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 それから、二週間程が過ぎた。
 俺はいつものごとく校門の前に立ち、変わらない朝の活動の中で、梅雨が明けた空と夏服になった生徒達に時候の移り変わりを感じていた。空にようやく戻った空色も、シャツとセーラー服の白色も、目と心に眩しい。
 あと、他に変わった事がもうひとつ。
 学校へ寄せてくる生徒の波の中に徳永先輩の姿を見つけ、相楽先生がおはようと声をかけた。彼は先生を流し見ただけで何も返す事なく門をくぐって行ってしまったが、それでも先生はやや感心した様子で、隣に立つ牧村先輩と一緒に彼の登校を見届ける。
「……このところ、ちゃんと余裕持って来るようになったな」
「そうですね。低血圧解消したのかな……」
 不思議そうにしている二人の横で、俺は『彼』がうまくやってくれているお陰かな、と密かに思っていた。


 校舎の階段を上っていた際、踊り場の掲示板に貼られているポスターのひとつが外れかかっているのが気になり直していたところ。
「考史郎」
 肩を叩かれて振り向くと、そこにいたのは徳永先輩だった。
「どうも、こんにちは」
 二年生とは教室のある棟が違うので普段会う機会が少なく、徳永先輩とこうして話すのもあれ以来だ。
「これ、返す」
 彼がズボンのポケットから取り出し無造作に突き出してきたのは、前に俺が貸したハンカチだった。
 貸した事さえすっかり忘れていたので一瞬まごつくと、先輩はそれをためらいと受け止めたらしく表情を渋らせた。
「……鼻かんだのは悪かったが洗ったから心配すんな、受け取れ」
「あ、いえそんなつもりじゃ――」
 ……と言いかけて、面白い人かもしれない、と感じたあの時の事を思い出した俺はそこでつい、笑ってしまった。
 先輩も男泣きしたのを思い出してか、笑うな、と照れ隠しのように俺の頭を押さえる。
 薬指だけ黒いネイルアートの施された手から受け取ったハンカチには、きちんとアイロンがかけられていた。こんな細かいところで彼のマメさを実感する。
「……そういえば先輩、最近学校へ来る時間が早くなりましたけど……梅雨が明けたからですか」
「ん? いや……それよか、毎朝来るようになった猫の効果の方がでかいな」
「猫?」
「前に木から降りられなくなった間抜けな猫を助けた事があったんだけどよ。そいつがこのごろ毎朝家へ来て、俺の部屋の窓を表から引っ掻くんだ。それを弟達が喜んで、窓開けて猫と一緒に俺の部屋で大暴れするもんだから、やかましいやらのしかかられるやらでもう寝坊するほど寝てらんねえっつーか……」
 ――やっぱり、ユキチはうまくやってくれているようだ。
 実は先輩と知り合った後日、コクミツの俺からユキチに、彼を毎朝起こしに行くよう頼んでみたのだった。動物は人間よりも正確な体内時計を持っているので、猫でも毎日定刻に決まった場所を訪れる事ができる。リアル猫目覚まし、というわけだ。
 以前自分を助けてくれた人間の役に立てるなら、とユキチは快く引き受けてくれた。先輩の兄弟達も巻き込んで随分賑やかな事になっているみたいだが、先輩に腹を立てている様子はないから問題ないだろう。
 徳永先輩は用件が済むと、じゃあな、と素っ気なく自分の教室がある方へ戻っていった。
 そのやりとりを下の階から見ていたらしい龍彦が、階段を駆け上がってきて俺に聞く。
「孝史郎、お前いつの間に徳永先輩と知り合いになったんだ?」
「あれ、言わなかったか?」
「聞いてねえよ」
 そうだっけ、と思い返しながら、龍彦が前にタイプだと言っていた風紀委員長の事も想起する。
「……徳永先輩は、俺じゃなくてお前のライバルかもしれない」
「は?」
 それ以前に、彼女自体が相当くせものだ。
 そう考えてまた笑ってしまった俺に対し、龍彦は何が何やらわからない様子で、ただ首を傾げていた。


 彼の朝と猫時計/終



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