前の項へ戻る 次の項へ進む ★ くろねこ風紀録・目次 小説一覧



 次の日も、空に立ち込めるのはすっきりしない色の雲ばかりだった。
 放課後、風紀委員会の活動で少し居残っていた俺は、一階の廊下の窓から外を見つつ雨がやんでいるうちに帰ろうと、鞄を持って昇降口へ向かう。
 その、連なる窓のひとつで何かが揺らめいた気がして足を止める。
 見ていると、消火栓のある壁面で途切れた窓の横側から、煙が流れてきていた。
 窓の側へ寄って外をうかがい、俺はそこに立ってタバコをふかす徳永先輩を見つける。
 昨日の事から察するに、彼はみゆちゃんを迎えに行く都合で幼稚園が保育時間を終えるまでの間、いつもこうして適当に時間を潰しているのだろう。
 ……俺は、徳永先輩の事を直接知っているわけじゃない。だから彼が何をしていようとも、本来なら余計な世話など焼かずに見て見ぬふりをすべきだったのかもしれないが――。
 それでもここで放っておけなかった理由は、自分でも、上手く説明できない。


 西側校舎の裏手は校門と体育館を繋ぐ最短の道ではあるが、土足と上履きを履き替えなければならない都合上、部活動で頻繁に体育館を出入りする生徒達にもそこを抜け道として利用する者はいない。
 たまに事務員さんが草むしりをしてくれている以外は常にひっそりとしたその場所へ回り、俺はそこにいる徳永先輩に歩み寄った。
「……あの」
 前で立ち止まり声をかけると、上目の、いかにもうるさげに小虫を払うような攻撃的視線をよこされる。俺より上背があるので余計に威圧感を覚えたが、それでもここまで来た以上、後戻りはできない。
「タバコは、止めた方がいいと思います」
「……あ?」
 ぶしつけな俺の意見に、タバコをくわえている彼の口元が歪んだ。
「身体にいい事は、何もないですから――」
 口が下手な事を自覚している俺はやはりこの場においても率直すぎる言葉しか出せず、それは案の定、いたずらに先輩の癇に障ってしまっただけだった。
 前へ踏み出された足に、そういえば喧嘩っ早いので敬遠されているんだっけな……という事を思い出す。
 返事の代わりに、顔面へ向けてストレートに飛んできたのは拳だった。
 ――長く対人戦をする事はなかったが、それでも過去につちかった俺の勘は、鈍っちゃいなかった。
 咄嗟に鞄を捨てた手でその拳を外側へいなし、逆の手を掴み取って背に回り込む。
「いった……!」
 ひねりを加えたため、徳永先輩は声を上げた。口から落ちたタバコが湿った土にまみれる。
 俺がすぐに手を離すと、即座に振り返って驚きを交えた表情を見せた。
「……すみません」
 護身のためとはいえ、痛みを与えてしまった事には謝罪する。
 俺を睨めつける彼の目は、しかし何か思い当たったようにふいとその鋭さを緩めた。しばらく俺を凝視して、ようやく口を開く。
「……お前、毎朝門のとこで立ってる風紀委員か?」
 意表をつかれて、俺は目をしばたかせる。
「……毎朝ではないですけど、多分、そうです」
 俺が朝の活動で先輩の事を覚えたように、先輩もまた、俺の顔を覚えていたらしい。
 ばつが悪いのと気に食わないのとで、彼は俺から目を逸らした。
「風紀委員だから生徒の喫煙は見過ごせないってか? 今時正義漢気取りやがって、くだらねえ……」
「そんなつもりじゃありません、ただ身体を壊すような事があったら悲しむ人がいると思って――」
「は、誰が悲しむって?」
 自嘲まじりの、実にひねた問いが返ってきた。
 少なくとも、先輩にしっかりなついている様子だった妹のみゆちゃんは絶対に悲しむ。そう思うも、しかし先輩にしてみれば俺が彼の家族についてを知るはずはないので、ここでそんな話を持ち出せば不審を買ってしまうのは必至。だから俺は、他に俺が知っていてもおかしくない人物を挙げた。
「……牧村先輩や相楽先生は、いつも心配してます。それに、天瀬もきっと――」
 天瀬は、道に転がっていた見ず知らずな俺の事さえあれほど心配してくれたくらいだ。ことに友人の事となれば、その人の身に何かあって悲しまないわけがない。
 そう考えて自然に出た彼女の名前が、期せず先輩の心を引いたようだ。
「……天瀬ってお前、一年の天瀬小夜子の知り合いか?」
「はい、クラスは違うんですけど同じ町に住んでるんで……」
 その答えに、彼は何かを思案した後。
「……名前は?」
「え?」
 唐突な質問に一瞬呆けると、苛立たしげに聞き直される。
「名前だよ、お前のナマエ」
「あ……高峰です。高峰、考史郎」
「……ふうん、お前が……」
 確認して、また俺の事をまじまじと観察する。その言葉と素振りに、俺は心なし首を傾げた。
「……知ってるんですか、俺の事」
「天瀬からちょっと聞いてる。この町に越してきて、初めて知り合った奴だってな」
 妙な取り合わせに感じた彼等の会話に自分の話題が上っていた、と思うと、更に不思議な気持ちになる。
 そしてそれが出会いに関する話、という事は。
「……じゃあ、天瀬が俺を見つけた時の事も知って……?」
「自転車ですっ転んで、道の真ん中で気絶してたんだろ?」
 ……やっぱり、みっともない姿を晒してしまったあの時の事は、彼にもばっちり知られていたようで。
 どうにも恥ずかしい話ではあるが、それでも考史郎とコクミツがひとつになり、天瀬と出会った時の事――葦沢町のほぼ真ん中、あの日あの時を軸にはた織られた奇妙な巡り合わせは、俺にとって決して悪いものではなかった。
 今もそれを思い出して赤面してしまった俺に対し、徳永先輩が初めて、嘲りとは違う笑みを見せてくれたから。


 拾い上げた鞄の土を払った後、暇だからしばらく付き合え、と言われるまま俺は徳永先輩と並び、校舎を背にしゃがみ込んだ。
 ……のは良いものの、時間の流れが、何だかぎこちない。はたから見たら徳永先輩と俺、なんてのも結構妙な取り合わせだろう。
 一向に変化のない状況が続き、落ち着かなくてちらりと先輩の方を見やると、彼は頬杖をついて、思いきり俺を凝視していた。
 合ってしまった目を逸らせなくなり、余計に困惑してしまう。
「……あの、何ですか」
「正面きって俺に意見してきたわりには、随分かしこまってんなと思ってさ。でも腕には自信あんだろ、何の格闘技やってんだ」
 先程の所作で、そういう心得がある事は察せられたようだ。
「……前に、空手を。今はもうやってないんですけど」
「やめたのか? 強いのにもったいねえ、何でだ」
 このところそれについて触れられる事が多いな、と参りながら俺は頭を掻く。
「……これも、格好の悪い話になるんですけど……」
 気は進まなかったが、言うまで離してもらえなさそうなほど先輩が興味深々な様子だったので、俺は仕方なく、そのいきさつを話す事にした。

 ――それは、二年前の出来事。
 その日は市営の体育館で、別道場の選手達と練習試合を行なっていた。
 俺が学んでいた流派では、試合に用いられるルールは基本的に『寸止め』。防具は装備せず、素手、素足で指定の各部位に攻撃をするが、当ててしまうと反則になる。
 それで、俺もその練習試合に参加していたんだが。
 試合の最中、俺は対戦相手の放った上段蹴りを避けられず、側頭部にまともにくらってしまったんだな。情けない事にそのまま昏倒して受け身がとれなかったために、打ちつけた右の肩関節を、脱臼した。
 その初回脱臼で関節組織の一部を損傷したらしく、俺の右肩は普通よりも外れやすくなってしまった。気をつけていれば日常生活に支障はないが空手の鍛錬や競技を行なうにはリスクが大きすぎる、というのが医者から受けた警告。
 損傷部の修復をすれば競技に耐えるだけの強度を取り戻せるかもしれない、と手術を勧められたが、ばかにならない手術費で親に負担をかけるのが嫌で、それは断った。ならば怪我を負わせた相手方に賠償を求めてはどうかという話もあったけれど、格闘技に怪我のリスクはつきもの。それを承知でやっていたのだし、俺の怪我が相手方の負い目になる事自体御免だったので、向こうにはこの事を伏せたまま、結局俺は、通っていた道場をやめるに至ったのだった――。

「……長く打ち込んでいた事だけに、やめて間もない頃はちょっと無気力になったりもしたんですけど……肩に負担をかけない程度の一人稽古ならいつでもできるし、他にしなければいけない事も増えたんで、今はもう――」
 言いながら徳永先輩の方を振り向いた俺は、呆気に取られて言葉を詰まらせてしまう。
 ……どういうわけか、先輩は赤くした目に涙をいっぱい溜めていた。水鼻まで垂れているんだが。
「え、あの……なんで……?」
 予期せぬ事にまた困惑すると、先輩は目をこすり鼻をすすりしつつ言った。
「……だってお前、親と相手のために自分の好きなもんをすっぱりあきらめちまうなんざ健気すぎだろ? 辛いとこ随分無理したんじゃねえかと思ってよ……」
 そんな泣かれるような大層な話をしたつもりはなかったんだけれど、それには彼の心の琴線に触れるものがあったらしい。とりあえずポケットに入れていたハンカチを差し出すと、涙を拭いた後、お約束のように鼻をかまれた。
 話してみると面白い人、と天瀬が言っていたのを思い出す。……うん、確かに面白い人かもしれない。
 そして俺のために今泣いてくれている事を、ありがたくも感じた。
 ――試合で昏倒してしまった事よりも、やめた後に格好つけてやせ我慢を続けていた事の方が、よっぽど格好悪かったと思っている。
 こうやってはばからずに泣いて胸の内を素直に明かせていたならもっと早くに心の整理がつけられたものを、弱い部分をさらけ出す勇気を持てなかったがために、言わずともこんなふうに察してくれていたであろう親にも親友にも、かえって気を遣わせる事になってしまったんだから――。
 俺なんかより、この人の方がずっと素直なのかもしれない。きっとナイーブすぎて、感情と行動が直結してしまうタイプなのだろう。
 それが、直接話してみて俺の受けた、徳永隆という人の印象だった。
「……先輩は稽古事や何かは、やってないんですか」
 俺の話ばかり続くのも何なので、こちらからも話を振ってみる。
「……俺? ああ、習い事の類は学習塾に通った以外、何もした事がねえな。やらせてもらえなかったっつーか」
「親に反対された、とかですか」
 少し踏み込むと先輩は渋い顔をしたが、それでも次のように返事をくれた。
「……自分の話をしたお前に免じて、俺も自分の話をするが……。俺の両親は、昔っから俺に関心薄かったんだ。食堂やってるもんだから、そっちの切り盛りで手一杯って感じでよ。歳の離れた弟と妹が三人いるんだが、その面倒も俺にほとんど押しつけやがる」
 昨日俺が勝手に膨らませていた想像は、そこそこ当たっていたようだ。
 継いで、俺を意識せずひとりごつのに似た言葉が、しんみりとこぼされた。
「……弟達には、昔の自分と同じ思いをさせたくないもんだからさ。俺なりに大事にして、あいつらも俺になついてくれちゃいるんだが……それでも、あいつらが本当に甘えたいのは俺じゃなくて親だって、何となくわかるんだよなあ……」
 自分達兄弟に対する関心の希薄な両親への憤りと。大事に思う弟達が求めているのは結局のところ自分じゃないという虚しさと。
 人の心理と行動はそう単純明快なものではないけれど、そのようなものが周囲にたてつく態度の一要因としてあるのかなと、語る先輩の横顔を見ながら俺は感じた。
「……じゃあ毎朝遅れ気味に登校してくるのも、家の都合で……?」
「あー、それとこれとは全く関係ないんだ」
「え?」
 もうてっきりそうだと思ったんだが……違うのか?
「低血圧で、朝起きられないだけだ。特に今みたく気圧の低い時期は、やたら辛くてよ……」
 ……予測していた家庭事情の絡む複雑な理由と、あっさり明かされたごくごく平凡な理由とのギャップに、何だか拍子抜ける。
「……そう、なんですか……」
 感情の起伏が激しい人は血圧高め、というのは俺の勝手なイメージだったようだ。実際、気圧の低い日は空気中の酸素が少ないために、エネルギー消費を抑えようとする自律神経の働きで人の血圧は下がる傾向にあると聞く。だから梅雨なんかは、元々低血圧の人にとって余計に辛い時期なのだろう。
「なーんだ、そんな理由だったの?」
 唐突に声が降ってきて、驚いた俺と徳永先輩は振り向きつつ上を見上げる。
「まっ……牧村!?」
 先輩が呼んだ通り、真上の窓から顔を出していたのは風紀委員長の牧村先輩だった。
「それなら別にもったいぶって隠す事なかったんじゃない。私が聞いても答えなかったくせに、なんで高峰君にはすんなり話しちゃうわけ?」
「んな事は俺の勝手だろ。つか、お前いつからそこにいたんだよ!?」
「んー、あんたが高峰君のハンカチで鼻かんだ辺りかな?」
 窓枠に腕をかけて頬杖をつき、牧村先輩はにんまりと笑う。
 そこからいたとすると、徳永先輩の話は全部聞かれていた事になるな……と考える俺の横で、彼は見る間に紅潮する。
「盗み聞きなんて汚ねえだろ、風紀委員長のやる事かっ」
「残念、今の私は『風紀委員長』じゃなくてあんたを気にかけるひとりの『級友』だから」
「くだらねえ屁理屈こねてんじゃねえよ馬鹿、俺ぁもう帰る!」
 捨て吐いて立ち上がり、俺の貸したハンカチをポケットに突っ込んで徳永先輩は憤慨あらわに去っていった。
 これ以上の関わり合いは御免だと告げる背中を見送りながら、彼を負かせる牧村先輩は何気にすごい人かもしれない、と感心する。
「あんなふうに自分の話をするなんて、高峰君の事がよっぽど気に入ったのかな。この学校で彼に正面から話しかける人なんて、ほとんどいないから」
 言いながら俺と同様に彼の背を見送る牧村先輩は、確かに彼を気にかける級友の、優しい目をしていた。
 上辺ではうとましく思っているように装っていても、今の徳永先輩にとっては彼女もまた、正面から話しかけてくる数少ない大事な存在なのだろう。二人は普段からあんな調子なのかなと想像すると、先輩達だからこう言うと失礼なのかもしれないけれど、何だか微笑ましく感じた。
「……あれ、ちょっと待ってください、何で俺から徳永先輩に話しかけた事まで知って……?」
 俺がそれに気づくと、彼女はまた意味ありげに含み笑って見せた。
 ……もしかして、最初から全部見ていたんだろうか。という事は俺の、道で転んで気絶してた話や試合で昏倒して肩を抜かした話も、全部聞かれて――。
「可愛い後輩を気にかけるひとりの『先輩』、としてね」
 牧村先輩はそう告げて手を振り、またも赤くなってしまった俺を置いて、陽の薫りを乗せる南風のような爽やかさで去っていった……。



前の項へ戻る 次の項へ進む ★ くろねこ風紀録・目次 小説一覧