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 しゃらしゃらと揺れるススキと稲穂が、無邪気な猫心をくすぐる。
 ホクテンが森野さんと共に去ってから、一ヶ月ほどが過ぎた。葦沢町は日に日に秋の彩りを深めている。
 ホクテンは堤字の班長猫だったので、彼が居なくなった後、本来ならすぐにその後任を決めるべきだった。しかしどうにもその気になれなくて、今は一時的に、俺がボス猫と堤字の班長猫を兼任している。俺にとってその空席は、さっさと埋め直してしまうには少しばかり大きな穴だった。私情が理由ゆえに、仕事が増える分は致し方ないと思っている。それでも察して、隣の堤字まで目を行き届かせてくれる貝塚字の班長猫ススケや、いつもより詳細な報告を心掛けてくれる皆にはいくら感謝してもし足りない。俺はこうした情を当たり前に持つ町が好きなのだと再認識する。
 いちばん親しかった友は、今どこで何をしているだろうか。空高くいわし雲の泳ぐ下で考えながら、今日も今日とて、俺はボス猫コクミツとして町内の見回りをする。まだ残暑はあるも、稲刈りが進み、母さん御用達の和菓子屋に年季の入った『おはぎ』ののぼりが立つ頃には、もっと涼しくなる事だろう。
 角を曲がり、静かな貝塚字の道に入る。
 彼等が再会した場所はここだった。――だから今、そこで目にしたものにはっと息を呑むも、あの時の記憶を陽炎に映し見ただけと、思ったのだ。しかし路上に陽炎が立つような季節は過ぎているし、何よりその像は揺らめきも消えもせず、鮮明な輪郭を保っている。
 昼間の猫なのに、目が丸くなってしまった。
 そこにいる彼も、俺に気づき――猫だからやっぱりこれらのたとえはおかしいかもしれないが、まるでハリセンボンのように毛を逆立て膨らんだかと思った次の瞬間には、脱兎のごとく俺がいるのとは逆の方向へと駆け出したのだ。
「ホクテン……!」
 あの時と同じに、路地へ消える彼を俺は追いかけた。
 なぜ、森野さんと一緒に行ったはずのホクテンが今ここにいるのか。足とともに疑問も駆ける。
 前は堤字に入ったところにある道端のバス停で追いついたが、今回、ホクテンと思しき彼はそこに留まっていなかった。正面に広がる田んぼの辺りを見回して、姿を探す。
 吹き抜ける風に、黄金色のさざ波が立つ。その向こう側で、稲穂の陰にいた彼はあぜを駆け登った。振り向いて俺を認めると、今度は落ち着いた様子で、誘うように民家と民家の隙間へ入り込む。
 猫か狐か。とにかくつままれた気持ちのまま後を追う。
 隙間を抜けた先は、今年建てられたばかりの住宅の裏手。隣接する家の室外機を踏み台に上ったブロック塀を伝い、表側へと回る。
 そこには、引越し業者のトラックが停車していた。作業着の数名が、荷を下ろしては家の中へと運び込んでいる。そこに交じって作業する、首にタオルをひっかけた青年を見て俺はまたも目を丸くした。それは紛れもなく、森野さんだ。
 人が忙しく出入りする玄関口の端にちょこんと座って、ホクテンはこちらを見ている。目が合うと、照れくさそうに舐めた前足で顔を拭った。
 俺は大慌てで引き返し、龍彦の家へ戻った。気持ち良くうたた寝している彼の部屋の窓を開けてくれと必死に叩いた際、しまい忘れた爪で思いきりガラスを引っ掻いてしまったようで、その痛い音に仰け反りながら起きた龍彦からえらく怒られたのは後の話。
 考史郎になり、自転車を飛ばして再び先程の家を訪れると、引き上げていく業者のトラックを見送っていた森野さんはすぐ俺に気づいてくれた。
「ああ! 考史郎君」
「森野さん、ここに引っ越して……?」
「うん、今日から住むんだ」
 そういえば、森野さんは結婚して新居を構える予定だと言っていた。でもそれが葦沢町内だとは思いもしなかったと、森野さんに話す。
「元々この町から通勤してたからね。ほんとは、転勤が明けたらもっと会社に近い場所に住もうって、思ってたんだけどさ」
 そこで言葉を切り、彼はそうしなかった理由を視線の先に示す。そちらに見える玄関の土間には、皿に注がれたミルクを飲むホクテンの姿。向かいではペットミルクのパックを手に、顔をほころばせた女性がいる。森野さんの奥さんだという彼女とホクテンは、まだぎこちない距離ながら互いに歩み寄ろうとしているように見受けられた。
「まあ多少通勤時間が長くてもいいと思えるくらい、暮らしやすい町だからね」
 ――人にも猫にもさ。
 直接的には言わない。ただ森野さんがこうすると決めた要因のひとつとして、来るか来ないか分からないまま待ち続けられたあの長い二年があった事、そして同時にそれが報われた事を感じて、俺は嬉しく思った。
 これからよろしく、とはにかむように頬を掻く様子は、さっきホクテンがコクミツに見せたそれとよく似ていた。


   ***


 夕暮れの風は、また一段と涼しい。暑い時期は身体をいっぱいに伸ばして寝る猫も、肌寒くなるにつれその寝姿はだんだんと丸くなっていく。日頃よく観察していれば、猫達は時計としても温度計としてもなかなか優秀じゃなかろうか。
 ヤエばあちゃんと暮らした家の縁側で、俺もやや身を丸くし、手枕にあごをのせて寝ていた。冬になると縁側では凍えてしまいとても寝られないので、今のうちにちょっとでも長くと、ばあちゃんの思い出に浸る。
 うとうとしかかった時、小さな物音がして俺は目を開けた。
「よう」
 いつかのように、彼が傍に座っていた。
「ああ――。ホクテンか」
 話しながら身体を起こして、ひとつウンと伸びをする。
 今日戻って来た事について、改まった挨拶や話などは敢えてどちらも切り出さなかった。以前と何ら変わらない形で、ホクテンがここにいる。俺としてはそれだけで十分だった。
 二匹並んで眺める、夏から様変わりした田畑。畑の方では、艶やかな秋ナス達が枝をしならせ実っている。それを目にするに伴い、おかしみを交えて語るばあちゃんの笑顔が思い起こされた。
 ――大事に、よう覚えときいな。『ばあちゃんの話とナスビの花は、千にひとつの無駄もなし』やでな――。
 この縁側に座り、ばあちゃんは膝の上で丸くなる俺を撫でながら、子や孫を相手するようにいろんな話をしてくれたものだ。当時純粋な猫だった俺に人間の言葉は分からなかったけれど、コクミツの記憶と考史郎の知識が合わさって初めて、人としても猫としても生きていく上で役に立つ教訓がそこにたくさんあった事を、俺は理解した。
 ばあちゃんの名残が年々薄れていくこの町を、俺はばあちゃんからもらった時間とその心を以って、精一杯守っているつもりだ。見えなくともそこにある日中の星と同じ。たとえ思い出せなくなったとしても、ばあちゃんが町の事、俺の事を愛してくれた過去は無くならない。ばあちゃんに限らず、思いの刻まれた誰の過去も消える事はなく、支えとしてそこに在り続けるのだと、確かめるように空を仰ぐ。まだ明るい上にいくらか雲がかかっていて全然見えないが、時間的に今は、アルビレオを抱く白鳥座が天の高いところへと近づく頃。
「……ん、どうした?」
「いや、何でも」
 見えない星空による巡り合わせで、『愛しい空』としてその名を授かったホクテンの顔を見つめながら、俺は目を細めた。


 ホクテンの決断・終



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