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   【05】羅針盤


 天球の時計は、何が動かす?
 羅針の向く方は、誰が定める?
 舞台を回す、からくりの街。歯車が噛み、瞬く毎に、こくりこくりと陽が沈む。色もくるりと朱を藍に。


 幕が下りても興が冷めやらずさんざめいていた街の灯は、しかし夜が更けるにつれ、ひとつ、またひとつと客が去るみたく消えていく。その都度、照明の陰に隠れていた星が、空で慎ましやかに光るのだった。
 彼は仄暗くなってまどろむ街を歩く。その路の脇に、一人の青年が座り込んで居た。向かいの店から射す窓明かりが一点浮かび上がらせるそこで、ぼろを着て、立てた片膝に顎を置き、掌に収まる何かを見つめている。
 少し興味惹かれて、彼は歩み寄った。傍らまで来ても、青年は目線を落としたまま動かない。その掌にあったのは、小さな羅針盤だった。
「これは『或るもの』と引き換えに、譲り受けました」
 青年は挨拶も前置きも何も無く、語り出した。よくよく見るとその羅針盤の盤面は真黒く塗り潰されていて、文字がない。暗澹とする上で、赤い針先は磁石でありながら指す方をふらふらと決めあぐね、頼りなく震っていた。
「方位ではなく、持つ人の心が向かう先を表してくれるらしいのですが、御覧の有様です。参りましたね、これではどちらへ行けばよいやら分かりません」
 内容は胡乱でも、彼には青年が嘘を吐いているように感じられなかった。奇妙な羅針盤の話が嘘であるとして、察するにそれは、青年が譲り受けたという相手に吐かれたもの。そうしてまやかし物を掴まされたのだろうと、彼は思った。
「心のまま進むだけで、秘められた宝が見つかると信じていました。ですが、何故そう信じていたのかがすっかり抜け落ちてしまって、今や自分でも分かりませんし、そもそも、宝、とは何だったのかすら――」
 路沿いの建物の窓明かりが、無作為に消えていく。ひたひたと、濃い闇が寄せる。
「抜け落ちたものが、恐らくは引き換えに失くしたもので、これを作用させるのに、必要なものだったのでしょうね。いやはや、まさしく抜けた話です」
 終始他人事めいた軽い口振りに、心が向かう先を表すという羅針盤の不全。黙して語りを聴いていた彼は悟る。この青年には、心は在ってもその中心に熱く対流するはずの『核』が無いのだ。それでは、その羅針や彼自身を何かへ向かわせる磁力が、生ずる筈も無い。
 二人を照らしていた明かりも、やがて前触れなく落ちた。同じ電源が絶たれたように、以降、青年は口を噤んで何も言わなくなる。沈黙に生ぬるい夜風が流れ込んだ。
 彼は、青年の隣に腰を下ろした。互いにどこかしら似た空気を感じながらも、目を合わせる事はしない。そうして青年が夜を介して彼に語ったのに対し、今度は、彼が歌を介して青年に語った。その星影の舞台を観る者は居らず、ただ青年だけが、じっと旅人のそれに耳を傾ける。
 歌が終わると青年は悲しげに微笑み、羅針盤を握り締めた。
「人の心の赴く先に、本当に宝はあるのでしょうか。宝とは、一体何なのでしょうか」
 その探求は、彼の旅の主題でもある。答えは今そこに無く、これからも彼等を悩ませ続ける。
 青年は立ち上がり、初めて彼に顔を向けた。
「歌を、有難うございました。分けてくださったその心と引き換えに、これを、貰って頂けませんか」
 他に何も持たない青年は、せめてもと羅針盤を差し出す。彼も立ち上がると、それを少しの間見つめた後、片手を出して受け取った。
 青年は身を翻し、日々太陽が向かう方角へと歩き出す。
「私には、何も分かりませんが――」
 どこへ、と彼が胸の内で尋ねたのが通じたのだろうか。青年は去る背で言った。
 探し続ける果て無き道に、失くした『夢や希望』を、見つけに行くのです、と。



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