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   3.喜怒愛落


 解放されていた時間はごく僅かで、ユディエは仕事に戻るとすぐにまた、『心』という不可視な次元に囚われてしまいました。研究所へ泊り込む日数が増え、たまに帰宅して顔を合わせると、まるで知らない間に血でも抜かれているかのような生気の無さを伺わせます。見かねたラセフは彼女に長期の休暇を取らせようとしますが、申請を受けた管理部はそれを了とせず、納得しないラセフを説得するべく、すぐさま彼女の配属先の担当者が家を訪れました。
 ラセフと客人のために、アルアはいつも通りの準備をします。ラセフが好む蒸らし時間をきっかり守ったお茶を持って応接室へ入ると、彼等はテーブルを挟んでやや険悪に相対していました。
「何故休む必要があるのです。彼女は主任としてチームの活動状況を網羅し情報を集積させています。すぐに代わりを勤められるだけの人材を用意する事は困難なのです。今抜けられては企画の進行に支障が出ます」
「このままでは身体を壊してしまうと言っているのだ」
 二人の間にある、硝子天板に敷かれたテーブルセンターは、アルアがユディエに教わって編んだ花のモチーフを連ねたものです。ただ、今はそのようなものに場を暖める力はありません。配られるお茶の甘く酸い香りも、場違いに漂います。
「医用機械分野の躍進に貢献した貴殿がそれを憂慮するとは滑稽です。壊れたならその部分を取り替えて直せば良いだけではないですか。これまでもご夫婦揃って、検診結果から勧められたご自身の生体器官の置換術を一切断っておられるようですが、導入される人工の器官はそれこそ貴殿の血肉に等しいものでしょう。何故拒まれるのか私共には全く理解できません」
 男の黒い髪を後ろにひっつめる香油が、融通の利かなさから中身は岩かと思わせるその広い額を強調しています。髪と同色のジャケットも、はだかる壁のように両肩をいからせていました。ラセフは溜め息をつきます。
「近年は、自分や他人を労うという感覚に欠いた者が多過ぎる。私は深く携わった工学者の一人として、それらの技術開発の理念が安易に身体を使い捨てさせるためのものでない事を、身をもって訴えているだけだ」
「実際に換える事がいくらでも可能となった現在、貴殿のこだわる労いというものに如何な価値があると仰るのですか。身体的不安が無くなるという事は自分にとっても周囲にとっても良い結果であって、そこに問題があるとは思えません。私共としましてはこれを機にその不安を取り除かれて、代わりの利かないご夫妻の知や技といった有益な財を、この後の時代にも存分に活かし続けて頂きたく」
 身を乗り出して語られるものを、ラセフは遮ります。
「身体は紛れもなく、人を人と、また自己を自己として確立させる柱のひとつだ。物同然に扱っていれば、いずれ自分と他人の区別もなく、世にある全てを物品としてしか見られなくなってしまう。君のそうした口ぶりこそ、その懸念を膨らます最たるものと何故分らない」
 男は埒が明かないと首を横に振ります。
「貴殿の経歴と今の言葉は、全く矛盾していてやはり理解致しかねます。そもそも貴殿はあらゆる面から世間を逸脱しておいでです。お住まいの趣向といい、『人形遊び』といい――」
 仕事を済ませて下がろうとしていたアルアに目をやりながら放たれた暴言に、ラセフはとうとう立ち上がって怒号しました。
「それ以上侮辱するのなら出て行ってくれ!」
 強い感情をぶつけられた男は、しかしそれに自身の感情を煽られた様子は微塵も見せず、腰を上げました。
「今日はこれ以上お話しても無駄のようですね。また日を改めて。失礼致します」
 すました礼を残し、指差された扉から彼が速やかに出て行くのを見届けると、ラセフは重い疲労感から、皮のソファへ腰と背を深く沈めました。背もたれにかけた手で、頭を押さえます。
「父様」
 声で我に返り、彼は閉じられた扉の脇に立つアルアの方を向きました
「ああ。すまないアルア、驚かせてしまった」
 温厚なラセフが怒鳴るという状況が未経験だったアルアは、取るべき行動を決定出来なかった時のための行動として、困惑の表情を作りながら指示を仰ぐように彼の名を呼んだのです。
 ラセフは眼鏡を外して畳み、ティーカップの横へ置きました。レンズを通したテーブルセンターの編み目が屈折します。眼鏡という代物は今や装飾品としての認識が一般的で、視力矯正用のレンズをはめ込んだものは特別にあつらえなければ手に入りません。それというのも、視力に異常をきたした眼はその根本から取り替えてしまう事が殆どとなったからです。もっとも、近頃は異常が出る前にと正常に機能しているうちから着替えでもする安さで、身体部位の置換を施行する者も珍しくありませんが。
「私は、決してあのような心無い言葉を吐かせるために人を生き長らえさせたかった訳ではないのだ」
 アルアへの語りは、半分、自分へ言い聞かせるものでした。男に指摘された通り、ラセフの中には確かに矛盾が生じています。仕事の成果としたものが信念とするものを取り残していく現実に、最早手綱は絞れないと知りながらそれを離せず引きずられる格好で、彼は抗っているのです。
 自身への愛着。他者への愛情。表にも裏にもそれらを忍ばせるポケットがない服に替えた人の言葉は、誰が入力しても同じにしか表示されない電子文字の羅列みたく感じさせます。その上、人への関心が薄れて気遣いというつっかえが外れるせいか、皆一様に流暢な語り口を呈して、本来なら災いの元として避ける事柄も平気で話してしまうのです。最終的にラセフを怒らせた、先程の男のように。ラセフはその症状を、胸の内で『まくし立てる無神経』と呼んでいました。
 人形遊び、とは、ラセフとユディエが純正の機械であるアルアを我が子同然に扱う様を、所内の者達が変わり者夫婦と揶揄するのに使っている言葉です。ラセフはそれを知っていて、平素は気に留めずにいますが、アルアに直接その無神経を投げつけられた今回ばかりは許す事が出来ませんでした。
 ラセフはアルアの入れたお茶を口に含み、一息つきます。
「――アルアには、いつも救われているよ」
 自分の半生の結晶である彼女を素直に愛せる事は、その半生の肯定ともなります。そういった意味で、アルアの存在はラセフの中で度々揺らぎそうになるものを、確かに支えているのでした。



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