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 この棟の三階には、三年生の教室が並んでいる。三年生は受験勉強が忙しいため、クラス単位での出し物は行わず、夏休みの個人制作課題を特別教室で展示するに留めている。だから教室を使った催しがなく、生徒も他所へ見学に出ていて今は誰も居なかった。
 猫の嗅覚は、犬ほど優れていないが人よりは遥かに利く。足跡が目に見えなくても、匂いだけで十分追跡できた。
 その駆けていく幻影が、教室の一つへとするり逃げ込む。俺もそこに入って行った。
 静まり返った室内。何の気配もないのは、猫が気配を消すのが上手い動物だからだ。でも俺には分かる。教室の後ろ側から、正面にある教壇の卓に向かって呼びかけた。
「そこに居るんだろう。怖がらなくていい、俺は君を助けたいんだ。今、そっちへ行くから」
 脅かしてしまわないよう、自分は敢えて気配を消さずに近づく。
 回り込んだ教卓の下には、確かに先ほど遭遇したメス猫がいた。奥の隅で長いソーセージを咥えたまま姿勢を低くし、汚れで黒くごわついた毛を刺々と逆立てて俺を威嚇する。
「ああ、ここまでひとりで怖かったな。もう大丈夫だ、落ち着いて、話を聞いてくれ」
 眼はしっかと見開かれ、俺の姿を捉えている。しかし耳は怯えのせいで伏せられ、俺の言葉を受け付けてくれない。
「俺と一緒に、この建物から出るんだ。そうしたらもう誰も追いかけて来ない。安全なところへ行けるから」
 説得を試みても、小刻みに震えるばかりで何の返しも得られない。口のソーセージを離させない限り無理か、と思った刹那、すぐ隣の教室からけたたましく扉を開ける音と振動が響いてきた。
 猫は飛び上がって驚き、はずみで咥えていたソーセージを落っことした。改めて声をかける間もなく、教卓の下から飛び出て一目散に開いている窓へと向かう。
「あっ! 駄目だ、ここは三階――」
 止めようとしたが、猫は既に窓の外。心臓が止まる思いで窓に駆け寄り、猫が踏み台にしていった机から身を乗り出して下を見る。
 幸い、真下には白いテントが並び立っており、猫はその屋根の一つに受け止められて事無きを得ていた。そこは午後の来客用の休憩所でこの時間には人がなく、猫は屋根から跳ね降りると誰にも気づかれずに、敷地外に出られる垣根へと消えていった。
 ほっとしたのも束の間。
「見つけた! 泥猫!」
「ソーセージ無駄にしやがって!」
 ――え、いや俺は違――。
 隣の教室から回って来て、こちらに雪崩れ込む生徒達。尋ね猫が逃げ切るのは見届けられたが、代わりに俺が追われる身となってしまった。俺は泥まるけではないが、一見似た黒い猫。更には教壇に落ちている、彼等から盗まれたものらしいソーセージ。勘違いされても無理はなかった。俺もここから飛び降りるべきかと思ったが、高さがあり過ぎて一瞬すくんでしまい、機を逃す。
 以降はてんやわんや。問答無用で捕えんとされ教室内を逃げ惑い、交錯するたも網と人の手をかわして、どうにか教室を脱出する。しかし一体どこに逃げればいいやら分からず、隠れる場所も思いつかない。そういえば龍彦と落ち合う場所も決めていなかった。彼の制止を振り切って来た愚かさを悔やんだところで後の祭り。祭りは文化祭だけで十分だというのに。
 廊下をひた駆けながら困り果ててぐるぐるする頭を、不意に、あらぬ向きからの風が梳いた。
 はっとして見やった横には、屋上へ通じる階段がある。屋上は常時立ち入り禁止のはずだが、何故か今日は、上のドアが開いているようだ。俺はそちらから吹き抜けてくる一筋の風に、何か導きのようなものを感じ取った。考えている暇はない。猫としての勘を信じてその風をたぐり、階段を上って行った。
 ドアを抜け、初めて校舎の屋上に出る。猫の目の高さからは、柵が青空を逆さに囲っているふうに見えた。文化祭の垂れ幕やパネルがここの柵から何枚も掛けられているのを見るに、恐らく催しに合わせてこれらを付け替える係の者が、屋上の鍵を開けっ放しにしているのだろう。
 ああ、こんなにも太陽との仲を邪魔するものがない場所で食べる弁当はさぞかし美味かろう――と、『彼』が思ったかどうかは知らない。知らないが、柵の手前に座っている彼、こと徳永先輩は、今まさに弁当箱の包みを開けようとしているところだった。
 予想外の者と遭遇して、双方、目を見張る。それから訝しげに頭のてっぺんから尻尾の先までじろじろと見られ、状況の変化についていけなくなった俺は、すっかり固まってしまった。
 背後の屋上出入り口からは、迫り来る生徒達の気配。隠れたくともその場を動けず、そもそも既に徳永先輩に見つかっているという、どん詰まり。万事休す――。
 そう観念しかけた時、徳永先輩が舌打ちした。
「……ったく、めんどくせえな」
 彼は横でぺたんこになっていた学生鞄を拾い、それに弁当箱を戻して腰を上げる。そして俺の前まで来ると、身を屈めて言った。
「鳴いたり暴れたりすんじゃねえぞ、いいな」
 どういう事か呑み込めない内に抱き上げられ、弁当箱と同様に鞄へ押し込められる。蓋が閉まると鞄は片手で彼の背に回されたらしく、ぼん、と衝撃がきた。
 暗さと狭苦しさで、今度は物理的に動きようがなくなっていた。もう上を向いているのか下を向いているのかも把握できない。少なくとも鳴いたり暴れたりなど出来る格好ではなかった。辛うじて出来たのは、鞄の外側の声を聞き取る事だけ。屋上まで来た追っ手の生徒達は、ばったり会った徳永先輩に怯んでいる様子だった。
「何か用かよ」
「え、いや、あの……ここに猫、来ませんでしたか、黒い――」
「知らねえよ」
 にべなく返して彼等を放置し、徳永先輩は校舎内へと戻る。平衡感覚も方向感覚も、猫としてのアイデンティティーが傾くほどおかしな事になっているが、一歩ごとの揺れ方で、進んでいるところが階段か廊下かくらいの区別はついた。それがひとしきりあって一度止み、すぐまた歩き出したのを境に、周囲の声や音の響きが開けたものへと変わる。昇降口を出たのだと分かった。
 駐輪場で自転車の籠に入れられてからの振動に、混乱した頭をますますシェイクされながら、俺はただ、成り行きに任せるしかなかった。



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