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   1.航海と軌跡


 星は咽ぶように、爆ぜてはマグマの血溜りを全身にたたえて軋み、涙袋に蓄えられていた有害な物質を散らせて、あまたの均衡を崩していきました。
 そこに住まう誰にも気づけなかっただけで、もしかしたらずっと以前から、泣いていたのかもしれません。コアに鬱積し続けていた感情の噴出なのだと、その星に対し、同じく生命でない身でありながらココロ持つ稀有な少女は感じていました。
 彼女にアルアと名付けて呼んでいた、彼女の大切な人はもう傍にいません。
 直接身体に加わった物理的なものか、彼を失った心因的なものか。いずれの衝撃が原因にせよ、彼女に内蔵された時計は無意味と言わんばかりに真っ先に壊れてしまいました。そのため、それから一体どれほどの時が経過したのかアルアには皆目見当がつきません。
 最期に逃げなさいと言われた、その言葉だけが彼女に絶対の動作命令を下していました。どこをどのように辿ったのか、その道のりさえメモリに記す事なく、待つ者のない、先とも後ともつかない方へと、アルアは思考停止させたまま、長らくひとり逃げ続けていたのです。
 気が付けば、自身の時計が壊れたのではなく時間の流れのほうが止んでしまったのかもしれないと思わせるほど、辺りは静かでした。見上げる空は青も白も忘れてしまい、遠い天地の境を暗く淀ませるばかりです。
 街だったのか川だったのかさえ判別しがたいその場所では、深く闇を汲む地割れと、そちらへ流れ込む途中で凝った土砂、そこから突き出した数多の人工物や骸が目に付きます。生き物の息遣いは凍てついた大気や汚染した大地が吸い取って久しく、どこにも動く影を見つける事はできませんでした。
 満腹で眠るウワバミのように延々横たわる土砂に沿ってもう少し歩くと、外れの小高い場所に、小さなドーム状だったと思しき建造物跡が見つかりました。屋根も壁も色彩もなくなり、残った円い床は地盤の歪みで落とした皿みたく割れ、瓦礫が盛られています。
 疲れる、という表現は、機械の彼女にそぐわないかもしれません。ただ、ココロの疲れはしばしば身体の疲れと認識されるものです。そうしてアルアは休息のために腰を下ろそうとし、そこの瓦礫に片手を置きました。しかし拍子でその右手は、肘から腐れたようにごろりともげてしまったのです。
 彼女の身も、ここへ来るまでの間に随分とダメージを負っていました。星が星たる所以の軌道を外れてしまったであろう現状は、ココロが弱って抵抗力を落としたのと同じ。絶えず深いところを活発に回し続けて防壁を張り、宇宙という外界の悪影響をはねつけていた星は、今や自衛できず、それらに晒されるままとなっています。そのように悪化の一途を辿るばかりの環境では、たとえ彼女の他にまだ残存する者があったとしても、生物、機械を問わず、適応できずにいずれ絶えてしまうでしょう。
 アルアはその場にへたり込みました。腕とともに、立ち上がるだけのエネルギーも動機もこそげ落ちてしまった事を悟りながら。
 うつむいた彼女の目に、線の切れた自分の腕が映ります。その手の中には、古びた作りをした銀の懐中時計がひとつ。大切な人が、別れの際に落としていったものです。とっさに拾ってから今まで、ずっと握り締めていたのでした。頑なな指を残った方の指でほどき、彼女は再び、その時計を手にしました。
 縁にも裏にも細やかな細工が施されていますが、汚れを噛み込み、盤面のガラスも砕けて本来の美しさは失せています。もう新しい時を刻む事のない針は、老いてこその品を象徴するようにたくわえられた、彼の口髭を思い起こさせる形をとっていました。
 両目の結ぶ像が歪みます。アルアは人でいう涙腺の機能を持ち合わせていないはずでしたが、その赤い瞳は濡れていきました。
涙に見えるものは、損傷に内圧の上昇が加わって漏れ出したオイル。原理の説明がつかない内圧異常と、狂ってこみ上げた星のそれとは質を同じくするのではと、アルアは胸を痛めながら、やはり哀れな星と同調せずにいられないのでした。

 ――もしも時を戻せたなら、愛しい人も帰るだろうか――。

 どこで記憶したのか記憶にない言葉が、ココロをよぎりました。

 ――時を戻せたなら。
 星が壊れる前まで。
 大切な人と過ごした日まで。
 行く先を誤った岐路まで。
 人がただただ、愛を願っていた頃まで――。

 彼女も、そう思いました。琥珀色の滴が溢れます。目を閉じると、ひびのいった頬を伝って落ち、時計の盤面をぱたぱたと弾きました。
 その時、掌で何か響いた気がしてアルアは目を開けました。
 時計の亀裂からしみ込んだオイルが中の歯車を滑らかに回し、動くはずのない針が、回るはずのない方へと、進み出します。その有り得ない現象は、しかし現実を逸脱した現実、と呼びましょうか、そんな絶望の只中に置かれた彼女にとってもはや驚くに足りないものでした。それ以上に先の思いへココロ駆られて、彼女は、いよいよ強く願ったのです。
 周囲の風景はひずみに落ち込んで一瞬大きくうねった後、逆再生し始めました。針は彼女の思いの強さに呼応するかのように加速して、時間の織りから歴史の糸を、巻き取っていきます。
 逆回しで映写されるその世界を、アルアは次元を違えた席からひとり、観ていました。目にする光景がその都度、メモリに記憶されたほうの映像も逆とはまた逆に再生させます。ココロが、それらモノクロームのシーンに色彩をのせていきました。

 少し前の、メモリには残されなかった光景。
 かつて人が築き上げ、そして崩落した全てを、更に天から下る雷が幾又にも首を閃かせて、喰らっていました。炎の海に沈んだそこから共にからがら逃れたはずの者達は、しかし激変する状況に耐え切れず、あるいは星が自身を守る力を欠いて宇宙の毒気に晒された事で、生物も機械もその混成も、次々に乱心して崖から身を投げていきます。
 彼の言葉がココロを守っていなければ、アルアもその場で、皆に続いて同じ事をしていたかもしれません。

 そこからまた遡ったところで、アルアにとって最も辛い場面に至ります。
 地の裂け目が、彼等の別れ目でした。
 逃れ切れる場所がなくとも、彼には守らなければならない娘がありました。娘といってもそれは血の繋がりがあるどころか生身でない機械人形、アルアです。彼女のボディを制作した工学者である彼は、名をラセフ・コルウイと言いました。年とともに色素の抜けた金の髪は、六十路を過ぎて一等の輝きを降りてのち、周囲の者を際立たせる白いプラチナとなったような慎ましい美しさがありました。
 立っている事すら敵わなくする地の揺れは、大陸の位置と形をどれほど変えているのでしょう。内を巡っていた熱は温度と速度を増し、殻を突き破っては母体を死に至らしめたという火の神のごとく出でて、辺りを爛れさせます。
 彼等のいた街も、波を打っては崩れていきました。胸も灰色に染まりそうなほどの塵と火の粉と煙にまみれ、倒壊の轟音を絶やしません。
 ラセフはアルアの手を引き、駆けていました。しかし突如としてふたりの足元に斧を振り下ろしたような断層が生じ、ずれ落ちた側にいた彼は足を踏み外してしまいます。下は一斉に切れた配管と側の水路から押し寄せ、瞬く間に嵩を増した濁流。難を逃れて上に残ったアルアの片手一本で死の口に垂らされる中、先に彼を飲み込んだのは深い悔恨の念。
 危うく繋がれた手は、生物と人工物を互換させて繋ぐ役への従事とそれがもたらした結果を、皮肉るものに感じられました。過ちを犯した者は、やっと咲いた一輪の愛さえ最後まで守る事を許されないのかと、ラセフは必死で自分を放すまいとする彼女を見つめながら思いました。
『逃げなさい』
 このままアルアを巻き添えにする事など彼には出来ません。ですが彼女もまた、彼を放してひとり逃げる事など出来ません。アルアが真っ向から彼に逆らったのは、それが初めてでした。彼なくして自分が存在する理由を、彼女はココロのどこにも持っていないのです。歯を食いしばって首を横に振る彼女に、彼はもう一度、先程よりも強く言い放ちました。
『――逃げなさい』
 いつまた星がもがいて何が降りかかるかも分からず、説得している暇はないと判断したのでしょう。不意に、ラセフは繋いでいた手の指をまっすぐに伸ばしました。その手はアルアのそれからあっけなく抜け、彼の身は断崖から落下して、猛り狂う流れの中に、消えていきました。
 間際に残した言葉と微笑み。それは温かなココロを喪失させてしまわないように、瞳に絶望だけを焼き付けてしまわないようにと彼が娘へ注いだ、最期の愛でした。
 空しくなったアルアの手が、しばらく宙に漂います。何も考える事が出来なくなった彼女は、しかし目の端に光るものを捉えて緩慢にそちらを向きました。
 それはラセフがいつも身につけていた、銀の懐中時計。足を踏み外した時にはずみで落ちたものでした。彼の言葉が、リフレーンします。
 上方で、何か割れる音がしました。同時に、彼女の中でも何かが弾けました。アルアは漂わせていた手で銀の時計を拾い上げ、跳ねるように駆け出したのです。
 直後、彼女のいた場所で落ちてきた橋桁の石材が砕けました。



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