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   不運予報


 蒼い空に浮かぶ、凝縮された熱気の塊。降り注ぐ紫外線が、露出した肌にやたらと刺さる。照り返し、アスファルトから昇ってくる蒸すような熱さもまた、何もかもからやる気を奪い取るのに十分な威力を持っている。
 そんな真夏の路上を、浪人生の勇矢と義明は市立の図書館に向けて、その足をひきずるように運んでいた。
 義明が溜め息まじりに口を開く。
「……めちゃくちゃ暑ぃな……やっぱ朝のうちから出かけねえと駄目だな……」
「寝坊しやがったの、誰だよ」
「目覚まし時計の野郎が、壊れててよ……」
「壊れてたじゃなくて、寝ぼけて叩き壊したんだろ」
 二人して更に深く溜め息を吐きながらのろのろと歩き続ける。そして団地の公園前に差しかかった、その時――。
 公園から高く弧を描いて飛んできたボールが、勇矢の頭に見事に直撃した。
 衝撃に一瞬めまいがして、勇矢はへたるようにその場にしゃがみ込み、頭を押さえて呻いた。元より暑さにやられている事もあり、ダメージは地味に大きかったらしい。
「おにーちゃんごめんなさーい!」
 公園から子どもが走り出て来る。一人は弾んで飛んでいったボールの方へ、もう一人は勇矢の側へ寄り、申し訳なさそうに彼を見ている。
 義明は勇矢を尻目に、片手をひらひらと振る。
「あー、このお兄さんなら大丈夫だから。これから気をつけなよ」
 言われたその子はぺこりと頭を下げ、ボールを取って来た子と共にまた公園へと戻っていった。
「……ってーな、くそ……」
 よろりと立ち上がり、勇矢はぼやく。
 それを見ながら、義明はしみじみと言った。
「……お前って、昔からついてねえよな」
「……そうか?」
 ボールの当たったところをさすりながら、また歩き出す。
「力はあるのに、肝心な時にやたら不運に見舞われるっつーかさ。小学校の運動会の徒競走で、練習ではいつも一位だったのに、いざ本番ではすっ転んでビリになったり。インターハイ目前で故障して、競技に出られなくなったり。仕上げた課題のデータがバックアップ取る前にぶっ飛んで、期限に間に合わなかったり。あと……」
「だー! もういいもういい!」
 うんざりして半ば捨てるように言いながら、勇矢は思った。
 ――確かに、俺はどうにも運が悪いらしい。
 中には自分の不注意からくるものもあるだろうが、それ以前に、注意しようのない力がどこかで働いているような気が、しないでもない――。


   ***


 夜、勇矢はアパートの自室でデスクに向かい、ノートパソコンに参考書の内容まとめていた。耳につけているヘッドフォンは、デスク横のラック上に置いたCDラジカセに繋がっている。この時間にパソコンに向かいながらラジオ放送を聴くのは、勇矢のお決まりのパターンだ。淡々と流れるリクエストナンバーをBGMに、彼はキーボードを叩き続ける。
 と――。急に、ブツリと音を立てて放送が切れた。
「……お?」
 CDラジカセに目を向けると、ディスプレイのライトが消えている。何故か電源が落ちてしまったようだ。しかし何度ボタンを押してみても、再度電源が入る様子はない。
「あーあ……とうとう壊れたか?」
 勇矢は、ひとつの物を長く大事に扱う性分だった。このCDラジカセを購入したのは中学校の入学前。かれこれ九年は使い続けている代物だ。いつ壊れても不思議はない。
 仕方なく、ヘッドフォンを外してラジカセの上に放り置く。聴いていたラジオが突然途切れた事でやる気を削がれた彼は、回転チェアの背もたれに深く背を預け、溜め息を落とした。
 しばらくそのまま、静まった室内でぼんやりとしていた勇矢だったが、彼はふと、思い出したようにズボンのポケットに手を入れた。
 そこから取り出したのは、小さな薄型のデジタル時計。液晶画面では刻々と数字が変化している。
「これ……確かラジオもついてたな」
 黒いボディの側面には、イヤホンの穴が開いている。
 デスクの引き出しから取り出したイヤホンを時計に取り付け、耳に差し込む。そしてラジオの電源を、オンの方にカチリと切り替えてみた。
 聴こえ始めたノイズ。勇矢は小さなダイヤルを爪の先で少しずつスライドさせ、周波数を合わせていく。
 やがて、勇矢は目的のラジオ番組を探し当てた。古い物の割にはクリアな音だ。それに満足した勇矢はまた椅子に座り直し、作業に手をつけ始めた。
 絶え間なく流れる音の波に乗せて、キーボード上を軽快に動き続ける指先。
 しかしそのラジオ放送の途中、不意にサーッというノイズが入ったかと思うと、それにかき消されるように、途端に内容が聞き取れなくなってしまった。
 勇矢は眉を寄せて、デスクの端に置いていた時計の本体を手に取った。
「……やっぱ、これも古いものだからな。もう駄目か?」
 手の中でもてあそびながらそうひとりごちていると、そのノイズは次第に小さくなり始めた。ノイズの合間から、声が聞こえてくる。
 電波の状態が不安定なだけか、と考えたのだが。
 勇矢は戻ってきたその声が、元の番組のDJのものとは違う事に気づいた。周波数を調整するダイヤルは、触っていないはずなのに。
 首を傾げる彼のその耳に入ってきたのは、奇妙なニュース放送だった。

『――……二十七日、午前八時三十八分、米和市御影通りのバス停前で、大学生、佐伯勇矢さんの頭に、カラスのフンが落ちるという事故がありました……――』

「……はあ……?」
 勇矢は耳を疑い、少しの間、間抜けにぽかんと口を開けていた。
 またノイズが入り、それが消えた後には、また元のラジオ番組が流れ出していた。
「……佐伯勇矢って……俺?」
 問うようにこぼず。
 ――何だ、今の訳わからん放送は。
 壁にかけたカレンダーに目をやり、日付を確認する。
 ――大体、今日はまだ二十六日じゃないか? 二十七日って事は……明日……?
 彼はただただ、首を捻り続けていた。


   ***


 翌日、勇矢は義明の家に行こうと、ノートパソコンと参考書を入れた鞄を持って道を歩いていた。朝なので、まだ陽射しはいく分かやわらかい。
 彼は、昨日のラジオから流れたおかしな放送が気になっていた。空耳か思い違いかとも思ったのだが、それははっきりと、耳にこびりついて離れる事がなかった。
「……八時三十八分、って言ってたな」
 勇矢はポケットのデジタル時計を取り出し、時刻の表示を見た。
 現在、八時三十六分。
「米和市、御影通りのバス停前――」
 ――ここは米和市。義明の住むアパートは、この先の角を曲がった御影通りにある。その通りには、確かにバス停があって……。
 規則的に変化する液晶の表示に視線を落としながら、勇矢は角を曲がり人のまばらなその通りを歩く。
 三十八分の五秒前。バス停の少し手前で、勇矢は足を止めた。
 ――……三、二、一――。
 三十八分ジャストを迎え、勇矢は上を見上げた。
 どこからともなく飛んできた一羽のカラスが、電線に止まる。そこから落ちてきたものが勇矢の目の前を通り過ぎ、べちゃりと路面に広がった。
 ――大学生、佐伯勇矢さんの頭に、カラスのフンが落ちるという事故が……――
「……マジか」
 あの放送を聞かずにそのまま足を進めていたら、カラスのフンはまず間違いなく勇矢の頭に落ちていた。
 ――不運を、回避できた……?


 義明の部屋で、勇矢は昨日聴いたラジオのニュースについてと、先程の出来事を彼に話した。
「確かにこのラジオから流れてきたニュースの通りにフンが落ちてきて、それを聴いていたお陰で俺は爆撃を受けずに済んだんだって!」
「アホらし。偶然だよ偶然。ラジオの放送も、変な電波拾っちまったのを聞き違えただけだろ」
 熱く説明する勇矢とは対称的に、冷めている義明。ローテーブルを挟んで勇矢の対面に座っている彼は、壁にもたれてスナック菓子をポリポリ食べながら、勇矢の手にしているデジタル時計に目をやる。
「……しかしお前それ、俺と知り合う前からずっと持ってるよな。もう何年になる?」
「んー、十三年、かな。親父が最期まで持ってたものだから、大事にしてんだけど」
「――火事、だったな」
「ああ……」
 勇矢は、彼が五歳の時に両親を自宅の火事で亡くしている。たまたま友人の家に遊びに行っていた勇矢だけが助かり、両親は逃げ遅れて煙に巻かれ、一酸化炭素中毒で命を落とした。
 その時、父親が身につけていたもののひとつにこのデジタル時計があった。それから勇矢は、これをずっと所持し続けている。
「俺腕時計しないから、これ結構便利なんだよな」
 勇矢は腕時計をするのが嫌いで、昔から時計といえば、いつも携帯しているこのデジタル時計を使っている。だから勇矢にとってこれは長年『時計』としか認識されておらず、『ラジオ』として使ったのは、昨日が初めての事だった。
 ――しかし、あの放送は本当に義明が言うように、たまたま変な電波を拾ってしまっただけなのだろうか。今日の出来事も、偶然……?
 勇矢は変わらずに刻々と数字を変化させ続けているそのデジタル時計を、じっとみつめていた。



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