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   ペンのマストと紙の帆と・2 インジパング編   コチラの続きです。  
 
 
 ある日、ネオアト出版社のアフォンソ社長は叫んだ。
 ――めざせジパング、だ――!
 
 そうして月刊誌『ウワサバルーン』編集部一行は今、突発的な社員旅行で日本を訪れている。
 夏の夕暮れ、川に沿う土手の道。浴衣をくぐり抜ける風は、肌に一層の涼をもたらす。
 海を越えて来て波模様の浴衣姿となった一同を引率しながら、ミゲルは慣れない型の袖をつまんで言う。
「花火見物に衣装レンタルまでさせるなんて、アフォンソ社長の日本かぶれは相当ですねえ」
 バルディが笑う。
「自らプレゼン的な日本観光プランを組んで、同士を増やしたいと言っていたからな」
「自分のブームに社員を巻き込んで……こちらの予定も碌に聞かずに、ですよ? 全く困ったものです」
 そう小言を並べながらもこの旅行に最も心躍らせているのは、実のところミゲルである。花火大会開催のために車両通行止めとなっている道の先は屋台が立ち並び、花火が上がり始めるのを待つ見物客で既に混雑していた。
 その賑わいに入り、ミゲルは花火玉に先駆けて弾ける。
「さあ、ここから花火終了まではフリー行動です! 記者の皆さんは取材で何度も訪日していて慣れてると思いますが、普段編集室に籠っている私は初めてで勝手が分からないので、旅程の進行以外の案内と、日本文化のご指南をお願いしたく――」
 しかし振り向くと、記者達は既に解散済みでもう誰も居ない。ミゲルは愕然とする。
「……ちょっと……! あんまりじゃないですか、私一人放って行くなんてっ!」
 涙目で立ち尽くす彼の手を、人混みから伸びた手が掴んで引く。
「ほら、ミゲルこっち! もたもたしてたら置いてかれるわよ、みんな日常的に世界中を飛び回ってるだけあって行動力すごいんだから。私と一緒に行きましょ!」
「マリア記者……!」
 きらきらと輝いて見える彼女の笑顔。ミゲルはマリアの望みになら何でも応えたい気持ちになる。
「あ、お面が売ってる! あの沢山並んでる軍隊コアラのお面欲しいなー。ねえねえミゲル、旅行中に発見したお宝の入手って、資料の名目で経費落ちない?」
「それは無理がありますけど……。仕方ないですね、付き添って頂くお礼に、ここで貴方の欲しいものは私が買ってあげましょう」
 マリアはまるで子供みたくはしゃぐ。
「わあほんと? 嬉しい! ミゲル大好きっ!」
 大胆に抱きつかれて、ミゲルはどぎまぎする。
「えっ……とま、少しぐらいなら、ですが――」
 はしゃぎ出してからの彼女の物欲は止まらなかった。例の行動力を発揮し、目につく屋台をもれなく巡る。
 気づけばミゲルの横には、頭や手首にピカピカ光るおもちゃの飾りをつけ、両腕に色とりどりのヨーヨー風船や可愛いキャラクターが描かれたわたあめの袋、量り売りの菓子の袋詰め等をどっさり下げ、更にくじ引きで当たったやさしいクジラのぬいぐるみを抱き抱えてご満悦なマリアが出来上がっていた。
 ミゲルの口髭がしなってすっかり垂れたのは、日本特有の多湿のせいではない。
「……ねえマリア記者、もしかして貴方が連れ歩いているのは、財布ですか……?」
 周囲の騒がしさに負けて届かなかったその呟きとは反対の方を向く彼女。
「何かしら? あの人だかり」
 言うや否や財布、ではなくミゲルをぐいぐい引っ張って伴い、そちらへ行く。
 人だかりが出来ていたのは金魚すくいの屋台だった。そこで華麗に金魚をすくって衆目を集めているのは、浴衣に羽根つき帽子という異彩な装いの同僚。
「バルボサ!」
「おー、セニョール、セニョリータ!」
 振り向きながらも、金魚をどんどんすくい取る彼の手は止まらない。
 マリアは四角い桶の中を涼やかに泳ぎ回る橙や黒の金魚達に目を細める。
「綺麗! これが日本のお祭りで有名な金魚すくいなのね。すくうのは難しいと聞いたけど、バルボサ随分と上手じゃない?」
「うふふ、金魚の方からこっちへ来てくれるんですよー。うちの社にお迎えしたいって話したら、みんな乗り気になっちゃって」
 にわかには信じがたいが、しかし実際に桶の金魚達はバルボサに寄って来ており、彼の右手のポイで弾みをつけて左手のボールめがけて跳ね、自ら入っていっているように見える。ボールがすぐ一杯になるので、バルボサは急遽用意された横のたらいに金魚達を優しく移しては、また桶からすくうのを繰り返す。水につけなくても金魚が飛び乗ってくるのでポイの紙はほとんど濡れず、なかなか破れない。
「金魚とも話が通じるの? さすがねえ」
 ミゲルは眉根を寄せる。
「……ちょっと待ってください、『うちの社にお迎え』? この大量の金魚を、会社で飼育するつもりなんですか?」
「はい! アフォンソ社長には電話で相談済みですよ。社長も日本の金魚に興味津々で、ウワサバルーンの編集室に特大水槽を用意して楽しみに待っていてくれるそうでーす」
「え、しかもあの狭い編集室で……?」
 難色を示すミゲルに反し、マリアは歓迎する。
「いいじゃない、殺風景な編集室が和みの空間になって! 気分が変わって仕事の能率も上がりそう」
 ウワサバルーン編集部の中で普段最も長く編集室に居るミゲルは、その情景を想像して頬を緩め、考え直す。
「……そうですねえ、悪くないかも。それに水槽を用意して待ってるって事は、設備費は社長が負担してくれるんですよね? ならまあ――」
 バルボサはあっけらかんと告げる。
「あ、水槽設置後の維持費は編集部持ちでよろしくとの事でーす!」
 ミゲルの顔から和みの表情は消え失せた。
「飼育管理の維持が一番お金かかるところじゃないですか! うちが唯一の月刊誌の維持だけでもてんてこまいの低予算弱小編集部なのを忘れないでください!」
 騒ぐ彼等の後ろより、男の声がかかる。
「お、大量じゃねえか」
 皆が振り返ったそこには、自分こそ大量の戦利品入りビニール袋を両腕に提げたロハスの姿。彼は手に持っている数本のチョコバナナから、一本をマリアに譲る。
「ありがとう! 随分買い込んだのねえ、全部食べ物?」
「ああそうだ。時間内に食い物屋台の全種制覇はできそうにねえから、ひとまず持ち帰れるものを押さえてきたんだ。イカ焼き、タコ焼き、クラーケン焼き! 他に焼きとうもろこし、じゃがバタ蒸し、あと――」
 話しながら、ロハスはミゲルにもチョコバナナを差し出す。謎の紙束と一緒に。
「ん? 何ですかこれ……って屋台で買い漁った物の領収書を私に渡されても困ります! 私的な支払いに経費落ちるはずないでしょ!」
「食レポを記事にまとめるならいいだろ。取材費って事でよろしく頼む」
 彼の奔放さに辟易する心を甘いチョコバナナで癒しつつ、ミゲルは一応領収書の内容に目を通す。
「……全体的にお値段高めですけど、中でもクラーケン焼きとじゃがバタ蒸し、飛び抜けて高くないですか? お勘定間違えられてません?」
 そうしていると何やら嘆きが響いてきた。
「――ああこっちです今朝田の兄貴! このままじゃたった数枚のポイで金魚が取り尽くされちまいます、どうにかしてくださいよう!」
「どんな奴が荒らしてやがるんだ」
 金魚屋台の番が涙目で呼び寄せた『今朝田の兄貴』とやらの姿に、ミゲルは吃驚する。
「あーっ、ケサダじゃないですか!」
「何だ、お前等か」
 ねじり鉢巻きがやたら馴染む彼は、ミゲル達の出版社近くにある骨董屋の主。ウワサバルーン編集部の者達とは情報、珍品等をやり取りする関係だが、過去にガセネタや偽物を掴まされて損失を被った事が一度や二度ではなく、ミゲルは彼を毛嫌いしている。
「どうして貴方が日本に居るんですか」
「俺は何処にだって現れるぜ。何せ儲け話に繋がるパイプを世界中に持っているんでな」
 へえー、とケサダに感心しながらまだ金魚をすくい続けているバルボサと既に取られたたらい満杯の金魚達を見て、ケサダは早々に見切りをつける。
「……ここの店は、まあいい。クラーケン焼きとじゃがバタ蒸しの売り上げだけでもカバー出来るだろう」
 合点がいき、ミゲルは冷めた目をする。
「……そのぼったくり価格の屋台、貴方が出してたんですね」
「人聞きの悪い言い方をするな、ぼったくりじゃなくて『お祭り価格』だ。普段は絶対買わない品物や値段でも祭り屋台でならつい買っちまうっていう、日本文化における心理商戦だよ」
「はあそうですか。何処でも変わらず、商魂逞しいんですねえ……」
 ケサダは身を翻す。
「てな訳で金魚は好きなだけすくっていって構わんぜ。ウワサバルーンの関係者達には、代わりにあっちでつぎ込んでもらっているしな」
「えっ、どういう事ですか?」
 彼の発言が気になり、言われなくても好きなだけ金魚をすくう気満々なバルボサを置いて、ミゲルとマリアとロハスはケサダの後を追う。
「あれ、ソリスじゃない?」
 ソリスが居るのはサメ釣りの屋台。頭の後ろに赤鬼のお面をつけ、クジが入れられたおもちゃのサメを小さな釣り竿で引っかけて釣っている。
「またハズレた! もう一回!」
 ソリスは次々とサメを釣り上げ、くじを開いては落胆していた。戻ってきた店の主がケサダだとは全く気づいていない様子だ。
 マリアが尋ねる。
「ソリス、そんなにも欲しい景品があるの?」
 彼は屋台の奥の台に鎮座する、一等の景品を指差した。
「あの『イブラークの骨』イチヨンロクキュー版模型! 今は絶版のレア物でずっと探し求めていたのだが、まさか日本で出会えるとは思ってもみなかった。これを手に入れるまで、私は帰れない」
 ソリスの決意は固い。全然周りが見えていなかった彼は、すぐ横へ来ているミゲル達をようやく視認する。窮乏の救い手として。
「おお、ミゲル良いところに! 一回の釣り料金が高くて、財布の金が底をつきそうなんだ。旅行中に発見したお宝の入手に、資料の名目で経費――」
「――は落ちませんってばもう! 大体この店ではアタリなんて引けないと思いますよ。これ以上無駄遣いせず諦めてください」
 ミゲルの説得内容に対し、ケサダは反論する。
「おいおい失敬だな、俺がアタリを抜くような姑息な真似をしているとでも?」
 不意に背中を突っつかれ、ソリスはハッと振り向く。
「なあ赤鬼のおっちゃん、まだやるのー?」
「そろそろ変わってよ」
「サメ釣りたいー!」
 後ろに並ぶ大勢の子供達に言われ、我を取り戻す。
「……ああ私とした事が、君達をこんなにも待たせてしまっていたとは……。すまなかった、ここは退こう」
 彼が順番を回すのを見て、ミゲルはうんうんと頷く。
「そのまま止めておくのが賢明かと」
「いや、諦める訳には――」
 ソリスが再び列の最後尾に並ぼうとした矢先、上がった歓声。
「わあっ、やったぜ一等だ! 模型ゲット!」
 粘りに粘って引けなかった目当ての景品が、あっさり子供達の手に渡る。
「そっ、そんな馬鹿な……!」
 彼は膝から崩れ落ちた。あまりに気の毒過ぎてマリアが慰めにかかる。
「ほらな?」
 得意げなケサダ。ロハスはイカだかクラーケンだかのゲソ串を齧りながら意外そうに言う。
「ほお、ちゃんとアタリを入れていたか」
「へへ、本当っていうアタリを入れて信用を担保しない事には、ハズレを捌けないからな……。その差し引きで黒字を出す。基本だ」
 ミゲルは彼への不信感を露にする。
「……詐欺の基本ですか? それ、本当と嘘を意図的に混ぜて度々私達を騙していると自白しているも同然ですよね?」
 ケサダは素知らぬ顔でよそを向く。
「――何故だ、これだけやって何故かすりもしない!」
 今度は三軒ほど先の屋台から怒鳴り声。ミゲル達には誰の声かすぐに分かった。
「あれは、ゴメス記者?」
 ケサダが呟く。
「……あっちもまだやってくれているのか。今日は粘り強くて負けず嫌いの上客揃いだな」
 ミゲルは諸々察する。
「これ以上被害が拡大しないよう、迎えに行きましょう」
 抜け殻のソリスを引きずって、皆でゴメスの所へ向かう。
 そこの屋台で、肩に『お猿のマルセルちゃん』のビニール人形を乗せたゴメスは射的をやっていた。おもちゃの銃を手に、切らしたコルク弾を新たに買い求めている。明らかに意地になっている彼に、ロハスは聞く。
「遊びごときに声を荒げて一体どうした、何を狙ってる?」
「あいつだ、あの棚のど真ん中に立ってる木の人形が撃ち落とせないんだ!」
 それは撃って棚から落とせば高級料亭のお食事券がもらえるという、この射的の目玉。しかしゴメスは景品が欲しくてではなく、とにかく人形を撃ち落としたくて挑戦を続けている様子だ。改めて銃を構え、ターゲットに狙いを定める。
 撃ち放たれたコルクの弾道は的確に人形の胴体を捉えていた――はずだった。だが命中する直前、人形はくるりと踊るようにして回避した。初めてそれを目撃した全員が、目を疑う。
「えっ……動いた?」
 何発撃っても、くるくると避けられてゴメスの弾は一向に当たらない。他の客達はとうに無理だと悟り、他の景品を撃ち落として遊んでいる。
 ここの店主でもあるケサダを、ミゲルは問い詰める。
「あ、あれはどういう事ですか? 人形がひとりでに動いて弾を避けてますけど! 非常にインチキ臭いんですが!」
「去年の祭りで、撃ち落とされにくいように景品に重りを入れたら、露天組合から怒られちまってな……。仕方ないんで、代わりに今年は『自律玉』を入れた。重りと違って、規則のどこにも自律玉を入れちゃいけないとは書いてないしな」
 しれっと答えるケサダに、一同呆れる。
「今年も、間違いなく怒られると思いますよ……そもそも変なもの仕込まないでください」
 きょろきょろと、ロハスは周囲を見回す。
「射的はバルディが好きそうなのに、居ねえな?」
 ゴメスがカモられ続けながら教える。
「最初はバルディがこれをやっていたんだが、途中で携帯が鳴り出して何処かへ行ったきりだ。『こちらはお前に託す、アディオス!』と俺にこの銃を寄越してな」
「ペレスとアブトゥも見ないわね」
 マリアが言うと、ロハスはにまりと笑った。
「あの二人は世界の何処に居たって、仲良く喧嘩してんだろうさ。ま、放っておこうぜ」
 
 
 そうして放っておかれた二人はというと、土手の縁で座って休んでいた。花火の見物客用に設置された提灯明かりが連なる下で、ペレスは膝を抱え、顔を伏している。横のアブトゥが呟く。
「……海の波には酔わぬのに、人の波には酔うのだな」
 ペレスは赤くなった顔を上げ、否定する。
「別に、酔ったのではなくて」
「違うのか?」
 アブトゥは上体を傾け、ペレスを覗き込んだ。編み込んで片側に束ねられた黒髪が揺れる。身慣れない彼女の和装と、その指に引っかけられている透明な袋入りの金平糖を直視したペレスは、とうとう耳まで赤くなってしまい慌てて目を背ける。幸い、提灯の暖色が上気したそれをごまかし、彼を救っていた。
 
 ――彼はアブトゥと行動していて急に眩暈を起こし、ここで休むに至っていた。その時に立ち寄っていたのは、量り売りの菓子屋。とある品に興味を示すアブトゥに、ペレスは解説した。
『これはコンフェイトだな』
『コンフェイト? ポルトガルの、あの菓子か?』
『そうだ。日本では金平糖の名で親しまれている』
『ほう』
 アブトゥはそれを買い求めた。そして指で摘まんだ一粒を、夜の帳が降りた空にかざす。
『日本のコンフェイトは、ポルトガルのものよりも透明感があるのだな……。一層、星のようだ』
 そんな彼女の横顔に微かな笑みが浮かんだ、その瞬間にペレスは眩暈を起こした訳だが――。
 
 目を背けたまま、彼は唐突にうんちくを垂れ始める。
「わ……私達が今日着ている浴衣の、波がモチーフになっているこの幾何学模様……。日本では『青海波(せいがいは)』と呼ばれる柄で、コンフェイト同様、他国より伝来したものと言われている」
 アブトゥは話に付き合う。
「詳しいな」
 渡航先の文化は都度調べている、と得意げに胸を張り、ペレスは続きを語る。
「元は古代ペルシア、現在の君の故郷を含む地で生まれた模様なんだ。それがシルクロードを経て、更に時代も越えて、いま日本でこうして君を惹き立た――いっ、いや、遥かな国の文化を融和させるその浴衣姿が魅惑て――ではなくて! ええとっ、そんな古代ロマン自体に、感慨を覚えて……そう、ああそうだ! それで高揚して、一時的にのぼせたみたいになっただけだっ」
 どうして眩暈を起こしたか、を何とか理由づけしたペレス。でも自分で自分を煙に巻いただけのような、もやもやとした気持ちが残る。
「……お前でも、感慨を覚える事があるのか」
 肝心なところで天然かつ鈍感な者同士。アブトゥの物言いに、ペレスはむっとする。
「失礼だな、私だって感情のある人間だ」
「お前の感情は、私の記事に対する無益な怒りだけだと思っていた」
「無益とは何だ、君はいつもそうやって私が真摯に示す科学的根拠を無視する! 私の眩暈は断じてそのような君にっ……君、に――」
 うっかり熱くなって、ペレスはすんでに口走るところだった。
「私に、何だ?」
 再度覗き込まれて、炙る彼の心臓。気が動転に動転を重ねた結果、ペレスは一周回って元のままの自分を認め、素直になってもいいのではないかと思い始める。
 じっと見つめてくる夜色の瞳。心を読み取られてしまう前に自分の口で伝えなければ、という衝動にかられた。
「……実はその、正直なところ、確かに、私は……きっ、君の事を――!」
 刹那、一際強くアブトゥの胸を打った衝撃。それをもたらしたのは、ペレスの渾身の言葉――を無効にした、物理的な音響だった。
「……上がり始めたな、花火」
 アブトゥの心は、既に目の前のペレスではなく、夜空の鮮やかな大輪に向いていた。
「あ……ああ、そう、だな……」
 のぼせ上がっていた頭が急速に冷めていき、見た目にも萎むペレス。消沈しているところに、差し出された一粒の金平糖。
「食べるか」
 彼はアブトゥから受け取ったその小さな星を早々に口へ放り込み、甘さを味わわずして噛み潰す。
「で、何を言おうとした?」
「……何でもない」
 ペレスの不機嫌の理由が、アブトゥには分からなかった。
 一瞬で散っては、ひと夏の思い出と共に心に焼きつく花火。二人はしばし無言でそれを眺めていたが、鋭敏なアブトゥが奇妙な事象に気づく。
「……先程、開いた花火の数に対して打ち上がる音の方が、幾らか多くなかったか?」
「さあ、川沿いの建造物に反響した音じゃないか?」
 ペレスだけでなく、気づいた見物客は他に誰もない様子で、謎はアブトゥの中にだけ残された。
 
 
 彼等が居る川の口を更にずっと下った海の沖合に、散る事も消える事もない小さな花火が浮かび上がっている。それは停泊した国籍不詳の戦艦に設けられているヘリコプター甲板の灯火で、そこに、陸の方面より来た一機のヘリコプターが降り立つ。
 到着したヘリコプターから出てきた浴衣の男に、艦上で待っていた女が駆け寄る。
「バルディ!」
「ようアンジェラ」
 周囲に船員達の目があっても、アンジェラは憚らずバルディの胸に飛び込む。
「アンタが日本政府との間を取り持ってくれて随分助かったよ!」
 バルディはこなれた所作で受け止める。
「そうか、良かった」
「何処の領で活動するにも、アタシら『防衛組織』の存在を知ってる各国のお偉い様に話を通すまでが、まず一苦労だからねえ」
「それで、首尾は?」
 尋ねられたアンジェラの返答は、意気揚々としていた。
「撃墜完了。これから回収に向かうところさ」
 この艦が少し前にぶっ放した砲撃こそ、花火に紛れてアブトゥが聞き取った音の正体だった。
 バルディは彼女を身から離して労う。
「侵略型地球外生命体による日本潜入計画の暗号解読及び阻止、ご苦労だった。キャプテン・アンジェラ」
 彼女は苦笑う。
「元の頭にそう呼ばれるとむず痒いね。アンタが陸(おか)に上がっちまったから仕方なく役を引き継いでるんだ。すぐにでも突っ返したいけど、まだ戻る気はないのかい?」
「何だ、わざわざ俺を呼び出したのはその話をしたかったからか? 今回みたいな情報伝達で済む事なら何処でも出来るってのに」
「面倒そうに言ってるけど、実際は全然関係ない今の職場の人間までぞろぞろ連れて日本に来てんじゃないのさ。こんな格好までして楽しそうに」
 合わせ方の甘い浴衣の胸元をべしりと叩かれ、高く笑った後にバルディは経緯を明かす。
「会社で唯一俺の経歴を把握している社長に事情を告げて、社員旅行という名目での日本行きを進言してみたら即採用されてな。日本についてを語り合える社員が増えれば社長の機嫌は保てるし、何より編集部の奴等……取り分けミゲルのガス抜きをしてやりたいと前々から考えていたんで、ちょうど良かったよ」
 彼の思いを聞かされたアンジェラは、大仰に溜息を吐いた。
「……そんなに大事にするほど現状を気に入ってるんじゃ、当分こっちには戻って来てくれそうにないね。いいさ、自由にやんなよ。アタシも自由に、あんたを追っかけ続けてやるまでさ!」
 
 彩り豊かに弾ける者達。全てを大らかに包んで、特別な日本の夏の夜は更けていくのだった。
 
 
 ペンのマストと紙の帆と・2 インジパング編/終 (初掲載:2020/09/27)



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