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 約束の午後八時半に合わせ、俺は龍彦と共に葦沢町最北端の松原字にある、展望公園を訪れた。ちなみにここは国立公園だ。その名の通り小規模ながら展望タワーを備えている他、花壇や芝の手入れが行き届き、時節に合わせた催し物が開かれたりもするので、葦沢町内で最も大きな観光場所となっている。
 タワー以外の入場は無料なので、駐輪場に自転車を止めた俺達は案内所の前を素通り、敷地に入った。
「んで、森野さんは?」
「奥のイベント広場で、先に準備して待ってるって言ってたけど」
 話しながら、足元照明の灯る舗道を歩いていく。この公園は午後九時で閉園するため、天体の観測ができるのは今から残り一時間だけ。森野さんいわく、時間の制限があるのとタワーの薄く霞むような青い照明が若干邪魔なのを除けば、公園の最奥に位置する広場は結構な星空を楽しめるところだそうだ。
 その辿り着いた先、開けていて周囲の明かりが届かない広場のほぼ中央に、懐中電灯を手にした人影を見つける。案の定それは森野さんで、駆け寄る足音で彼も俺達に気づき、軽く手を上げた。
「やあ、来たね。今日は雲がないし、月ももう沈んだ後だから星を観るにはいい夜だよ」
 三人で見上げる、晴れ渡った夜空。天頂近くを飾る夏の大三角は、星に詳しくない俺にでも一目で分かる輝きを放っていた。
「天体望遠鏡で本格的に星を観るのって初めてだから、なんかわくわくするなあ」
 星空から森野さんの脇にセッティングされた天体望遠鏡の方へと目を移して、龍彦が無邪気さを隠しもせずに言う。
「今は、さそり座のところにいる木星に合わせてあるんだ。追尾してるから覗いてみて」
 促されて龍彦は早速、鏡筒の側面についているレンズを覗いた。
「おー! すごい、縞が入ってる!」
「周りに衛星も見えるよ」
「あ、あれかあ。ふーん、ちっちゃいけど綺麗だなあ」
 望遠鏡にへばりついた龍彦の、ほー、へー、という感嘆ばかり聞かされてしばしお預け状態だったが、その後ようやく気づいた彼と交代し、俺も木星を見せてもらった。なるほど、やや輪郭がゆらぐ像の中に、図鑑の写真で見たような縞の模様、それと木星を代表するという光の粒みたいな複数の衛星もちゃんと観測できる。龍彦と同じく天体望遠鏡を通して星を観るのはこれが初めてだったので、不思議な感覚に魅せられ、龍彦に肘で小突かれて我に返るまで、俺も望遠鏡にへばりついてしまっていた。
「いや、興味持ってくれて嬉しいよ」
 ちょっと恥ずかしかったが、森野さんは朗らかにそう笑っていた。
「――じゃあこれからこの望遠鏡を、今日いちばん観てほしい星に合わせるよ」
 本題を切り出して彼は天体望遠鏡を操作し、接眼レンズをウエストポーチから取り出した倍率の違うものに入れ替えたりして、目的の星へと照準を合わせ始めた。
 随分と上向きになった望遠鏡に釣られて、俺達も再び空を仰ぐ。
「はくちょう座は、分かるかな。頭と両翼と尾で、十字架みたいに見えるあれだけど」
 と、森野さんがそれを指差す。
「あ、はい。よく見えます」
 夏の大三角のひとつがはくちょう座の尾にあたる明るい星なので、はくちょう座は探しやすく、すぐに全体の形を把握できた。
「観てほしいのは、はくちょう座の頭になっている『アルビレオ』って星なんだ」
 促されて、俺はその星に照準の合わせられた天体望遠鏡を覗いた。
「……あれ? 星が二つ見えるけど……どっちですか?」
 オレンジっぽい星と、それより少し小柄な青白い星と。二つ一緒に観えたので、どちらが森野さんのいう星なんだろうと俺は首を傾げる。
「アルビレオは肉眼だとひとつにしか見えないんだけど、二重星なんだ」
 地球からとても近接して見える二つの恒星を二重星と呼ぶのだと、森野さんは教えてくれた。当然、さっき見た木星に比べて地球からの距離は遥か遠いので、像自体は小さく見える。でも色の鮮やかさは、こちらの二つの方が印象的だった。
「星の色って、特に気にした事なかったんですけど……こんなふうに違うものなんですね」
「綺麗だろ。この二つの星は、色の取り合わせやコントラストの鮮明さが特徴的でね。……北の天球上、最も美しい二重星として『北天の宝石』とも、呼ばれているんだよ」
 その言葉に、はっと顔を上げて俺は森野さんを見た。
 北天の宝石。ほくてんの。――ホクテン。
「――僕はこの星と、それをたたえる空が、大好きだったんだけどさ」
 胸を詰まらせるように、ぽつりこぼす。それだけで、あえて説明されなくてもホクテンをよく知る俺には、その名前の由来が理解できた。
 アルビレオと呼ばれる、二重星。森野さんはホクテンが持つ両の瞳の色――琥珀と青のオッドアイをそれに見立てて、『ホクテン』という名前を、彼に付けたのだ。自分が大好きな、夏の夜空そのものを表す名前として。
「もう何年も前の夏、天体観測がしたくて流星群の時期に合わせて、山のペンションへ出かけたんだ。でも泊まった夜は天気予報が大外れして、どしゃぶりで星の観測なんかとてもできなくてさ……。がっかりしてた時だったよ、ホクテンに出会ったのは」
 森野さんの話は、こう続いた。
 ペンション内の、食堂から自室に戻る途中の廊下。角を曲がると、そこに子猫がちんまりと座っていて。
 その猫がたずさえた、左右で色の異なる綺麗な瞳。ブルーグレイの毛色。それらを一目見て、森野さんはすぐに『夏の夜空』を連想したという。
 子猫を抱き、ペンションの管理人さんの元へ尋ねに行ってその猫が管理人さんの飼い猫の子だと知った彼は、頼み込んでその猫を、譲り受けたのだそうだ。
 その頃から住んでいた葦沢町の借家はペットを禁止していなかったので、独り暮らしの寂しさから前々より動物を飼いたいと思っていたのが動機のひとつ。でも何より、ホクテンとの出会い方に強く心を揺さぶられたから連れ帰るに至ったのだと、彼は語った。
「運命なんて、恥ずかしくてめったと口に出せないけど……どしゃぶりで台無しになった空に代わってもっと愛しい空が目の前に現れた時、これぞ『運命』って、感じちゃったんだよね」
 空に目を留めたまま、森野さんは当時の記憶へと、心を巻き戻していた。闇に慣れた俺の目は、森野さんの横顔に物悲しい微笑みを捉える。
 ――ホクテンと別れてからは、夏の夜空まで辛くなっちゃって――。
 大好きなものを象徴する名前を付けておきながら、やむを得なかったとはいえ置き去りにしてしまった事。その罪悪感が擦りガラスの雲のようになって、今日みたく晴れ渡った空と星の輝きさえ、彼には、曇って見えてしまうのだろう。
 そう考えていた時だった。広場の離れた縁で、カサリと音がした。三人一斉に、そちらの植え込みに目を向ける。
「……ホクテン……?」
 希望を含む直感からか、森野さんが呼ぶ。その途端、姿の見えないそれは慌てたようにガサガサと植え込みの向こう側へと、逃げていってしまった。
 思わず数歩踏み出したが、森野さんはすぐにその足を止めた。
 ため息とともに肩を落とす、彼の背中。曇りない星の明かりに、また彼等を照らしてほしいと、願わずにはいられなかった。


 森野さんと龍彦と別れた後も、コクミツになった俺はしばらく松原字に留まっていた。
 俺も、先ほど植え込みの陰にいたのはホクテンのような気がした。それで公園近辺を探してみたところ、堤防の上にぽつんと座る、彼の姿を見つけたのだった。階段をかけ登り、隣まで行く。
 ホクテンはこちらを向く事なく、夜風の中でじっと空を見上げ続けている。
 人と猫とでは、言葉が通じない。さっきの森野さんの話を聞いていたとして、ホクテンには意味が分からなかったと思う。でも森野さんが星を好きな事は、長く一緒に暮らしていたホクテンなら知っているはず。それを見上げながら『ホクテン』という名前を何度か出して話す森野さんの声や姿には、ホクテンに伝わる何かが、あったのかもしれない。
「……モリノさん、明日の夕方に、またこの町を出て行ってしまうそうだ」
 そう告げると、ホクテンのヒゲがぴくと動いた。
 ――できる事なら、ホクテンを連れて帰りたかったんだけど――。
 あの後に聞いた話では、森野さんは結婚して、現在は奥さんの実家に住んでいるとの事だった。それで今度新居を構える予定らしく、その家でホクテンともまた一緒に暮らせたらと考え、休暇を取り、葦沢町へホクテンを探しに戻ってきた……というのが、今回の経緯。
「……そうか」
 たった一言の、複雑な思いの詰まった返事が空に溶けて消える。
 ホクテンは、どんな決断を下すのだろう。
 長く慣れ親しみ、仲間がたくさんいるこの町に残るのか。それともここを去り、ずっと待ち続けていた人の元へ帰るのか。
 もどかしくとも、今はただ見守るべき時。正しい答えがあるわけでもなく、また良い結果というのがどういうものなのかなんて、誰にも分からない。だから周りがとやかく口を挟んで惑わせるような事は、控えたかった。
 決めるのは、ホクテン自身。彼が決めた事とその結果をありのまま受け入れる事が、この町のボス猫であり、彼の親友である、俺の勤めだ。



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