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   残影


 たくさんになる程、虚しくなる。
 だから本当に欲しいのは、ほんの一握り。
 ――けれども――。


 俺の憂さ晴らしは、もっぱら深夜のドライブだ。
 その日の夜も何となく車に乗り込み、山道を転がしていた。
 特に行き先もルートも定めず適当に走ってきたので、そこはよく知らない道。整備されているが、街灯はない。薄く曇っていて月明かりもほとんどない。立ち並び空を覆い包むように枝葉を伸ばした樹木の下、自分の車のヘッドライトだけを頼りに、俺はもやもやとした気持ちをぶつけるように、やや速度を出してその道を快調に走り続けていた。……のだが。
 ふと、先程からハンドルが妙に左に取られる事に気づく。俺はまさかと思い、車を道の脇に寄せて止め、エンジンを切って降りた。
 左側に回って後輪の側にしゃがみ込む。案の定、タイヤがパンクしていた。親指の腹でそのタイヤを突つきながら、俺は深い溜め息を落とした。
 予備のタイヤはちゃんと持ち合わせている。しかしこのタイヤ同様、急に気の抜けた俺の身体は、何となくタイヤを交換するという面倒な作業をする事を拒んだ。暗いし、寒いし。
 そのうちやる気が起きるまで休もうと思い、俺はのろのろと車内に戻った。明日は休みだ、陽が昇るまで待ったって構わない。
 後ろへ倒したシートに深く背を預け、息をつく。
 ただひたすら静かな、時間。
 それは流れる事なく、車内の閉塞的な空間の中で闇に絡まり、滞っているかのように思えた。
 この夜は、このまま永遠に明けないかもしれない。大げさだが、そんな気さえする。
 ――憂いの原因は、明確なものではない。
 今の生活自体は、楽しいものだと思う。
 大学に入って、サークルを通じ、俺の交友関係は高校の頃とは比べ物にならない程広くなった。しかし伸び広がり薄くなるにつれ、その彼等との関係はいずれ泡のように消え去ってしまうものなのだろうという、虚しい気持ちも広がっていった。
 それに平行して、先行きに対する不安も増す。
 人の一生を、木に乗せるとしたら。
 道は最初、幹から無数に枝分かれしている。しかしその枝を選択していく毎に、その先にある枝の数はどんどん減っていってしまう。太く確かだったそれは、先に進むにつれ支えの幹から遠くなり、細く頼りないものになっていく。
 そして最後に選び取った枝が、誤っていたとしたら?
 その枝が、あっけなくぽきりと折れてしまったら――?
 暗闇の中をやみくもに走ってよく知らない道に入り込み、何もない場所で立ち往生している今の状況は、そんな事に憂いを抱く自分の行く末を暗示しているように思えなくもないな、と自嘲する。
 そしていつしか、俺は眠りに落ちていた。


 どれくらいの時が経っただろう。無音だった道に、後方からエンジン音が響いてきた。車が山道を上ってきたらしい。しかし俺は大して気に留める事なく、そのまま目を閉じていた。
 エンジン音が次第に近くなり、そのままこの車の横を通り過ぎていく。……かと思いきや。
 すぐ後方で、停車してエンジンを切る音がした。俺は驚いて目を開ける。
 身体を起こしてバックミラー越しに見ると、一人の男が運転席から降り、俺の車の後ろへと近づいてきた。そして何を思ったか、いきなり俺の車のトランクをぱかりと開けた。しまった、ロックしてなかったか。
 俺は慌てて車を降り、そいつに言った。
「おいあんた、何するつもりだ」
 そいつがどういう奴かさっぱりわからないし、変な事に巻き込まれるのはごめんなので俺は様子を探る。
 暗くて顔や姿がよくわからないが、そいつは穏やかな口調で返してきた。
「タイヤ、パンクしたんだろう?」
 言いながら、トランクの底蓋を外して予備のタイヤや必要な道具類をさっさと取り出していく。
 少し上り坂だけどいるよね、と前に回りこんで木の輪留めを前輪の前に挟み込んだ後、パンクした後輪の方に戻ると、そいつは暗がりの中、器用にジャッキをかけて車体を上げ始めた。
 俺はその行動力と手際の良さに押され、しばらくの間馬鹿みたいにぽかんと突っ立っていた。
 だいぶ経ってからようやく我に返った俺は、尋ねた。
「お前……。なんで全然知らない奴の車のタイヤなんか、交換する必要がある?」
「俺の信条でね」
 俺は眉をひそめる。
「人助けがか?」
 そいつは、ふっと笑ったと思う。そしてこう答えた。
「長いようで短い人生、出会える事には限りがある。だから人や物事とのどんな小さな縁も、大事にしたいんだ」
 ――それは、どこかで聞いた事がある言葉のような気がした。どこでだったっけ?
 考えながら、しかし俺はそれに対し妙に反論したくなった。
「……出会ったって、いつかなくなっちまうだろう。あんたの言う、俺との縁ったって、ここで別れたらそれまでだ」
 そう口にした瞬間、心の堰が切れたのかもしれない。
「どんな奴と付き合ったって、どんな道を選んだって、それはある日突然、あっさり消えてなくなるかもしれないんだよ。選んで決めて、最後の最後につかんだと思っていたもの達を、そうして失った時に……俺は、どうすればいい……?」
 不思議だった。何故今、自分はこんな事を見ず知らずの奴に吐露しているのか。
「失くすのが、怖いか」
 そいつはレンチでナットをきつく締めながら口を開いた。俺は急に恥ずかしくなり、思わずそいつにくるりと背を向けた。
「今のうちからそんな事気にしたって、仕方ないさ。いろんな奴と付き合って、何でもやってみればいい。出会ったものは、必ずお前の身になって残り続けるよ。きれいさっぱり、全部なくなるなんて事はない」
 さらりと言ってのけられた言葉。それを受け、ふとある人物が脳裏をかすめる。
「……なんか、あんた――」
 学校の先生みたいだな、と挟みかけた言葉を、俺はハッとして呑み込む。
「お前がこうして、心の片隅に俺を残してくれているようにな」
 ――え?
 その一言に驚いて振り返ると同時に、レンチがキン、と甲高い音を響かせてアスファルトの上に落ちた。
 そこに――もう、そいつの姿はなかった。
 そいつの乗ってきた車も、こつ然と消えていた。
 呆然と立ち尽くす俺は、先に聞き覚えのあったあの言葉を頭の中で反復した。
 ――出会える事には限りがある、だから人や物事とのどんな小さな縁も、大事に――。
 思い出した。それは小学生の時の、担任の教師が言っていた言葉だ。飄々とした人だったが、児童の事にはよく目を配ってくれていたように思う。かけられた言葉のいくつかは当時小さくてわからなかったけれど、いつかわかる時が来るよ、と笑っていた。
 しかしその先生は確か、俺達が中学に上がって間もなく、事故で、亡くなって――。
 俺は先程までそいつがしゃがみ込んでいた後輪の前へと歩を進めた。
 タイヤの交換は、すでに終えられていた。


 空が、白みを帯び始めた。夜明けらしい。
 俺は全ての道具を元のようにトランクに片付け終えると、運転席に乗り込んだ。
 そして帰るために、徐々に陽の光に浮かびつつあるその道を走り始めた。
 先生がしっかりとタイヤをはかせ直してくれた、その車で。


 残影/終 (初掲載:2007/11/30)



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