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 徳永先輩は俺を詰め込んだ鞄を持って学校から出たようだが、自転車であまり遠くまで連れて行かれてしまうと帰りに困る。それより帰れたとして、孝史郎に戻ろうにも制服がない。学校内で誰にも見つからず、それを預けてある龍彦と再会するには一体どうすればいいのか。
 状況を整理し始めたところで、自転車の振動が止まった。鞄が持ち上がり、別のどこかに置かれた気配。
 やがて蓋が開き、徳永先輩の声が降ってきた。
「もう出ていいぞ」
 もがいて這い上がり、どうにか鞄から出る。降り立ったところは、古びた縁側だった。
 ――え、ここって……。
 広がる田畑の中にぽつんと建つ空き家。かつて、俺とばあちゃんが暮らしていた家だ。
 俺の事を何も知らないはずの徳永先輩が、どうして、俺をここへ連れて来たのか。彼は縁側に座ってあぐらをかき、先ほどお預けになった弁当を改めて取り出していた。ここで食べるつもりらしい。
 解けない疑問と、解かれる弁当の包み。呆然とその様を見ていたら、徳永先輩は自分が箸をつける前に、おかずのカマボコを一切れつまんで俺にくれた。
「これ食って好きなとこ行けよ」
 その好意に、俺は少し平静を取り戻す。謎はあれど、先輩が追われていた俺を学校から救出してくれたのは確かだった。彼は過去には木から降りられなくなったユキチを助けてくれたり、迷子になっていた犬のムサシを保護してくれたりもした人だ。困っている動物がいたら見過ごせない性分なのだろう。
 ここは素直に感謝し、後の事は一旦後に回して、ひとまずカマボコを美味しく頂こうと思う。徳永先輩と気が合ったのも嬉しい。堤字の猫集会に参加できなくて表明の機会がなかったけれど、実は俺もカマボコ派で……とは、伝えようがないが。
 夏よりも陽の昇る角度が低くなり、軒に遮られず光が注ぐ縁側。徳永先輩の屋上飯の機会をなくしてしまった代わりに、ここで食べる弁当の美味さは保証したい。
 食べ始めた徳永先輩と並んでカマボコを食んでいたら、ぽつりと話し掛けられた。
「……お前じゃないんだろ、悪さしたの」
 俺の片耳が反応して、先輩の方を向く。
「あんだけ汚して回れるような泥、お前にはついてねえし」
 口振りから、彼が屋上へ行くより前に、泥でべたべたになった廊下や教室を目にしていたと知る。校内の汚れ具合と足跡から相当泥にまみれた猫の仕業だと思っていたが、しかし追われて自分の前に現れたのは、泥のついた形跡などない俺だったという事か。
「元々黒いのを泥なんかと間違えられちゃ、たまんねえよな。海苔の佃煮みてえで綺麗な毛並みなのによ」
 そう話す徳永先輩の箸先には、つやつやの海苔の佃煮がのっかったご飯。
 ……徳永先輩から見ても、俺はツクダニちゃんなのかとやや落ち込む。いやでも海苔の佃煮は、天瀬にとっては可愛いものであり、徳永先輩にとっては綺麗なものらしい。だから褒められていると思えばまあ……いい、のか?
「……ったく俺じゃねえっつってんのに親父の野郎、全然聞きやしねえ……」
 その呟きは過去への不平。彼もまた、無実の罪を着せられた事がある様子だった。お父さんとの折り合いが悪いのだろうか。弁当を食べがてら続けられる語りを受けて、俺の耳は帆のように張る。
「家から出来るだけ遠く離れたくて、でもまだ小坊で、橋越えて町から出る度胸まではなくてよ……。町の一番端の、堤字まで走って来たんだ。んで、田んぼと畑以外なーんもねえところに建ってたこの家が目に入って、気づいたら、吸い寄せられた」
 思いもよらぬ展開に、俺は耳だけでなくヒゲも張り詰めて、聞き漏らさないよう集中した。
「家飛び出して来ちまって、これからどうすっかも、どうしたいかも考えられなくて、ここの縁側でぼーっと座ってた。そしたら向かいの畑にいたこの家のばあちゃんが、俺に気づいてよ。でもばあちゃん、遠くから笑いかけてきただけで別になんも聞いてこなかった。見ず知らずのガキを、ただここに居させてくれてな」
 徳永先輩が、この家を訪れてヤエばあちゃんと会っていた事実に驚く。彼の心の中のばあちゃんに触れただけでも、俺は嬉しさと恋しさで泣きそうだったのだが――。
「畑仕事の合間に一回家へ戻って来て、茶ぁ一杯くれたのを覚えてる。そん時、縁側の隅に置いてあった籠を俺の横に移して、『この子、見といてな』って、俺に頼んでったんだ。籠ん中覗いたら、黒くてちっせえ毛玉が一匹いてよ……。腹一杯に膨らまして、すげえ幸せそうな顔で寝てんの。俺、こんな大事なもん任されていいのかって思って、そんでやっと、信じてもらえた気がして……嬉しかったんだよな。ひょっとしたらお前が、あん時の子猫――」
 言いかけてこちらを向いた徳永先輩と、目が合う。
「――な訳ねえか。黒猫ったってそんなに珍しくねえもんな」
 間近で見せられた破顔一笑。どきりとして、俺は龍彦が銭湯で言っていた事を理解する。無愛想な普段とのギャップがやばい。これは確かに、惚れる――と。
 それはさておいて、当時小学生の徳永先輩が見たという『黒くてちっせえ毛玉』。……俺に違いなかった。ヤエばあちゃんは、この家では俺としか暮らした事がないはずだからだ。さすがにまだ物心のついていない赤ん坊で、更に寝ていたらしいので話の出来事の記憶はないけれど、そんな昔から徳永先輩と出会っていたなんて、しかもヤエばあちゃんとの思い出を交えていたなんてと、万感こもごも胸に迫った。
 徳永先輩は残り少なくなった弁当をかき込んで平らげると、蓋して元通り包んだ。それを仕舞った鞄を膝に抱えたまま、しばし畑の方を眺める。この縁側でぼーっとしていたという去りし日に、帰っているみたいだった。
 畑には今、秋蒔きの葉菜や根菜が育っている。現在ここの畑は新たに借りた近隣住民が手入れしていて、単なる風景としては以前に変わりない。けれど俺と徳永先輩にとっては、そこになくてはならない存在を欠いていた。
「……あれから、いつかばあちゃんに礼を言いたいと思ってた。でも何年もためらってる内に、ばあちゃん、居なくなっちまってた。馬鹿な事は色々やってきたが、これが一番馬鹿だったって、ずっと後悔してる」
 徳永先輩は立ち上がり、停めてある自転車に向かう途中でくるりとこちらに向き直った。
「だから代わりによ、この場所で黒猫のお前に、礼言っとくわ。話聞いてくれた分も含めて――ありがとな」
 照れ隠しのような逆光だったけれど、彼は確かに俺の目を見て言い、すっきりと笑っていた。
 身を翻して自転車に乗り込み、再び学校の方へと戻って行く。ここでばあちゃんと俺と過ごしたあの日の彼も、後にはこうして、家へ戻って行けたのだろうと思えた。
 
 
 それから時を忘れ、縁側でひとり佇んでいた。徳永先輩が置いて行った過去にすっかり浸る俺を、呼び戻す声がするまで。
「――孝史郎、孝史郎……じゃないな、コクミツ、いるか?」
 家の横手から顔を出したのは、龍彦だった。
「おお、いたいた! よかったー、一時はどうなる事かと思ったぞ」
 どうして俺の居場所を突き止められたのか、と傾げる間もなくその首をひっ掴まれ、龍彦は持ってきた手提げ鞄と一緒に、俺を脇の納屋へ放り込んだ。
「そこで早いとこ孝史郎に戻れ。鞄にお前の服一式入ってっから」
 言われた通りに、俺は閉められた納屋の中で鞄の服を引っ張り出し、孝史郎になって再びそれを着る。
 人が来ないよう見張る間中、龍彦は俺に対して、戸越しに苦言を呈し続けた。
「ほんっとに、無鉄砲にも程があんだろ。捕まって、どっかに閉じ込められでもしたらどうするつもりだったんだよ。猫のままじゃ帰って来られないとこまで連れて行かれてた可能性だってあるし、そしたら今度は孝史郎の行方不明で、泥猫どころじゃない大騒ぎになってたぞ。あの猫を助けたかった気持ちは分かるが、ちょっとは心配する俺の気持ちも考えて――」
 渾々として止まないのは、龍彦のそれだけではなかった。制服を着終えて、納屋から出る。
「えっ……孝史郎?」
 ぽろぽろと零れ続ける涙。予想だにしない俺の泣き顔を見て、龍彦はあたふたした。
「あ、いやすまん、なんか俺、言い過ぎたか? それともどっか怪我――」
「いや、違う……違うんだ」
 猫は、感情的な涙を流せない。それが人になった途端、堰を切ったように溢れ出たのだった。
 その涙の理由は一言で表し切れるものではなく、今度は龍彦と並んで縁側に座り、徳永先輩に助けられるに至った顛末と彼から打ち明けられた全てを話す事で、龍彦に伝えたのだった。
「……そっか。コクミツのお前と徳永先輩は、そんな前から縁があったんだな」
 聞き終えた龍彦はしみじみとし、次の言葉を継いだ。
「じゃあ先輩が動物に優しいのも、お前が原点なのかもな」
「え?」
 ようやく涙が収まってきた顔を、龍彦に向ける。
「多分先輩は、今もヤエばあちゃんの信頼に応え続けてんだよ。お前と同じ、この町でばあちゃんが大事にしてたものを守る気持ちでさ」
 頷ける見解だった。徳永先輩はヤエばあちゃんに出会って以来、彼なりにそれを守っていたのだと。そのきっかけとして最初に守られたのが、奇しくも未来にボス猫として町の平和を預かる事になる、俺だった――。そう考えたら、また目と鼻の栓が壊れた。
「はは、まあここで気の済むまで泣いてけよ。落ち着いたら戻りゃいいからさ」
 朗らかな笑いと、うららかな陽気。ありがたいそれらを浴びて、俺の涙は次第に乾かされていった。
「……ところで龍彦、なんで俺がここにいるって分かったんだ?」
「ああ、それがな――」
 初めの疑問について尋ねると、龍彦は答えた。
「――お前を捜してる時、廊下で徳永先輩とすれ違ったんだよ。で、顧みたら先輩の不自然に膨らんだ鞄の端から、黒い尻尾が垂れてて……。猫捜してた他の奴等から通りすがりまで全員それ見て驚いてたけど、相手が徳永先輩だけに、誰も何も突っ込めなくてよ」
 ぎょっとした。頭隠して尻尾隠さずの状態になっていたとは。加えて、それが大勢の生徒達の目に晒されていたとは――。言われてみれば尻尾だけやたらスースーしていた気がする。今更恥ずかしさで赤面してしまった。
「まあお陰で、みんな泥猫は捕まったもんだと思い込んで騒動の方は収まったんだがな。でも俺には、その尻尾がお前のに見えて……。裏門から出てくとこまで後をつけて、徳永先輩の事だからきっと学校の外で逃してくれるつもりなんだと目で追ってたら、ヤエばあちゃん家に入ってくとか、まじでびっくりしたよ。先輩にお前の秘密がばれたのかと思った」
 学校の周辺は本当に田んぼばかりで、同じく田畑の真ん中にあるこの家までの道も難なく見通せる。それで先輩が家を後にするまで遠くから見張り続け、再び彼と出くわして不審がられないよう注意しやっと来たのだと、龍彦は説明した。
「……いつも以上に世話かけたな、悪かった」
「今回の分は高えぞ? 鈴音の湯でおごってもらうビン牛乳がコーヒー牛乳になるくらいな」
 和まされ、最後に俺からは例の猫がうまく逃げおおせた旨を話した。あのソーセージは、ミニフランクを焼いていたクラスの屋台から持ち去られた物だったという。腹を空かせた猫に、あれを焼く匂いは堪らなかっただろう。極端に臆病な猫が我を忘れて学校に飛び入り、夢中で奪い取り、でも結局それにありつけなかった事を思うと気の毒でならず、逃げて行った後がまた気掛かりだった。



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