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   【09】Nefertem


 上の梢がないていた。
 翼の中で温めていた連れ合いが動かなくなり、彼の身も凍てつく風に晒されて、羽根が一枚ずつ枯れていくかのごとく冷えていく。力は虚空へと吸い上げられ、重さだけが残った二羽の身体は、敢え無くなって枝から落ちた。


 彼はその甘く気だるい匂いに、覚えがあった。嗅覚は記憶の把手。物忘れの作用は唯一、効力を持つ匂いそのものの記憶だけは残してしまうらしい。
 花の先から零れた朝露みたく、彼はいつの間にか、たゆたう葉の上に転がっていた。暖かさを感じて羽根が覆うその身体を起こすと、一面の煌く水に目が眩む。そこには青い睡蓮と肉厚の葉が無数に浮かんでいて、芳しい香りを、漂う靄に含ませていた。
 天の国の概念は、人が心に起こしたもの。しかし彼は鳥でありながら、今居る場所を『天上の鉢』であるとすぐに釈した。
 神々が使う品の尺度までは想像に及ばない中、茫洋たる鉢の遥かな縁は、睡蓮が担ぐ太陽により、醸された蜜色の光を垂らされて輝きに満ちていた。
 太陽でさえ、死んでまたここに生まれる。そう思った彼の頭上を、一羽の鳥が越していく。高みのそれはすぐに掻き消えてしまったが、その真下、睡蓮の合間の水面にはまだ影が滑っていた。
 葉の際から水を覗き込んで、彼はその理由を知る。あの鳥の魂は鉢の底に広がる、下界にうつったのだと。

 ――娘は行った。お前はどうするのか。

 胸を直に震わせる声。もし望まなければ、この潤った場所に永劫居られるのだろうか。そうした考えが過ぎり、彼は乾いた日々と寒かった終わりを思い出して羽根を膨らませ、目を閉じる。それを、まだらな靄が通り過ぎ様、一時だけ濃く取り巻いた。
 そこを訪れた者に配られる青の香りは、生きる痛みを忘れさせ、再び明日を追う日へと旅立たせるための優しく残酷な餞別。そう悟った次の瞬間には、彼はもうその記憶を綺麗に濯がれていた。
 すくめていた首を伸ばし、身を細く引き締める。最後まで覚えていた、満ち足りた気持ちが力となって彼に葉を蹴らせた。立った後の水に生じる、丸い葉の形をした一重の波紋。その金の輪が、中に彼の魂をうつした。


 平たい石の面が余分な体温を引き受け、上に眠る彼を冷ましていた。
 彼が意識を取り戻したその部屋は、剥き出しの寝台がある以外、がらんどう。四方にぽっかり開いたきりの窓や戸口からは風と砂が出入りするばかりで、人の気配はない。
 彼は照り付ける光線と大気の熱に中てられ、そこへ至るまでの記憶を飛ばしていた。頭の芯がまだ乾燥でひび割れているかのように痛み、寝転がったまま額に手をやると、指の腹に冷たいものが触れた。摘んで見ると、それは船の形に似た瑞々しく青い花弁。滴が、舳先から彼の頬に落ちた。
 彼は起き上がり、それを持ったまま表へ出た。辺り一帯は彼が居た小高いところの廃屋と村落があったらしい形跡を残し、黄色く焼かれた砂に没している。
 日が高い。回復が十分でない彼はまた崩れそうになり、廃屋の影へ戻って壁に背を預ける。その周辺だけが、不思議と水底のように涼しかった。
 手にしていた花弁が風にさらわれていく。目で追った先の離れた砂丘には、傾げた十字の柱。それが制裁の剣か、哀惜の墓標か、今の彼には知る由もない。
 花弁は天にすくい上げられ、彼がいつかまた訪れるところへと、先に渡っていった。



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