【03】水鏡
山間の道は寂れていた。そこで迷い、好き勝手に生い茂った草や枝にあちこち突っつかれたり引っ掛けられたりしながらやっと抜け出た先に、その湖はあった。
『あすこの水辺には、寄らぬ方がよろしゅうございますよ』とは、道すがら聞いた話。何でも湖に住まうあやかしが、人を引き込んでしまうのだという。
土地の言い伝えには、危険な場所を教え、人がそこへ近づかないようにと生じた方便も多い。その湖の話とて、恐らくは過去の水難による犠牲の戒めとして出来たものだろう。彼はその程度にしか捉えていないつもりでいた。
青天と水天。広大な対の空の狭間で彼は双方に癒しと活力を求め、しばらくそこに留まろうと決めた。喉を潤すつもりで、水際まで来て屈む。
――寄らぬ方がよろしゅうございますよ。まして、覗くなどした日には――。
知らない間に髪に挟まった木の葉のように、その話は頭の端に残っていて、無意識の領域から彼に働きかける。禁戒に対する好奇は、抑止の壁である表層意識を不意打ちで破った。そして水に映った自分の姿に、彼は息を呑む。
水は元来、無色透明で我を持たないもの。水そのものに気配を感じる事があったとしても何の事はない、それは単に己がうつしみである。水は何者でもないので何者にも成り得、実物に忠実な姿を、常に上下左右あべこべで転写し続けるのみ。それは性質。怪異などではない。
ただ、いくら水自体に意思がなくとも、人の側にはそれがある。見るものを歪めてしまうのは人の性質。
言い伝えを耳にした事で、自身の姿を、そのあやかしの姿に歪めてしまっているのだろうか。そう考えを及ばせる彼の眼下、逆さの辺には性別まで反転した『彼女』が居て、『彼』の居る方を、覗き込んでいた。
このような幻惑に遭う事を苦々しく思い、彼自身が顔を歪めてしまう。それに対し、弱き心のうつしみである彼女は艶かしく微笑んだ。水面を境に応酬する。
――去れ。
――おいで。
――私は活きるために水を求めるだけ。
――私は沈むために身を捨てるだけ。
彼女が涙して下から上へ一滴こぼすと、彼の側からは花がひとつ落ち、合わさった瀬に小さな波紋が生じた。揺々として、平静が乱れる。
渇望すればするほど、絶望する。この世界の常に、やはり人である彼は勝ち得ない。
実が惑い、虚が誘う。互いに手を伸ばし、双方の指先が、二の腕が、前髪が、隔たる面に吸われていく。
最後に唯一残された大きな波紋も、時がゆるりと伸していき、やがて失せた。
扉が閉じた後のように、もう来訪者の影は表に無く、二つの空の間は元の通り、静寂に埋められていった。 |