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   【08】神の娘


 炎天の下、進むにつれて人の姿はおろか雑草まで寂れ、荒んだ砂の積もる地は、今や乾いた彼が渡るだけ。煙る地平にようやく丘陵と村落らしき影が浮かぶと、蜃気楼や逃げ水の類でない事を願いながら、彼はそちらを目指した。
 茫としたそれに近づく毎、意識が霞んで遠くなる。辿り着く頃には朦朧として、そこで最後に目にしたのは、仰いだ太陽の逆光に映える、大地に刺さった剣のごとき影だった。そこからしばらく、彼は意識の綱を手放す事になる。


 どことも知れない場所で、彼は甘い芳香に浸かっていた。吸うほどに頭の奥へ染み透り、記憶が溶けていく。目を覚ます頃には、それまでの自分に関する一切を忘れていた。柔らかな花弁か葉に寝かされている感覚を持ったまま、虚ろに目を開ける。そのまっさらな彼が最初に見たのは、自分を覗き込む者の顔。はらりと零れ落ちてくる髪に、光を透くような明るい肌。憂いに濡れていた両の瞳は、彼が目覚めた事に気づいて瞬き、輝いた。
 彼女が笑顔になり、彼も、自分が微笑んでいると感じた。自分の事など何一つ分からなくていい。彼女を傍らに持てる事が全てだと思った。
 出会うべくして出会う。成るべくして成る。偶然に偶然を掛け合わせて生まれ、成立したこの世界に、果たしてそのような、運命とも呼ばれる約束事は存在するのだろうか。それでも一目で恋に落ちた互いは、世を跨いで今再びここに会えたものと信じて止まなかった。


 丘に一軒きりの彼女の小さな家には、絶えず花や果実や織物が溢れていた。どれも皆、丘の裾の村人達が彼女に捧げたもの。その尋常でない量については、敬愛でははなく強迫の念が由来だったが、その辺りの事情を、彼は何も知らなかった。
 彼女は部屋の彩りと香りを支配する捧げ物に囲われながら、彼に語った。表で、花が偶然咲くところに貴方と居合わせたいと。果実のようやく見つけたひとつを貴方と分け合いたいと。彼女の境遇と本心が、そこに詰まっていた。
 だから彼は、彼女を連れ出そうとした。その行為が、村人達を慄かせてしまう。

 ――彼女は神の娘。

 居なくなればこの地が砂に呑まれる。砂漠の際で、それの侵蝕に脅かされながら暮らす彼等はそう信じ込んでいた。過去、丘の廃屋に赤子が置き去りにされていた事と、日を同じくして村に水が湧いた事とが関連付けられ、現在の彼女が在る。彼がそれを知ったのは、彼女から引き離されて房に閉じ込められた折。
 二人が覚える運命にも、村人が抱く畏怖にも、根拠はない。流れ動く砂に打ち込まれて傾げた十字は根拠なき確信を象り、愛に駆られた者は不安に駆られた者達の手により、そこへ架けられた。
 日が落ち、命の灯も潰えようとした時、彼は空から問い掛けを受ける。

 ――あの娘だけを愛してくれるか。

 声の方角へ舞い上がった一羽の鳥影により、真円の月が欠ける。彼は自分をどこか遠いものに感じながら、その心が満ちるために唯一つ必要な存在へ、思いを馳せた。
 途方のない旅。その果てに、他に望むものは無いと迷いなく答えられるとしたら、何と幸せな事だろう、と。
 確信が、苦悩から解き放たれんとするあまり逆に自他を縛り付ける危うさを孕んだものには違いない。そんなふうに、心が描写する心の概念を足場に、まさしく心許無く生きるしかない人にとって、本当に解放されるのは『人で在る』という縛りを、絶たれる瞬間かもしれなかった。
 そして彼も、真白い翼を広げる。飛んで、先立った鳥に追いつくと月は僅かばかりその光を増して、二つの小さな影を、そっと覆い隠した。



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