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 三月に入り、三年生は卒業していった。そして去る者あれば来る者あり。来週の半ばには、来年度の新入生を決定する高校入試の実施日が控えている。
 サクラサクのも近し、といった事を考えながら下校した午後、孝史郎からコクミツとなった俺は、巡回の途中で貝塚字の桜広場に立ち寄った。名の通り桜の木が囲う広場だ。中央に一際大きな桜が一本生えていて、開花時期にはお花見会場として町民に好まれている。
 俺はそこで、中央の木の下に集まっている猫達を見つけた。ユキチとヨツバと、彼等の四匹の子供達だ。皆で木を見上げているので、俺と同じく桜の蕾の膨らみ具合を見に来たのだろうと最初は思った。が、彼等が注視していたのは葉がなく見通しの良い枝の中の、人影。
 俺が駆け寄ると、一番にヨツバが気づいた。
「あらコクミツさん、ごきげんよう」
「おじちゃん!」
「おじちゃんだ!」
 もう成猫と変わらない大きさとなった子等に相変わらずそう呼ばれ、いつまでも微妙な抵抗感が拭えない孝史郎の方の俺。ヨツバが嗜める。
「貴方達、もう大きくなったんだからコクミツさんって呼んできちんとご挨拶なさい」
 ユキチが手本を見せる。
「ハイハイ、僕の後に続くっスよー、こんにちはコクミツさん!」
「はーい、こんにちはコクミツさん!」
「まあ、どう呼ばれても構わんがな」
 無駄に寛大を装い、俺は改めて木の真下より、そこに居る人物を見上げる。体格で判断するに中学生と思しき彼は、俺と目が合うとびくついた。
「ひっ……な、なんで増えるんだよ、何なんだこの町……!」
 どうやら町外からの訪問者のようだが、ふと、俺はその顔に見覚えがある気がした。太い枝をしっかと抱き込む手の指にはゴテゴテとしたシルバーリング、くせ毛が掛かる耳にはイヤーカフ、赤に白の派手目なスカジャン――。品行方正な中学生像をおよそ逸脱しているこの少年、過去に会っているならばまず忘れない印象を受けるが、どうも思い出せない。
 俺はヨツバに尋ねる。
「彼は、一体どうしたんだ?」
「よく分からないのだけど、私達がここへ来たらすごい速さで木の上へ登って行ってしまったの。それからあそこでずっと震えっぱなしなのよ」
 えっへん、とユキチが確信を披露する。
「これは降りられなくなったに違いないっス。僕も調子良く木に登って、高さに震えて動けなくなった事があるんで分かるっス!」
「全く、猫が得意げにする話じゃないでしょう」
 呆れるヨツバよりも、ユキチは現状の方を気にする。
「でもこれ、どうやったら助けられますかねえ?」
 桜の木は繊細だ。無闇と登っては傷めてしまいかねないので、少年には即刻降りてもらいたい。しかしユキチが言うように、降りられなくなっているのは確かだろう。ただ登った理由を察するに、彼が降りられなくなった理由は高さなどではなく――。
 考えを巡らせている最中に、真後ろで自転車の止まる音がした。広場に通学自転車で乗り入れたその人は、両腕と上体をハンドルに預け、猫の俺達に混ざって木の上の少年を不審げに窺う。
「……何やってんだお前」
「あっ、茶毛のお兄さん!」
 ユキチのボブテイルが上向く。徳永先輩だった。いつもの如く、下校する足で幼稚園までみゆちゃんを迎えに行くところと思われる。
 木の上の少年は、徳永先輩から目を背ける。
「……べ、別に、何でもないし。へっ、木の上は、さ、さみいな……」
 何でもないと主張する声も震えてしまい、取ってつけた言葉と共に鼻をこすって誤魔化そうとする。ちなみに今日はうららかな日和で風もなく、そこそこ暖かい。
「ん……?」
 徳永先輩は一層ハンドルに身を乗り出し、少年を凝視する。
「……前にどっかで、俺と会った事あるか?」
 徳永先輩も、彼の顔に見覚えがある様子。更に何処で見たのか思い出せないところまで、俺と同じ。
「はあ? 知るかよ、会った覚えなんかないし」
 少年の返事で徳永先輩がいらついたのを、横にいる俺は静電気をパチパチ受けたみたく察知する。先輩の気性を知らないとはいえ、あまり刺激しないでもらいたい。
「とにかく寒いならとっとと降りりゃいいだろ」
 徳永先輩が声を放ると、少年は黙り込んでしまった。一連の状況から、徳永先輩も俺が導き出したのと一緒の結論に行き着く。
「……もしかして、下にいる猫が怖いのか」
 急速に赤らむ少年の顔が、明答の証。
「なっ……なな、ンなわけないだろ! うるさいな、ほっとけよ!」
「そうかよ、じゃあな」
 ほっとけと言われてあっさり見限り、去りかける徳永先輩。彼にしてみれば別に関わり合う義理もないので、当然なのだが。
「わあああ待て待て! ちょっと待てってば、置いてくな馬鹿野郎っ! 助けろよお!」
 強がりから一転し、焦って取り乱した少年。その言葉を背に浴び、止まって振り向いた徳永先輩は、手の届く範囲だったなら既に相手を殴っていそうな形相をしていた。
「……馬鹿野郎? 助けろだあ? 誰に向かって言ってんだてテメエ……」
「ひゃっ……や、いやいやえっと、あの、助けろ……くだ、サイ……」
 凄まれた少年は語尾まで縮み上がる。これはまずい雰囲気だ。例え少年が無事に木を降りられたとしても、そのあと無事にこの徳永先輩をやり過ごせるとは思えない。
 どうにかして先輩を宥めなければと、俺はペダルから下ろされた彼の片足に駆け寄り、甘えた声で一鳴きして首をぐりぐり擦りつけた。
 ――こんな程度で彼の怒りを鎮められたら苦労はないのだが――。
 こわごわ頭を上げる。まさかその頭を、優しく撫でられるとは思いもせずに。
「……ツクダニ、お前……びっくりすんだろ、意外と可愛いじゃねえかよ……」
 吊り上がっていた目尻がすっかり下がっていて、こちらこそびっくりである。徳永先輩は案外ちょろかった。この際、もう俺は可愛いツクダニちゃんで構わず、指の腹でコチョコチョされるのに合わせてゴロゴロと喉まで鳴らした。
 ひとしきり俺に触ってクールダウンした徳永先輩は、面倒そうに頭を掻き毟ると自転車を降りてスタンドを立て、俺の正面で屈んだ。
「おい、お前ボス猫だったよな。悪いがここの猫全部連れて、他所へ移ってくれねえか。あいつ、猫が側に居ると降りて来られねえみてえだからよ」
 どうしてそれを俺に言って通じると考えたのかは、多分、彼自身でさえ説明できないだろう。そしてボス猫として信頼されている事を感じ取った俺は、理屈抜きで嬉しくなった。
 承知して身を翻すと、人と心は通じても人の言葉は通じない『普通の猫』であるユキチに確認された。
「茶毛のお兄さん、ひょっとしてあの人を助けてくれると?」
「ああ、そのつもりらしい。邪魔になってはいけないから、俺達はここを離れよう」
「よかったー! お兄さんに任せればもう安心っスね!」
 同様の案件で助けられた経験により、ユキチの徳永先輩に対する信頼は絶大だった。
「じゃあ私達はこのまま帰りましょうか。帰り道にイグサさんのところへ寄って、桜の状況も伝えたいし」
 ヨツバが言い、子供達がはしゃぎ出す。
「わあい、イグサおばあちゃんち行こ行こ!」
 それとは反対方面へ向かう予定のため、俺はここで別れを告げる。
「こっちは巡回の続きだ。皆、気をつけて帰るんだぞ」
「お務め、お疲れ様っス! あ、島中字の方は今日も平和で何も心配ないスよ!」
「さようならおじちゃん……じゃなかった、コクミツさん!」
 班長猫として俺に言い残したユキチは、自分の教え通りの元気な挨拶が出来た子供達とヨツバを連れて、帰って行った。
 そして俺は一番最後に広場を出たのだが、広場内が見えない所まで来た時、少年の歓声が聞こえた。
「――すげえ! まじスゲエーーー! 猫に言うこと聞かせられるんですか!」
 ……気になる。あのちゃらい少年とちょろい先輩がこの後どんな会話をするのだか、非常に気になる。少年が一体、何処の誰だったかも。けれど猫払いされた場所に引き返して見つかったらまずいし、これ以上の寄り道で巡回の仕事をおろそかにも出来ない。
 尾っぽを引かれる思いでしばし立ち止まっていた俺は、人、猫、双方からの信用を失墜させないよう、仕方なくそこを離れた。



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