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   長靴を履いたニャンデレラ<後編>


 天候に恵まれた文化祭の一日目。屋外の敷地にスペースを取っているクラスが展示物や屋台を並べ、グラウンドも中庭も、平素とは異なる風景となっている。朝一で行われた体育館での開会式と二年生の演劇は既に終了し、午後に外部公開されるまで、校内は本校の生徒のみが催しを営みつつ自由に見て回れる時間。催しに関して今のところ何もする事がない俺は、ひとまず中庭に出た。
 ちなみに先ほど鑑賞した二年生の演劇は、原作なしのオリジナルシナリオだった。次は自分が舞台に立つ側、と意識してしまってやたらと緊張したが、本番の空気の中、舞台上の自分に対する観客視点を得られた気がする。これを明日に活かしたいところだけれど、はてさてどうなる事やら。ちらりと見る隣りにはげっそりとした龍彦がいて、あくびを噛み殺していた。
「……何だよ」
 急遽演劇の代役を務めざるを得なくなった龍彦はあの後、体育館が使用可能な間は勿論の事、それから場所を空き教室に移して下校時刻ぎりぎりまで猛稽古を積んでいた。更に帰宅後、俺は龍彦に頼まれて彼の家へ行き、泊まりがけで台詞合わせに付き合ったのだった。俺が寝落ちてからも一人遅くまで練習を続けていたのは、顔に書いてある通りだ。
「いや、お疲れ様でお好み焼きをご馳走するべきかと思って」
「そりゃどーも。消耗しちまって食わなきゃ持たねえわ。もし仁村がインフルだったら、クラスで次に熱出してたの絶対俺だよ」
「診断結果が陰性で良かったな」
 二村の熱について追って学校に入った連絡によれば、原因は危惧されたインフルエンザではなく、季節の変わり目でかかったらしい風邪との事だった。平熱に戻れば明日にも登校できると聞き安堵したが、来られたとしてもやはり病み上がりで即舞台に立つのは無理だろう。いずれにしろ、今消耗している仁村と龍彦には十分な滋養を取ってもらいたい。
 食べ物の屋台を出しているクラスは片手で足る数。だがそこから漂い始めた煙と匂いはしっかり腹を空かせてくる。俺は気になるお好み焼き屋の方を見やったが、例のお祭り半纏を着た売り子達の中に、天瀬の姿はなかった。今は彼女の担当時間ではないようだ。龍彦もそれに気づく。
「あー、いねえな。ならまあ、お好み焼きは明日に取っとくか。向こうのクレープ買ってくる」
「ならついでに俺の分もな」
 振り向かず手だけ振って返す彼を見送る。しばし待つ間に文化祭のパンフレットを広げ、この後どこから見て回ろうか考えていたら、呼び声がかかった。
「高峰君!」
 振り返ると、牧村先輩が校門近くのテント下から手招いていた。そこへ赴き、挨拶を交わす。
「早くに会えて良かったあ、直接報告したくて」
「報告?」
 先輩は長机の設置されたテントを出、周囲の生徒達に聞こえないよう俺に耳打ちした。
「――徳永君、今日出席してくれたから」
 そうと知り、俺はほっとした。
「ああ、そうなんですね。良かった」
「本当、高峰君に頼んで正解だった。それにしても、あれだけ頑なだった彼の気を変えられるなんて改めてすごいなって思って。一体どうやって説得したの?」
 にこやかに尋ねられて、返答に困ってしまった。
「えっと、別にそんな、大した話はしてなくて……。先輩の働きかけそのものが大きかったんだと」
 演劇で猫役をやる俺に興味を持たれた、だなんて打ち明けづらい。何よりそれが全てでもなかった。俺達一年生の演劇発表が明日にも関わらず今日から出席しているのが、その証明と言えよう。状況をひっくり返せたのは、それまでに積み重ねられた牧村先輩の誠意があったから、と今は思う。そして徳永先輩自身も、何かしらの動機を求めていたかも知れない。二人の関係からはおよそ遠いところにある、他愛ない動機を。
 牧村先輩は目をぱちくりさせた後、微笑んだ。
「……そう、かな。ふふ、優しい後輩を持てて幸せ」
 そこへ龍彦が騒々しく戻って来た。
「牧村先輩! おはようございますっ」
「おはようっ! 相変わらず元気ね」
 牧村先輩は無駄に高い龍彦のテンションに合わせて返す。朝の挨拶運動の時も彼は先輩に対して毎度このように存在をアピールしているので、彼女にすっかり覚えられていた。
 龍彦は両手に一つずつクレープを持っている。その片方を受け取ろうとした瞬間、しかしさっとかわされて俺の手は虚しさを掴んだ。
「これどうぞ!」
 クレープを差し出された先輩は驚く。
「えっ、私に? 高峰君の分じゃないの?」
「いえいえ違いますよー、孝史郎がいつも世話になってるんでお礼です」
 どうやら龍彦にとって何よりの滋養は、牧村先輩との交流だったらしい。先程までのげっそり感はすっかり吹き飛んだ様子で、全く調子のいい彼に俺は呆れる。
「そう? 本来なら私がお礼をする側なんだけど……嬉しいから貰っちゃうわね。ありがと」
 甘いもの大好き、と笑顔で受け取った彼女に尋ねる。
「このテントは、先輩のクラスの企画用ですか?」
「そうそう。うちはスタンプラリーをやってて、ここはスタンプを集め終えた人がくじを引いて景品交換する場所なの。パンフの裏面が用紙になってるでしょ? 指定場所へ行けば担当者がスタンプを押してくれるから、集め終えたらまたここへ来てね」
 長机の上にはガラガラ回すくじとカランカラン鳴らす鐘、という商店街などで定番のくじ引きセットが置かれている。吊り紙の一覧によれば、当たりくじで貰えるのは文化祭内で使えるフードチケットや文房具、日用品など。
「へーいいっすね! じゃ今からダッシュでスタンプ集めて来ます!」
「何もそこまで急がなくても」
 にわかに張り切り出す龍彦に、牧村先輩は苦笑した。
「徳永先輩も、どこかで待機してたりとか……?」
 ここには姿がない徳永先輩の事を聞くと、彼女は首を横に振った。
「ううん、彼は全然その気がなくて企画にノータッチ。オリジナルスタンプ用のゴム板彫りを一つ持ち掛けてはみたけど、結局提出されなかったから私が代わりに作っちゃった」
 牧村先輩としては、面倒な仕事や課題によって再び彼の来る気が失せてしまうのを避けたかったようだ。
 徳永先輩は、この文化祭をこれからどう過ごすのだろう。そんな事を考えながら、俺達は別の催し場所へと向かった。
 
 
 グラウンドの角に設営された野外舞台では、決められた時間毎に、生徒達による様々な公演やライブが行われている。スタンプを集めながらあちこち巡る途中、舞台の賑やかなダンスパフォーマンスに誘われてグラウンドへ赴いたら、そこで梶居に会った。龍彦が、彼女の一風変わった少年風の出で立ちに目を留める。
「お、それが家庭科部で作った衣装?」
「そ! 昨日話したヘンゼルとグレーテルの、ヘンゼル。どう?」
 つぎはぎだらけの服と帽子は物語に沿った貧しさを演出しているが、使われている端切れの色柄の無節操さはモダンで洒落ており、みすぼらしいとは感じさせないユニークなデザインになっている。俺は感心を率直に伝えた。
「演劇用の制作物にも思ったけど、梶居はイメージを形に起こす才能がすごいんだな。似合ってるし」
「わあほんと? そう褒めてもらえると嬉しいなあ! ね、これ終わったらうちの部にも遊びに来てよ。他にもいろいろ見てもらいたいからさ」
 誘われるまま、ダンスパフォーマンスを見届けると彼女と共にその部室へ向かった。いま家庭科部に行けば天瀬にも会えるだろう。そして梶居がヘンゼルなら、天瀬はおそらく、さぞかし可愛いグレーテル――かと思いきや。
「あ、考史郎君! いらっしゃ……じゃなかった、おやおや迷子かい? どうぞお入り。怖い事なんて何もないからねぇヒッヒッヒ」
 家庭科部が部室として使っている教室。そこに入るなり出迎えてくれた天瀬は、怪しい白髪の人喰い魔女に扮していた。わし鼻までしっかり付けてなり切る姿は実に楽しそうで、このところ『演じる事』に構え過ぎていた俺は、思いがけず肩の力を抜いてもらえたのだった。龍彦が吹き出す。
「考史郎が食われちまいそうだな」
「それにはもっと太らせないとねえ。ほらほら、あちらに美味しいものが用意してあるよ? もっと中へおいで」
 ノリノリで返す天瀬――もとい魔女が長い付け爪で室内を指す。部員達の日々の活動成果である服や小物や装飾品といった制作物がきれいに展示されている中、中央のテーブルには文化祭用の目玉作品である『お菓子の家』のミニチュアが、でんと置かれていた。
「へえ、これが梶居の言ってたやつか」
 プラケースに収まったその童話世界を覗き見る。チョコレートの屋根と柱に、パンの壁、ビスケットの扉と煙突、飴の窓――と、本当に一切が食べられるもので作られていた。そして家の中もまた、手作りお菓子の詰め合わせになっているという。
「すげえ美味いんだろうなあ、上から齧りつきたい」
 見た目よりも味に興味深々な龍彦に、梶居が教える。
「明日の午後に解体して取り分けたのを配るから、もう一度来たら食べられるよ。先着順で、無くなり次第終了だけど」
「まじ? 俺の分とっといてくれよ」
「それはダメ。だから食べたいなら早めに――」
 そうした会話の最中、教室の外から何やら騒々しい声が聞こえてきた。催しによる賑やかさとは違う緊迫したそれは、階段を駆け上がる複数の足音と共に近づいて来る。
「何だ?」
 話を切られ、場の全員が開け放された扉口の方を注視する。
「あっ、そこの教室に――」
 その声に先立ち部室へ飛び入ってきたのは、尻尾のついた泥の塊。黒く濡れそぼつ奥から覗いた二つの眼光に、俺は息を呑む。
 ――猫。
 ソーセージらしきものを咥えた泥まるけの猫は、たも網を携えた追っ手から必死で逃げていた。
「いた! そいつ捕まえて!」
「そっち! 囲って隅に追い込め!」
 猫となだれ込んで来た生徒達により、和やかだった室内は一転、大騒動となる。猫は泥をはね散らしながらひとしきり駆け回り、自分めがけて振り下ろされたたも網を避けると一際高く跳躍した。その着地点には、お菓子の家。
 惨事を予測した生徒達の声が上がる。だが犠牲になったのは、それの一番近くにいて咄嗟にプラケースを抱え込んだ俺の背中だった。猫に踏み台にされ、蹴る足の強さにうめく。猫は隙をついて人と障害物の合間を縫い、しなやかに部室から出て行った。
「ほんとすまん、後で掃除手伝いに来るから……!」
 そう家庭科部員達に謝り、追う生徒達も早々にそこを後にした。
「孝史郎君大丈夫? 背中が……」
 嵐の後、天瀬が駆け寄る。俺の学ランの背には、猫の湿った足跡がくっきりとスタンプされていた。
 梶居は胸を撫で下ろす。
「ああでもほんと助かったあ、ありがとう。守ってくれなかったらお菓子の家がケースごとひっくり返されてたよね」
 お菓子の家は無事だったものの、しかし辺りの床は泥で相当汚れてしまっていた。居合わせた部員達は慌てふためく。
「うわあ、ちょっとモップ借りて来る!」
「やだ、展示の服にも泥はねてるじゃん! 落とさないと」
「こっちのテーブルも! 布巾、布巾」
 天瀬はハンカチを取り出して俺の汚れを拭おうとしてくれたが、あの猫にすっかり気を奪われた俺はそれを制し、部室の出口へと足を向けた。
「孝史郎君?」
「あ、えっとごめん、また、来るから」
 去る挨拶もそこそこに飛び出して、猫を追う。それを見た龍彦も慌ててついて来た。廊下を走ってはいけないが、非常時なので許してもらいたい。
「おい孝史郎、あれ知ってる猫なのか?」
「前から捜していた猫かも知れない」
 泥にまみれ過ぎていて定かではないけれど、対面した時、少なくとも俺が直接知る猫ではないと感じた。それに葦沢高校があるここは堤字。尋ね猫が行き着くと予測していた地だ。
 足跡は渡り廊下を抜け、別棟へと続いている。猫が駆け抜けて行った事を話す生徒と幾人もすれ違いながらそれを辿っていたが、逃げ回る間に泥が落ちて乾いてきたのか、足跡は徐々に薄れ、やがて追えなくなってしまった。先に追って来ていた生徒達も見失ったらしく、分散して各教室を捜索している。
 足跡が途切れたもう少し先には、階段がある。今は人気のないそこの踊り場まで行き、俺は龍彦の方を振り向く。
「上の階は人が出払ってるみたいだ、龍彦、俺の服たの――」
「やめとけ! さすがに学校じゃまずいだろ、俺も何かあった時にごまかし切る自信ねえぞ」
 言い終える前に、龍彦は俺がこれから取らんとする行動を察し、制してきた。
「猫になれば匂いを辿れる」
「だからってお前、人目が多過ぎて」
「きっと追い回されてパニックになってるんだ、誰よりも先に捜し出して早く助けたい。猫同士なら話も通じる、学校の外へ誘導できるから……!」
 捕まったところで、校内をこれ以上引っ掻き回さないよう外へ追い出されるだけと信じてはいるが、あれが例の尋ね猫だとしたら、とても臆病な性格だ。それを思うと、勝手の分からない建物に迷い込み、大人数と怒声とたも網に怯えて逃げ惑っている現状から、一刻も早く助けたかった。
 そう、早く助けたい。この時はその一心で、後の事などまるで考えなしだった。あの猫のパニックが伝染していたのだろうか。
「いや待てって、こうしろ――」
 思い留まらせようと俺の両腕を掴んだ龍彦の手に、身(しん)の抜けた学ランがへたって落ちる。その襟から猫の姿で飛んで出た俺は、着地した足で階段を蹴上がっていった。



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