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 日が明けて、昼を過ぎた頃から雲が駆け足で集まり始めた。ほどなくして降ったにわか雨は天然の打ち水となり、町全体を少し冷ます。
 この町には雨が降ったけども、家の窓から見た遠方は雲の切れ間に空の青をうかがえたので、もしかしたら河向こうでは降らなかったかもしれないな、と考えながら堤字の防波堤でひとり、黒いヒゲをなびかせる。この河川が天気の微妙な境目になるのは、ままある事だ。
 雨が止んだ後、気温が落ち着いたのでいつもより早い時間に巡回へ出たものの、どうしてもホクテンの事が気になってしまった。彼を探したが見つからず途方に暮れた末、俺はいちばん彼の姿を印象深く残しているこの場所へと、足を向けたのだった。
 ホクテンが、決まって待ち続けていた場所。脇では係留された小船達が波から守られ、まどろむように揺れている。
 ホクテンに会って、顔を見たかった。森野さんが戻ってきて以来、彼は一度も俺と目を合わせていないのだ。俺だけでなく、おそらく誰とも、何に対しても。もちろん、どうこう口出しするべきでないという気持ちに変わりはないが、森野さんが帰ってしまう今日になっても、まだ彼が自身の正直なところにさえ目を背けたままで、後に悔いのない道を選べなくなっているのではないかという点だけが、ただ気掛かりだった。
「――ああ……」
 気配がして、堤防の上を見やる。そこに立ち俺を見下ろしていたのは、森野さんだった。コンクリートの階段を下り、防波堤を伝って俺の側へ歩み寄る。
「君は、ホクテンの友達だったね」
 先にも説明したが、コクミツとしてなら俺はホクテンの飼い主だった森野さんを知っている。ホクテンと一緒の時に話しかけてくれたりと面識があったので、森野さんも俺の事を覚えていてくれたようだ。猫の目線と高さを近くするように、その場にしゃがむ。
 やはりまだ、ホクテンは彼の前に姿を現してはいなかったようだ。そうする事に決めたためか、未だ決めあぐねているためかまでは、分からないが。
「ホクテンをここでよく見かけるって聞いて、最後に来てみたんだけど……」
 先ほどつかれた溜め息は、遠目に見つけた俺の猫影をホクテンと間違えていたせいだった。森野さんは夕方に帰ると言っていたから、『最後』とは、ここがホクテンに会える最後のあてだった、という意味なのだろう。昼が最も長い季節とはいえ、夏至はとうに過ぎて日脚の早まりが徐々に意識され始める頃。じきに暮れる。
「しばらくここで待ってたら、来るかも……なんてやっぱり、虫が良すぎるか」
 空っぽな笑みを、湿っぽい風がさらう。でも言葉とはうらはらに、森野さんがすぐに立ち去る様子はなかった。
 ここで待つのだろうか。奇しくもホクテンがずっとそうしていたこの防波堤で、今度はその待ち人が。
 猫でなくても何も言えなかったであろう俺が目をやった河の上流側に、森野さんも目を向けた。並んで架かる鉄道橋と道路橋は、相も変わらず河の流れに対し人の流れをとうとうと交差させ続けている。
 二年を経てやっと交差したホクテンと森野さんの時の流れは、しかし再びその流れを同じくはしないまま。
「――待つ、って、長く感じるものだよね」
 聞き手のある独り言。その後もしばらく、彼はぼんやりと橋を眺め続けていた。
 防波堤にじゃれつく水の音と、遠く往来する電車の音。汽水が含む潮の香。気掛かりがあっても、和む。ただただ巡り巡り、河はその長く感じる時間を、ひねもす和ませていたのだと知る。

 そうして、一人と一匹でどれくらいを過ごしただろうか。腕時計を見て、森野さんが立ち上がる。
「もう、行かなきゃ……」
 踵を返した彼に、俺はついて行った。結果として裏切りになったものの、二年間ホクテンを忘れずに思い続けていて、もう一度一緒に暮らしたいと迎えに帰って来てくれた事に対し、せめて見送りをして返したいと思ったからだ。両腕とうなじの日焼けが、痛々しかった。
 堤防の階段を、前を行く彼に調子を合わせて一段ずつひょいひょいと跳んで上っていく。それが、先に上りきったところで森野さんは足を止めてしまった。
「……ホクテン……」
 口にされた名前に驚いて、俺は慌てて追いつき彼に並ぶ。
 堤防の上は舗装された道。それを挟んだ雨露の残る草地に、ホクテンは座っていた。立ち尽くす森野さんを、正面を切って見据えている。
 何を疑う目でもなかった。猫は生来猫背だが、その背筋がしゃんと伸びているように感じられたのは、彼の中に一本の決意の芯が通っていたから。
 森野さんは、今にも泣き出しそうな顔をしていた。嬉しかったのかもしれないし、謝りたかったのかもしれない。複雑に絡んで言葉にならなかったもの達は、それでも彼等の間で通じていた。後にようやく真っ直ぐこちらを向いてくれたホクテンの顔を見て、そう思い安堵する。
 腰を上げ、ぶるりと軽く振るわれたブルーグレイの身から光る露が撥ねた。平素と変わらない振る舞いで歩いていく先には、白いセダンが停まっている。森野さんの車だ。その足元で立ち止まり、再び森野さんを顧みる。
 そちらへ向かい始める彼の背中。眼鏡を少し押し上げる手の仕草は、目頭を押さえる風にも見えた。
 森野さんが運転席を開けると、ホクテンが軽やかに乗り込む。俺のいる角度からは中まで見えないけれども、助手席に固定された猫用キャリーがホクテンの指定席だった事を思い出した。同時に、森野さんが休日に遠出する時は決まってホクテンも一緒だった事も。
 昨日、森野さんは言っていた。
 ――天体観測をするんだけど、やっぱり連れがいないと、寂しいからさ――。
 連れ立って、彼等はきっとたくさんの星空を巡っていたのだろう。また、これからも。
 実にあっさりとした、ホクテンらしい別れの際が当時と重なった。
 ――また出かけるのか。気をつけてな。
 ――ああ。留守番が心強いから、旅も町も安泰だ。行ってくる――。
 走り出す車を見送る。
 見通しの良い堤防を辿り、下の道へ逸れてその影が追えなくなるまで、俺はずっと見送っていた。



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