、貴方が忘れられなくて、苦しくて……!」
「えっ、あの、ちょっと待って? その話は――」
 ころころ転じる感情と態度に、まるでついていけない。
「……孝史郎、お前」
 龍彦の声にはっとする。気づけば俺と北原は、すっかり衆目を集めていた。
「何の騒ぎ?」
「風紀委員が一般の子を泣かしてるぞ?」
「痴話喧嘩っぽい」
 とんでもない誤解を招く状況にあり、焦る。
「ちが、そういうのじゃ――」
 俺にとっては、ひたすら驚いている様子の天瀬の視線が一番痛かった。天瀬にだけは、俺が女の子を泣かせるような行いをしただなんて思われたくない。けれど厄介な事にその誤解を解くため説明するとなると、話したくない事をひとつ打ち明けなければならなくなってしまう窮地。
 何にしても、まずはわんわんと泣いて止まず、発する言葉も涙でぐしゃぐしゃで聞き取れない状態の北原を落ち着かせなければどうにもしようがない。事が大きくなるばかりだ。
「向こう、一旦向こう行って話そう、な、こっち!」
 泣き続ける彼女の腕を引いて、俺は人の多いグラウンドからそそくさと退避した。
 
 
 校内で最も人気のない所、で真っ先に思いつき、行き着いた西側校舎の裏手。前に徳永先輩と語らった場所だ。文化祭中でもここだけは出し物もなく通路にもなっておらず、まず人は来ない。
「これ、使って」
 とにかく泣き止んでくれないとまともに会話が出来ないので、俺はハンカチを差し出す。偶然にもそれは、徳永先輩に貸したのと同じハンカチだった。
「あ、あいがどうござひますうっ!」
 ……流石に、彼女にまでは鼻をかまれなかったが。
 涙が拭われ、少し落ち着いた頃合いを見て話す。
「二年振り、かな。よく俺だって分かったね、今こんな格好なのに。まあ周りに名前呼ばれてたし、気づくか」
 少しでも和ませようと猫耳を触りつつ言うと、北原は赤くなった目で、改めて俺を上から下まで見た。
「格好? 言われてみれば、可愛い猫……ですね。全然お変わりなく見えてました」
 やっと笑ってくれたはいいが、その意味を一体どう受け取ればいいのか。返しに困っていたら、北原の方から例の話題を切り出してきた。
「私が上段回し蹴りを頭に当ててしまって、高峰さんが病院へ運ばれて行って……。あの時の事と高峰さんのお顔は、忘れるなんて出来ません」
 そう、以前ここで徳永先輩に話した、俺が空手をやめた出来事。事故ったその練習試合の相手というのが彼女、北原舞花なのだ。
 北原は、後の俺の事を何も知らないはず。知る人達に、彼女の耳には入れないでほしいと俺が願ったためだ。にしても何故、俺を死んだなどと思うに至ったのか。彼女は経緯を話し始めた。
「うちの師範と両親からは、高峰さんの検査結果はどこも異常なしだったそうだから安心していいって、説明されました。でもお詫びに行きたいと私が言ったら、先方に断られたって、揃って止めてきたのをすごく不自然に感じたんです。普通なら断られても、どんな非難を浴びるのも承知でお詫びをしに行かなければならないところじゃないですか。だからもしかしたら、私の負わせた怪我が元で会って話すのさえ難しい状態になっているか、最悪、もう二度と会えない――死んじゃった事実をひた隠されてるんじゃないかと思って、そう周りに聞いてみていくら否定されても、信じられなくて――」
 ……なかなかに思い込みの激しいタイプと見受けながら、黙って続きを聞いた。
「――耐え切れずに、高峰さんの所属道場の場所を調べて、一人でこっそり伺ったんです。そちらの師範に来た訳を話したら、高峰さんはあの後、道場をやめたと告げられました。そこでも死んでなんかないと笑って流されましたけど、やめた理由や連絡先まではどうしても教えてもらえなかったから、結局疑念は晴れなくて、この目でこうしてお姿を見るまで、気掛かりなまんま今まで……」
 涙声で語る北原に、俺はすまない気持ちで一杯になった。
「……ごめん、そんなに悩ませてるなんて知らなかった。ほら、見ての通り元気で生きてるよ。だからもう気にしな――」
「そんな、高峰さんが謝らないでください! それに死んではいなくても、空手をやめてしまった原因は、あの時の後遺症か何かがあるせいなんじゃないですか? そうとしか考えられません。だとしたら私はやっぱり、取り返しのつかない事を」
 俺は焦って首を横に振る。
「い、いやそれとは関係ないよ。翌年が中三で、高校受験に身を入れたくてすっぱり――」
「ごまかさないでください!」
 びしゃりと言い放たれ、半端な口は噤まざるを得なかった。
「嘘で庇われるのは、もう沢山なんです。ほんとの事を……本当の事を、ちゃんと私に教えてください……!」
 北原は向き合おうとしていた。俺にも、自分自身にも。きっと一途で、道理を曲げるのが大嫌いなのだろう。それに対し、彼女のためと称して逃げを打つのは甚だ不誠実だ。
 そう思い直した俺は、北原に面と向かう。
「……昏倒した時に打って脱臼した右肩が、関節の損傷で外れやすくなったんだ。空手の競技は外れるリスクが大き過ぎて関節をますます痛めかねないからって、医者に止められた。それで、やめた――」
 嘘偽りなく告げる。やめる決心をした時のつらさも、隠せやしなかった。北原は目に溜めた涙を零すまいとするかのように、唇をぎゅっと結ぶ。
「――北原を嫌ったわけじゃない、負い目になりたくなかったんだ。怪我は承知でやってて、避けられなかったのも自己責任だから。けどそう思って何も知らせなかった事が逆に北原を苦しめてしまったなら、そこは、頭を下げたい。このまま気に病み続けられるのだって御免だ」
「それじゃ、私はどうしたらいいですか? 高峰さんに何が出来ますか? いくらお詫びしても足りな――」
「あの試合、まだ終わってないよな」
「え?」
 にわかに話が飛び、北原はきょとんとする。
「最後の『礼』が済んでない。俺が途中退場したもんな。だからお互い詫びるよりも、俺は礼で、この事を終わらせたい。俺が北原に望むのは、それだけだ」
 俺は猫耳を外して足元に置き、直立する。彼女は驚くも、試合相手の顔に戻った俺に即座に反応し、同じ姿勢で向かい合う。
 双方一歩引き、同時に礼をする。二年の長きに渡った試合のそれは、両者が頭を下げている時間も相応に長くした。
 ――これで、おしまい。
 呼吸が合い、頭が上がるのも一緒になる。北原はハンカチと袖で涙をごしごし拭って、晴れやかな笑顔を見せた。
「ありがとう、ございましたっ! こんなふうにけじめをつけられるなんて、全く思ってもみなかったんですけど……不思議なくらい、気持ちが楽になりました」
「良かった、俺もすっきりしたよ」
 自然と口元が綻んだ。張り詰めていたものも解けて、何だか急に照れ臭くなる。平静なつもりで拾い直した猫耳を、またつける必要など特になかったと気づいたのはだいぶ後。照れ臭ついでに、話を付け加える。
「ああ、あと競技からは離れたけど、今でも自分で加減しながらの一人稽古はやってるよ。やっぱり習慣で、時々身体を動かしたくなってさ。でもさっきの北原の突きには参ったよ、全然動けなかった。勘が鈍らないように、もっと対人のイメトレしとかないとな」
 北原は跳ね上がった。
「そうなんですか! 繋がりが切れてなくて嬉しい……! それにしても高峰さんて、お優しいんですね。ずっと心に留めていた方なのに、思えばこうしてお話しするのも初めてで……あ、お借りしたハンカチ返――うそ、やだべしょべしょ! すみません、お返しする前にきちんと洗って来ます……!」
 にわかに慌て出す彼女に、俺は笑う。
「そんなのいいよ、ハンカチ一枚のためにわざわざまた来てもらわなくたって」
 すると彼女はそのハンカチを胸の前で握り締め、思い切ったように願ってきた。
「あのっ……あの、差し支えなければ……これをお返しするの、来年の春まで待って頂けませんか?」
 俺は小首を傾げる。
「来年の、春?」
「私の第一志望、こちらの高校なんです。必ず、必ず受かって返しに来ますから……それまで、受験の御守りにさせてください!」
 そうだ、北原は俺の一つ年下で、今は中学三年。受験生だ。彼女がこの葦沢高校の文化祭に足を運んだのは、きっと志望校の見学をしたかったからだろう。
「そっか、ここが……。分かった、そういう事なら。春まで待ってるよ」
「ありがとうございます! 高峰さんがここに通っていらして良かったあ……! では、失礼しますっ!」
 しゃきしゃきと礼をして、すっかり元気を取り戻した北原は吹き抜ける風の如く、駆け去って行った。
 やれやれ、と気を抜いたところに聞こえた声。
「は、あいつが孝史郎をぶっ倒した相手ねえ」
「そうなんです、あのとき女子の参加は北原一人だけで、一番背格好の近い小柄な俺が対戦する事、に――」
 ナチュラルに応答してから、仰天する。振り向いた先でズボンのポケットに両手を突っ込んで立つ徳永先輩に対し、俺は動揺を露わにしてしまった。



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