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 コクミツになった俺は、庭の日陰で寝そべっている柴犬のムサシを横目に軒から隣家の塀へと伝って道に降り、町の巡回を開始した。
 日の傾く頃合いを見た、いつもとほぼ同じ時刻に出たのだが、アスファルトに溜まった熱のむんと上がってくる感じがいつにも増して濃い。やはり今日は特別暑いなと改めて思い、体力を消耗しすぎないよう、見回るのは貝塚字と小波字の近場だけに留める事を決めた。
 そうして龍彦の家がある貝塚字から順に、考史郎のアパートのある小波字を回っていた時だった。
「あらまア、コクミツちゃん」
 少ししゃがれていてもふくよかさを感じる声に呼ばれて振り向くと、一匹の三毛猫が目に入る。
「ああ、イグサ」
 民家の裏手にあたる、小さな庭。その奥の隅にはちゃぶ台くらいの高さで上面の平べったい庭石があり、その上でイグサというばあちゃん猫は身体を休めていた。
「とっても暑いから、いつもよりもお勤めが大変ねエ。こっちで、少しでも休んでいらっしゃいな」
 誘われ、小休憩を挟みたくなった俺は素直にうなずき、駆けていってひょいと庭石に登った。側に来た俺を見て、イグサばあちゃんは目を細くする。
「昨日も今日も、みんな変わりなく過ごしているから心配ないワ」
 おっとりとした口調でそう教えてくれたのは、イグサがこの小波字の班長猫だからだ。班長は情報を得るために足を使って担当する地域をこまめに回らなければならないため、普通は体力のある若いオスに任されるものである。例外としてイグサのように歳をとったメス猫が班長を務めているのは現在、この小波字だけだ。
「そうか、それなら良かった」
 安堵の息をついて、イグサの隣で横になる。
 北向きの庭で、ここの庭石は常に家の陰に入る場所に位置している。触れた石の、天然のひんやり感は気持ち良いけれど冷えすぎる事がなくて、とても身体に優しい。
 目を閉じると、イグサは俺の眉間を毛並みに沿って、親猫が子猫にするみたいに舐めてくれた。イグサからはいつも、ほわりと良い香りがする。それはイグサが畳屋の猫であり、その作業場で出た藁やイ草の屑を好んで寝床にしているために付く、草の香りだ。『イグサ』という愛称は、そこに由来している。
 柔らかな物腰と香りが、郷愁をくすぐる。郷愁、と言ってしまうと実際の郷里は今いるこの葦沢町なので語弊があるが、イグサという猫そのものに郷里のような親しみと懐かしさに似た安らぎを覚える、と説明すれば伝わるだろうか。この町の猫達は皆それを恋しく思って、特に用がなくてもおのずとイグサの元へ足を向ける。人間で例えれば縁側でお茶を飲んでいるだけで近所の人達が朗らかな顔を携えて立ち寄る、イグサはそんな『町の皆のおばあちゃん』的な存在なのである。自分から出向かなくても集まってくる猫達からたくさんの話を聞けるので、イグサは小波字に限らず、町全体の事をきっと誰よりも広く知っている。イグサが例外的な班長猫なのは、そういう理由があっての事だ。
 やや疲れていた身を涼しさと温もりの両方に癒されて、ほどなく眠気が寄せる。
 よく似た雰囲気のイグサが、俺と『ばあちゃん』との記憶を、そっと、夢に連れてきた。


 ――夕刻前の、縁側の日陰。身体を長く伸ばして寝そべり、俺はいつも、後ろに日除け布がついた麦藁帽子を被って畑の手入れをする、飼い主のばあちゃんを見ていた。
 ばあちゃんは名を木下八重(きのした・やえ)と言い、皆には『ヤエばあちゃん』と呼ばれていた。俺がヤエばあちゃん家にやって来たのは、乳離れして間もないほど小さな、子猫の時分。親類の家で産まれた俺を、ばあちゃんが引き取ったのだ。『コクミツ』という俺の名も黒色の毛と蜜色の瞳からばあちゃんが付けてくれたもので、漢字で書くと『黒蜜』になる。
 ばあちゃんとは共に暮らしてはいても、いつでもどこでも一緒、というわけではなかった。……というと仲が悪かったのかと誤解されそうだが、そうではない。ばあちゃんにはばあちゃんの、俺には俺の決まった生活スタイルがあり、お互いにそれを尊重し合っていたからこその事だ。人間と猫なので元より言葉は通じないのだが、何も言わずとも通じ合う、ばあちゃんとはそんな良い関係であったと俺は思っている。俺が町のボス猫になった事をばあちゃんはちゃんと分かっていて、急な用事で家を空けたり、帰宅が遅くなったりしても決して怒る事はせず、一日の終わりには、労るように布巾で丁寧に俺の毛を拭ってくれた。そして俺は、高齢で何をするにも時間はかかるけれど身の回りの事は極力自分でこなし、ぼちぼちと畑の仕事を続けるばあちゃんを、毎日こうして見守っていたのである。
 草を抜いたり水を撒いたりすると、土の匂いが風に乗って辺りに広がる。俺は特に、畑の肥えた土の匂いが大好きだ。畑はそこで育てる作物に合わせてまず土作りをするもので、結構な量の肥料を必要とする。しかし重たい肥料を何袋も、ばあちゃんはとても一人で運べない。それでここへはいつも、種苗店を経営する人の良い店主が、島中字から軽トラックでそれらを配達しに来てくれていた。そうして作られる土で、大事に育てられていく色鮮やかな野菜達。そこにいつもある、ばあちゃんの姿。土に混ぜ込まれる油かすや鶏糞などは良い香りだ、なんてとても言えないもののはずだけれども、俺にとってはそれ以上に、『思い出が香る』ものなのだ。
 長く慣れ親しんだ風景。そこからばあちゃんの姿が失われたのは、突然の事。
 何かの倒れる音に、寝かかっていた俺は少し驚いて頭を上げた。畑に目をやると、今そこで作業していたはずのばあちゃんがいない。 小柄で背が丸いため、この時期は立っていてもよく育った夏野菜の中に埋もれがちなばあちゃん。それでも歩いたり作業をする音で、いつもなら畑の中にいる事を、すぐに確認できたのだが――。
 いくら耳を澄ましてもその気配を捉える事ができず、不審に思って縁側を降り、畑に踏み込む。
 ――ばあちゃんは、キュウリの蔦と葉が茂る支柱の陰に、倒れていた。
 全く考えもしなかった事態に気が動転して我を失い、その時の俺はただ、ばあちゃん、ばあちゃんと叫ぶように鳴く事しか出来なかったと記憶している。俺の鳴き方から異変を感じたらしい近所の人達がすぐに駆けつけてきて、ばあちゃんは車で運ばれていった。

 ――それっきり。
 ばあちゃんが、この堤字の家に帰ってくる事はなかった。
 家財もほとんど引き払われて、その後は、定期的に親類らしき人が家屋の手入れと風通しのために訪れるだけになった。

 そして思わぬ再会は、考史郎の自転車に跳ねられてしまったあの日――白いもやのかかる、あの世の手前。
 姿が見えたわけではない。でももやの向こうにばあちゃんがいる事が、何故かはっきりと分かったのだ。
 抑えられない気持ちにまかせてもやに入りかけたところで、声に足を止められた。
 ――コクミツや、まだこっち来てはいかんよ。
 悲しみで涙を流す、という事を知らない猫の身。苦しいほど胸をいっぱいにしたのは、それまでずっと流せずにいた分と、その場で一度にこみ上げた分の涙だろう。
 そこに、誰よりも恋しかったばあちゃんがいる。でも、ばあちゃんは来るなと言う――。
 それが何故なのか、その時すっかり子どもに返ってしまった俺には、すぐに分からなかった。戸惑っていると、ふいに底から熱が湧くように、温度を感じなくなっていた身体が暖まり始めた。
 ――任せるでな、ばあちゃんと暮らした町、しっかり守るんやよ。コクミツの事は、ばあちゃんがこっから、ちゃあんと守っとるから――。
 葦沢町のボス猫としての勤め。それをこんな形で終えてはいけないと、ばあちゃんはそう俺に諭したのだ。
 確かに、突然ボス猫をなくしてしまったら町の猫達はさぞかし混乱するだろう。ばあちゃんと俺が一緒に暮らした、大切な町。その町の、人と猫の変わらぬ平穏を守り続けていくためにやらなければならない事を、俺はたくさん、残してきてしまっている――。
 そう自覚した俺は、今すぐにでもばあちゃんの懐へ飛び込んでしまいたい気持ちを必死で堪えて、ばあちゃんがくれた『不思議な力』と『守っているから』の言葉を胸に、その場から、引き返したのだった。
 振り返る事はしなかった。言葉がなくても、姿がなくても、ばあちゃんが笑顔で送ってくれているのが、分かったから。

 そうして俺は今、考史郎とひとつになり、この世、この町に、留まっている。



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