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   【07】トリカヘバヤ


 どこまで歩んでも同じ街から出る事が叶わず、彼は辟易していた。先に当ては無いが、ここに用も無い。絡み合う喧騒は払い除けても後から後から戯れに引っ掛けてくる蜘蛛糸みたいに煩わしく、人の毒気に中らない内に離れたいと思った訳だが、見知らぬ人々をそこまで嫌悪する故は本来の彼になく、どうやら昨夜の怪をひとつ連れて来てしまったようだと気づいたのは、とある興行で人寄せをする者に出会った時だった。
「サァサ寄っといで。お代は見てのお帰り」
 するりと入り込む軽妙な語り口。釣られた彼はついとそちらを向いた。人だかりの隙間から見えたその男の、今にも蝶や花が零れて出そうな派手やかな装束は、人目を引くためのもの。どこに紛れても目立たず、柄といえば裾に撥ねた泥くらいの彼の外套とは、甚だ縁遠いものである。ただ流し目に見て返すその者の顔立ちは、彼と全く同じ作りをしていた。互いに覗き合う格好になり、焦点の定まるところ以外の視界が、不自然にぼやける。
「今は昔、夢は現」
 男は人寄せに、音吐朗々と歌う。その声の美しさに、見目の麗しさに、評判の高まりに、多くの人が心奪われて脇の戸口へ吸われていく。
 迂闊に耳を貸せば、化かされる。自戒を強めようと働くその脆い部分を先読まれ、付け込まれた。
「さあ、そちら様も。ご所望のもの、何なりと思い、これに御覧あれ」
 この姿は見る者の願望の一端――。優美に頭を下げ、再び上げた男の目はそう告げていた。口の端で笑う。
 そのような俗世間の誉れなど求めていない。頭で否定するのとはうらはらに、胸は真相を突きつけられたように動悸した。
「お気に召しましたなら、私ごとそっくり差し上げますとも。無論、等価で」
 捨ててきた筈の望みは埋み火に似て、ふとしたところで再燃してしまうものなのだろうか。胸に手を当てて、彼は自嘲した。
 無闇と無いものを求めてはいけない。日を追う者は影を負い、誘いは尽きないのだから。紛い物の機運に乗じれば、その影に取って代わられる。
 そうして彼が背にくっつけてきた怪のひとひらを払い落とすと、人が流れ動いて男との間は遮られた。向こう側が見えなくなり、またすぐ開けたそこに居る男は、もう彼と同じ顔ではない。
 さほど不快ではなくなった流れの中に立ち止まって居ると、その腕にすがってくる者があった。
「御兄さん。旅の途中とお見受けしますが、今宵の宿はうちで如何?」
 その若い女の手が、這って彼の腰や首元に回る。露な腿も絡めてぴたりと寄り添い、彼女は艶のある声で耳打ちした。
「お安く致します故、私の事も買って頂きたく――」
 言い終わらない内に、彼は馴れ馴れしく纏わる女を半ば乱暴に振りほどいた。彼女は驚いて一歩後ろへ退く。
 薄汚れたみすぼらしい衣と履物で、女は憐れみを誘おうと彼に上目を遣った。しかしそれでも相手の態度が変わらないと分かると、溜め息を吐く。
「情にほだされない、つれないお人」
 諦める時だけは随分とあっさりしていた。身を翻してすぐさま次を漁ろうとする。だが、何を思ったか今度は逆に、彼がその女の腕を取っ捕まえて自分の方へ手荒く寄せた。
「ひっ」
 有ろう事か女のふくよかな懐へためらいも遠慮もなく素手を突っ込み、そこから何かを掴み出す。それはたった今、彼がすり取られた財布だった。
 女は思いもよらず胸のあれやこれやを見透かされていた事の羞恥で顔を真っ赤にし、先ほどまで自分から大きく開けていたそこをかき寄せて隠した。
「情に溺れない、つまらないお人」
 捨て吐いて駆けて行くその背にだけ、彼はほんの少し憐みの念を抱いた。



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