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   【02】藍玉の箱庭


 雲が千切れ、天上が開く。さんざ泣き晴らした空はなみなみと、下一面の水を青色で満たした。
 ようやく立ち上がった彼は、自分が水面に僅か突き出た、栄華の名残を足場にしていると知る。光が届くほど透き通ったその底には、深い悲しみに暮れて没した街。
 どちらを見渡してみても、果ては水。滑らかな水平線の円に囲われていたら、彼は、まるで自分が美しい玉の上に乗せられているような心地になった。
 水底の、街の骸を苗床と支柱にして這い上がった木々が、水上のあちらこちらに枝葉を覗かせ、そよいでいる。涙の滴のようなその玉は、内側の世界の傷を、密やかに癒しているのだった。
 光に咲く花。水を立つ鳥。生命に溢れて不意に足元より噴き出たその小さな者達が、彼を真ん中に据えてつむじとなった。下から煽られて瞬刻目を閉じた彼に、それは色めいて囁きかける。

 ――歌え、踊れ。我等と共に。

 つむじは次第にほどけ、形作っていた群れは新たな天地へと散じていく。束の間の出来事だった。舞い上げられていた静けさが、再び水面に降り立つ。
 もう一度、何かが囁きかけた。

 ――歌え、踊れ。愛しき子等よ。

 佇んでしばし微動だにしなかった彼は、やがておもむろに呼吸をし、気を整えた。帆柱の先にも似た狭い足場。しかしそんなところが舞台とは思わせない芯の通る所作で、歌を剣にして舞い始める。
 風の形は雲が描き、風の音は緑が訳し、風の行方は波が刻む。人の心を歌や踊りにかえて伝えようとする事もそれに同じとし、彼はその感覚を、躍動をもって身の隅々にまで行き渡らせていった。
 こうしてまたひとつ胸に藍の玉を連ね、彼は、何度でも行かなければならない。絶てないものと知りながら、それを相手に切り結び続けなければならない。
 哀の箱庭で一時の慈しみと癒しを得、生きる力を蓄えて、無常を歩むのである。



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