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   【04】natural


 どこまで沈んだか、昇ったか知れない。瞼が光と平行の感覚を絶ち、現から遠のいて久しい。取り巻くものが水だろうと空気だろうと、彼がそれになすがまま流されている事に変わりはなかった。
 大きな流れに、抗う力は湧かない。攪拌され、生気の泡が抜け出し、角砂糖のように崩れ、更に細かな粒子となって、彼を構成していたひとつひとつが溶けていく。形も記憶も、何もかも。
『彼』と識別されるだけの成り立ちが失われるまで、分解する。彼が彼では無くなっていく。自分を忘れ、自分が忘れられるとはこういう事なのかと、彼はおぼろに思った。
 ふと――。そこまでの状況に陥りながらも未だ『我』としてそれを『思う』事に気がつく。そこを転機に、徐々に周囲が冷えていくのもじわりと感じ取った。暗黒の溶媒が飽和して、彼の自我は、溶け切らずに残ったのだろうか。
 かき回されるその中で、軸のように渦が生じる。彼がいよいよ冷たさを認知すると、溶解度が上がり、再び結晶する彼の要素と、自我とが、渦に寄せられ始める。
 星の公転のごとき模様を呈しながら、彼は、その中心に光り輝く熱の塊――太陽が在って欲しいと望んだ。暗く冷えたこの場所から出たいと、散り散りの欠片を求心する。
 すぼんでいく渦の道を辿ると、彼は一つにまとまって固まり、元の『個体』に成った。鼓動を胸に抱いて胎の道を通るみたく、明るい、暖かいと確かに感じる先の世界へと、今度は明確な意志を持って、吸われていった。


 しゃらしゃらと、葉擦れが聴こえた。草と土の芳しさに鼻をくすぐられ、しっとりとした風が、渇いた前髪を撫でては過ぎる。
 瞼の裏からでも分かる、射したり陰ったりする木漏れ日。涼やかなその下で、彼は動き出す前に自分を諭す。
 ここに溶けてしまうのはまだ早い。それは望む、望まないに関わらず、いずれ必ず訪れる終尾。ならば望むかたちでそれを迎えるための旅を、今しばらく続けようではないかと。
 何時ぶりかに目を開けると、すぐ前には湖が広がっていた。上にも下にもある空は、どちらも、どこまでも澄み渡る。穏やかな水面には、彼の知る彼が映っていた。
 風景の一切が洗われて見えたのは、人の性質を一旦喪失し、心身とも根源の単位にまで解かれて洗われたからかもしれない。
 両手を浸し、ひとすくいした水を飲むと、彼はやおら立ち上がり、その辺を後にした。



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