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 それから程なくしてススケが貝塚字から呼んで来た梅じいさんは、行き倒れていた猫を抱いて鈴音の湯へと戻った。猫だかりはそこで解散し、様子を見に銭湯まで足を運んだのは俺とススケとホクテンの三匹だけ。
 営業時間外でがらんとした男湯側の脱衣場。俺達はバスタオルが敷かれた衣類籠の中ですやすやと眠る、そのメス猫を囲っていた。ちょっと前まで梅じいさんはここに居て、まだぼんやりとしている彼女に匙でペットミルクを飲ませていたが、裏の方から誰かに呼ばれて今はそちらに出ている。
 ホクテンが彼女の毛並みに感嘆した。
「こんなにも綺麗な銀色だったとは」
 倒れていた時のこびりつき汚れは風呂の湯でさっぱり洗い落とされ、他の特徴もしっかり認められるようになっていた。
「それでもって足先だけは靴を履いているような白。デガラシが会いたがっていた猫に間違いない。まるでシンデレラだな」
 俺の確信と彼女の美しさを前に、ススケは納得する。
「道理で、うちの湯がデガラシの『わずらい』には効かなかったわけだ」
 噂をすれば影。
「行き倒れた身元不明の猫様がいらっしゃるというのは、こちらですかっ!」
 一同振り返り、脱衣場へ飛び込んで来た彼を見る。
「デガラシ、耳が早いな」
「もしやと思って、取るものもとりあえず馳せ参じた次第で」
 デガラシは俺達が囲う籠を見つけてその中身を察すると、途端に緊張して脚を強張らせた。ゼンマイのおもちゃみたくギクシャクと歩み寄り、籠の中を覗き込む。直後の彼ときたら、尻尾の先から耳の先へと電撃が走り抜けたかのように毛が逆立つほどの高揚ぶりだった。
「ああ――この方です、確かに、確かに私が見たのはこのお方にございます……!」
 恋焦がれた幻の猫の実在に、デガラシは打ち震える。
「そうか、やはり彼女だったか。会えて良かっ――」
 俺の眉が開き切る前に、もう一つ飛び込んで来た影。
「ジュリ!」
 見知らぬキジトラ柄。彼もまた、この町の者ではない猫だった。
「おう、ロミ」
 ススケが声を掛ける。彼を知っている様子だ。しかしロミと呼ばれた猫はススケには目もくれず、追う『匂い』がする籠へとまっしぐらに向かう。彼の鬼気迫る様相に慄き、デガラシは横っ飛びに退いた。
 中に収まっている猫を見るや否や、彼は嘆く。
「ああジュリ、やっと……やっと見つけられたのにこれは一体どうした事だ!」
「その猫、ロミの知り合いだったのか? 温かいミルクを飲んで、さっき眠りついたところだが」
 ススケの言葉を半端に拾い、ロミの片耳がぴくりとする。
「眠りに、ついた……? あああジュリ、どうして僕を置いて行ってしまったのか!」
「いや、そうではなくてだな……」
 勘違いした彼は籠の脇にミルク皿を見つけ、一匹で暴走する。
「このミルクが、彼女を! ならば僕もこれを飲んで君のもとへ……!」
「落ち着けロミ、それを飲んでも美味しいだけだ」
 大仰なひとり芝居でも観せられている気分であんぐりとしていた俺は、遅れてススケに尋ねた。
「……彼は、誰なんだ?」
「薪屋のロミだ。いつも隣県から宅配トラックに乗って、うちへ来ている」
 鈴音の湯の風呂は薪焚きで、必要な薪はロミの飼い主が営む薪屋に発注しているのだという。裏から梅じいさんを呼んだのはその薪の宅配で、ロミは今日もトラックの助手席に乗り込み、飼い主の営業について来たのだった。
 そして彼の騒々しさが、彼女を起こす。
「……ロミ?」
 ジュリが顔を覗かせると、ロミは籠に飛びついた。
「何と! 目を覚ましてくれたんだねジュリ……!」
 ジュリの瞳に生気が溢れる。
「私を、捜しに来てくださったのですか?」
「当然だ! もう君を一匹にはしないよ!」
「ああロミ……!」
「ジュリ……!」
 最早ふたりだけの世界。それを見せつけられ、普段動じないススケも流石に尻尾をムズムズさせていた。
「……いい加減、事の次第を説明してくれロミ。俺達にはさっぱりわけが分からんのだ」
 ロミはやっと自分を取り戻し、ススケの方を向く。
「……や、すまなかった。ここに居るジュリは僕と同じ町に住んでいる猫なんだが、突然行方が知れなくなったものだから何日も必死で捜していたんだ。それがここへ着いて梅じいさんに会ったら、彼女の匂いがするじゃないか! もうびっくりして、こちらへ回り込んで来たのさ」
 俺は今後のためにも、先にはっきりさせておかずにはいられなかった。
「込み入った事を聞いてすまないが、ふたりはその……恋仲なのか?」
 ロミは堂々と答える。
「その通り。目が合った瞬間、お互いに運命を感じてね」
 ジュリも嬉し恥ずかしといったふうに話す。
「家が厳しくて殆ど外へ出られない私のために、ロミは毎日ベランダの側の木を登って、私に会いに来てくださっています」
 ……ハートが落ちて割れる音がしたけれど、俺もススケもホクテンも、気の毒過ぎてそちらを向けなかった。
 ホクテンがジュリに問う。
「そんな箱入りの君が、どうやって一匹で隣県の葦沢町まで来たんだ?」
「私の方からも、ロミに会いに行きたかったのです。怖かったけれど、ロミに受け止めてもらうつもりで思い切ってベランダから木に飛び移り、家を出ました。それから匂いを辿って着いたロミの家の前で、彼がよく乗って行くトラックを見つけたのですが……いつも遠くよりお見送りするばかりの寂しさが募っていて、一度だけ、と荷台に乗ってみたのが間違いでした。こうして一緒にお出掛けできたら良いのにと夢見ながら、ロミが出て来るのを待っている内に本当に夢の中に入ってしまって、起きたら全く知らないこの町に――」
 到着した場所を聞くに、そこは松原字のピザ屋前。ロミの家の薪屋は鈴音の湯だけでなく、葦沢町内で薪が必要な窯のある工房を幾つか得意先にしていて、その日はピザ屋に石窯用の薪を宅配したのだろうと推測された。
 パニックに陥って降車し、少し離れた間に宅配トラックは自分を置いて去ってしまった――と、涙なしでは語れないところを猫ゆえに涙なしで語るジュリ。ロミは彼女のショックと後の心細さを想像し、わななく。
「そうだったのか、君は、僕に会いに来てくれようとして――。ああ、僕がいつも通りトラックに乗れていたら……とうとう家の者に捕まってがっつり時間を掛けてシャンプーなどされていなければっ……!」
 ロミがその日に限って家を出られなかった理由に、ススケは呆れる。
「だから逃げ回らずに、風呂へは定期的に入れてもらっておけと何度も言ったろう」
「けれどもなあ、シャンプーされた日は僕が僕の匂いでなくなるのが耐えられなくてなあ……!」
 二匹が話す傍ら、ジュリはふと俺の顔を見て思い出す。
「貴方は、先日追われていた私に救いの手を差し伸べてくださった方ですね? あの時はお話も碌に聞かず飛び出して行ってしまって、ごめんなさい」
「いいんだ、君みたいに外へ出る機会自体少ない猫がいきなり知らない町へ放り出された挙句、大勢に追い回される事になってさぞ怖かったろう。食べ物にもありつけずにどうしているだろうかと、案じていたんだ」
「はい、ここへ置き去りにされてからというもの、ずっと何もかもが怖くてたまらなくて。誰にも見つからないよう注意を払って帰り道を探していたのですが、途中、落とし穴に引っ掛かって灰と煤まみれになるし、田んぼに転げ落ちて泥まるけになるしで散々でした。他に当てもなく、優しいお婆さん猫が教えてくれた煙突のある建物に行ってみたら、表にご飯が置かれているのを見つけて……ちゃんと食事が出来たのは、その一回だけです」
「……なくなっていた俺の飯だな」
 向き直ったススケの呟きに、ジュリは縮こまる。
「ご、ごめんなさい……飛びついて食べてしまってから誰の物かも分からないのにと思って、以後そこの餌は、怖くてもう食べられませんでした」
「そういう事情だったなら構わんさ。俺がもっと早くに見つけて梅じいさんと引き合わせてやれていたら、お前は倒れるまで飢える事もなかったろうに、むしろ班長猫としてすまなかった。この辺りに来てからは何処に居た?」
 ススケは飯がなくなっていた事よりも、自分の管轄である貝塚字で彼女を発見できなかった事の方を気にしていた。
「同じ建物の裏側に暖かな部屋を見つけて、ここ数日はそこを寝床にしていました。時々人が来るので狭い隅に隠れて、落ちている灰で身体の汚れは一層酷くなってしまったけれど、外よりはずっと安らげて――」
 驚きでススケの瞳孔が丸みを帯びる。
「風呂を焚く釜場か……同じ敷地に居ても気づけなかったはずだ、あの付近は火を使って危ないので猫は近づいてはいけないと言われているし、煙と炭で匂いも有耶無耶になってしまうのでな」
 謎めいていたジュリの足取りに関する話がひとしきり済み、その行方を追ってきた俺はこれで一件落着、と息を吐く。
「ともあれこうやって話せるくらい君の元気は戻ったし、汚れが落ちて身元も判明した。何よりだ。後は裏に来ている薪屋のトラックにまた乗って、無事に帰るだけだな」
 そうして再開されるふたり劇場。
「さあジュリ、何も心配はいらないよ。一緒に帰ろう、僕達の町へ!」
「はいロミ、私はこの先ずっと、貴方と共に参ります……!」
 灰被りから本来の美しい姿となった彼女は、しかしこれから王子と巡り合うシンデレラではなく、既に恋人のあるジュリエットだった。籠を出て、その彼と連れ立って行く。ガラスの靴を履いて見える脚で、『落ちて砕け散っているハート』をそうとは知らず、踏みしだいて――。
 二匹を見送った後の空虚に放られる、ホクテンの呟き。
「……さて、残された悲劇はどう納めればよいやら」
 無事に落着、とはいかなかったもう一件。『ハートの抜け殻』は、番台のケースに飾られている焼き物の招き猫の代役が務まるくらい、硬直していた。目の前で尻尾の先をひらひら振って見せても、何の反応もない。
 ススケが見るに見かねて勧める。
「……湯治していくか? 恋わずらいそのものには効かずとも、あらゆる傷心への効能はあるぞ」
 恋は実らぬまま秋が過ぎ、季節は寒々とした冬に入(い)る。せめて温かな風呂の湯にデガラシが癒されてくれる事を、俺達は願っていた。
 
 
 長靴を履いたニャンデレラ・後編/終



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