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   【06】終わる世界


 紫立つ東の空。そこに輝く明星が呼ぶのは、朝の日か、或いは。
 彼は夜通し、自らの足音を聞いていた。そんな時間帯でも、誰も見かけない訳ではない。からくりの街は裏側で蠢くように稼動し続けていて、人もまた然り。むしろ夜半から明けにかけては、からくりにしろ人にしろ、その包み隠された構造の複雑な部分が、最も活発になるのではないだろうか。
「夜が明けよる。世を明かしよる。ほれ、早う来い。そこな金星の勝ちどきを妬み、真似て日に先回れ。なりに構わず、俗気にあざれた舌を晒せ」
 真後ろから、しわがれた声がした。振り返ると、今しがた通り過ぎて何も居なかったはずのそこに、小柄な老人が忽然として立って居る。夜陰の頭巾の下から、光る双眸が彼を伺った。目が合う。
「おや――その懐の物。こなたにくれた覚えはないがのう。こなたを喰うた覚えもないがのう」
 老人の捻れた杖先が、彼に向けられる。右へ左へ、鳥を思い起こす仕草で首を傾げてみせる奇怪な老人と相対しながら、彼は懐に手を入れ、心当たりの品を取り出した。
 手の中で、その黒い羅針盤は緩慢に針先を振る。振幅は徐々に大きくなり、更には回り始めた。同時に、静かだった辺りに不穏な水のざわめきが起きた。針の回転と街中を巡る水路の流れが急激に速まり、みるみる嵩を増していく。じきに溢れて路に這い出た水は、闇に赤茶けた色を浮かべ、彼等の足にも纏わる。
「ほほ、からくりの鉄が赤錆を噴いておるわ。早う来い、早う来い。すくえぬ水の邪鬼共」
 老人の声で、彼との間に岩が叩き込まれたかのごとく水柱が立った。無数の飛沫のひとつひとつが、宙で次々に異形の者へと転じて群れを成す。彼はたちまち、羅針と同期して回るその怪に取り囲まれた。両の足も腿まで赤錆が絡みつき、身動きが取れない。
 彼は怨嗟に八方から肺臓を圧され、十分に息を吸えない苦しさから眉をしかめた。これ等は本物の鬼なのか、と思考したのも容易く見透かされる。老人は喉を絞って笑った。
「そも、『鬼』とは何ぞ? 人を喰うのが鬼ならば、人こそ人を喰う。腹でなく胸を、人の不幸で膨らせんとしてそれを底なしに求めよる。そんなもの喰わずとも死なぬというのに、喰わずにおれぬときた。はて、本に『鬼』とは何ぞ?」
 鉄錆色の異形達は、確かに血生臭かった。元が、人の形と思わせるほどに。
「明ければ終い。こなたは贄。明くる日には居らぬ者」
 怪は水から湧き続け、邪気も湿気も上がる。囲う輪を縮め、回転の軸にあたる彼へ迫る。羅針はそれを持つ彼の手が熱さを覚えるまでに加速して、その勢いで盤全体を奮わせていた。
 喰われる。空気の変質にそう気取り、全身が粟立った刹那。焼き付く熱を放ち、羅針盤が音を立てて爆ぜた。粉々に散るそれは、ようよう参じた陽が街に浴びせかけた光で、金や銀に煌いた。邪な水も老人も蒸発し、朝と街に同化していく。その最中、不満あらわな声がいくつも聞かれた。

 ――代わりに壊れよった。
 ――つまらぬ。興醒めよ。
 ――晩に悔い残した。口惜しや。

 直後の明るんだ街は何事も無かったかの様相で変わらずに回り、いつしか彼の周囲には、人の行き交う姿が増えていた。端の水路は溢れる事も淀む事もなく、とうとうと水を流している。

 ――本に『鬼』とは何ぞ?

 一瞬、眩暈がしてまた水に惑う。周りの人の形が波打って崩れ、すぐに元へ戻った。
 じくり、と手が痛む。彼は火傷の赤みが残るその掌を見て、自他とも戒めるように握り込んだ。終わりは日毎、口を開けて明日の手前に待ち受けているのだと。



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