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   運命交路  
 
 
 夜の闇が引いて煌めき出した、一片の雲もない海。しかし地図の上では、そこは未だ厚い雲に覆われた領域である。
 その深層にある真相を目指し、ガレオン船のみで編成された一団は行く。
 どれほど大きな船だろうと、大海に出ればてんで小さく無力だという現実を散々思い知らされている水夫達は、常に危機意識を持って乗務している。ただ現在、この船団において満ちた帆を支える縄以上に彼等の空気が張り詰めている原因は、此度の航海の目的にあった。
 未確定領域がどうなっているかを確かめて所属の商会に報告する点は、いつもと同じなのだが――。
 そんな中、緊張感とはうらはらな間延びした声が空に放られた。
「あーっ、またやられたあ! これで四連敗だ」
 船室から甲板に上がって来たアブトゥは、カード遊びに興じている水夫達を目にした。
 一見呑気な光景。けれど彼等が休憩時間でもマスト下に留まっているのは、上の見張りがいつ叫び出すやもしれない『危険な地点』がすぐそばまで迫っている事を、承知しているからだ。
「ああ、提督も久しぶりにやりませんか?」
 水夫の一人が手札を掲げ、彼を誘う。
「私はいい」
 アブトゥは、もう長いこと水夫達とカード遊びをしていない。参加すれば自分が必ず勝ってしまうと分かっているがゆえに。彼には、対戦相手の手札が全て読めるのだ。
 ところが水夫達はそれを知った上で言う。
「や、勝ってもらって全然構わないですよ。これは賭けなしの、本当に単なるお遊びですし」
「へへ、『提督との賭け』に全部突っ込んだ俺達には、他に賭けられるものなんて何もありゃしませんからね」
 アブトゥは片眉を上げる。
「……カード遊びの賭けで、お前達からそこまで金を巻き上げた覚えはないが」
 アブトゥがかつて彼等に全勝して賭け金を総ざらいし、もう勘弁してくれと泣きつかれたのは事実であるも、それは一度だけであり、しかも随分前の事。そう思い返す彼に、水夫は笑って答える。
「いえ、そっちではありません。提督と勝負した話ではなく、提督の勝負に乗った話です」
 アブトゥはますます訝しむ。
「私の勝負に?」
 揃って頷く水夫達。
「これまで必ず勝ってきたアブトゥ提督が、今回挑んだ大勝負――。提督が賭けた方に、俺達も賭けてるんですよ。『命』って全財産を」
「そうそ、負けたら『滝』に船ごと没収されて一巻の終わり! だからむしろカード遊びで提督の無敗記録が更新されるほど、先行きが心強いってもんでさあ」
 彼等皆、アブトゥがとある目的を持って臨んだこの航海に、命運を賭していると語る。
 その勝負の行方は水平線の縁、もう間近となったそこで生死のいずれかを携え、待ち受けているのだった。
 
 
 時は出航前に遡り、場所はポルトガル王国のリスボンにある商会の館。窓を背に机と、他に本棚が一つあるだけの簡素な執事室で、ミゲルは机越しにアブトゥの言葉を聞いて驚く。
「えーっ! 貴方もシンドバッドのイカリを持って行かないんですか?」
「ペレスが置いて行ったのだろう。ならば私にも不要だ」
「皆で苦労して、やっと手に入れたというのに……。世界の果てのぎりぎりを行く探検航路ですよ? 言い伝え通り滝があったらこれ以上の危険はないんですから、どうか装備していってくださいよう」
 突っぱねられて頭を抱えるミゲル。たまたま資料を借りに執事室を訪れていたマリアもアブトゥを案じ、歩み寄って意見する。
「私もそうした方がいいと思うけど……。無防備で果てに近い未確定領域を航行するなんて、水夫達も納得しないんじゃないかしら。それを理由にことごとく乗船を拒否されたら、出航すら出来ないわよ? 流石に船は提督一人で動かせる物ではないし」
 その事に関して、ミゲルは疑問を口にする。
「と、私も思っていたのですが……。同じ判断をしたペレス提督には、船団を構成できるだけの水夫が残ったんですよねえ。不思議です」
「あ、既に出てるって事は、そう言えばそうね?」
 二つの首を傾げさせる不可解には触れず、アブトゥはきっぱりと告げる。
「水夫達には私から直接説明する。それで彼等の納得が得られなければ、話はそこまでだ。いくら指示されようとも私はこの航海には出ない。他の提督にシンドバッドのイカリを持たせて、向かわせるんだな」
 ミゲルは嘆息する。
「相変わらず頑固ですねえ、貴方もペレスも……。少しは心配して待つ私の身にもなってください」
 ふと思いついたマリアが、目を輝かせてアブトゥの顔を覗き込む。
「ねね、もしかしてペレスは、アブトゥに持たせたくてシンドバッドのイカリを置いて行ったんじゃない? 貴方が次の航海で危なくないようにって。彼、この後の皆の予定は把握していたんでしょ?」
「それはない」
 即断言され、マリアは不服な顔をする。
「えー、どうして言い切れるの?」
「ペレスは自身の学説に基づいて行動しただけだ。その判断に私の存在は関与しない」
「そうかしら……。エジプトから遥々単身でやって来た貴方を、何だかんだ言いながら一番気にかけているのは彼だもの。十分有り得ると思うのだけど」
 そんなマリアの見方をアブトゥがどう受け止めたか、彼の表情から読み取れる要素は何もなかった。
 ペレス同様、アブトゥも一度決めた事はそうそう曲げない。経験上それをよく知っているミゲルは、結局自分が折れるしかないのだった。
「んもう……。仕方ありませんね、アブトゥ船団の装備変更については私からご主人様に伝えておきます。どうかくれぐれも気をつけて、少しでも危険だと判断したらすぐ――」
「もう一つ、変更を願う」
 言葉を遮ってきたアブトゥに、ミゲルは更なる無茶を重ねられるのではと身構える。
「……何ですか」
「今回のペレスの航海、本当に目的が『世界の果ての確認』であるのなら、私もそこへ赴き、彼と共にそれを達成しなければならない。だから私の航海にも同じ目的を追加し、航路を変えてもらいたい」
 予想以上の無茶振りに、ミゲルの口があんぐりと開く。
「ペレスの船団を追って、合流したいって事ですか? そうするとまるっきり航路変更しないといけなくなりますよね……。ご主人様が了承なさるかどうか」
「うーん、そもそも先に発ったペレスに、これから追いつくのは難しくない?」
 マリアが述べたのに対し、ミゲルは少し鼻を高くして答えた。
「ああ、そこは大丈夫でしょう。アブトゥ船団は、ペレス船団よりも性能の高いガレオン船を揃えたばかりですからね。今のところ、我が商会随一の船速を誇っています」
「あらそうなの?」
 アブトゥが事情を説明する。
「北の海の流氷で全船消耗し、修理が間に合わず買い替えになったのだ」
「へえー、いいなあ新しい船! ねえミゲル、私の船団も全部新調――」
 ミゲルはマリアの要望を速やかに却下する。
「当分無理です。今年は他にも出費が嵩んでいますし、今の船を出来るだけ大事に乗ってください。心配性なトーレスの勧めで導入したジャンク型の船、抜群に頑丈なはずでしょう?」
「頑丈過ぎて傷まないから、新型の船が造られてもちっとも買い替えてもらえないのが悲しいのよ……」
 まともに取り合えばお金がかかる彼女の嘆きを聞き流し、ミゲルは話を戻す。
「……で、追いつけるかどうかですが。ペレス船団は世界の果てへ向かう前に、南の新大陸にあるエメラルドの産地でしばらく停泊する指示も受けているんですよ。そこを往来する貿易船がしょっちゅう海賊に狙われるので、撃退できるバルディ船団を派遣するまでの間、海賊行為の抑止力となって頂くために」
 マリアは納得する。
「なるほどね。じゃあそこで合流して、一緒に目的の地点へ向かう事は十分可能だわ」
「しかしやはりここまで大幅な変更は提督の私情が過ぎて、いくら何でも許されないのではと――」
 ミゲル達が展開する想定と懸念。アブトゥはそれらを覆す。
「いや――私はそちらへは向かわない。最初の指定通りの航路を行く。変更を希望するのは、ここのみだ」
「え?」
 マントを軽くはね除けて腕輪の嵌まる片手を出し、机上の地図に描かれた航路の一つを人差し指でなぞる。その指先が該当の箇所でついと逸らされるのを見て、マリアとミゲルは目をぱちくりさせた。
「そこだけでいいの?」
「これでは、仰っているご希望は叶わないのでは……?」
 めくれたマントから不思議な香気を仄かに漂わせ、アブトゥは返した。
「叶わないかもしれないし、叶うかもしれない。それは世界の真実がどうあるか次第だ」
 
 
「――進行方向! 海上に影を発見!」
 見張りの一声で、船上は緊迫した空気に完全に支配された。持ち場を離れられない者以外は全員、舳先の方に駆け出す。アブトゥも足早にそちらへと向かった。
 東の真新しい太陽は海面に止め処なく光を零し、跳ねさせている。見張りが知らせた影は、そこより滲み出て来ていた。船首甲板に集った彼等は、正体を確かめんとして凝らす目を眩まされる。
「……船? 船影か?」
「こちらへ向かって来ているのか」
「しかも一つじゃないな、二、三……四――」
 誰ともなく、漏らされた呟き。
「……まさか、『死者の国』からの出迎えじゃあ……」
 舳先に陣取る水夫長が、青筋を立てて猛々しく振り返る。
「馬鹿抜かすんじゃねえ! 仮にそうだったとしても、砲弾しこたまぶっ放して追い払ってやらあ!」
 長年水夫達を束ねている彼の頼もしさも、だがこの場に急速に膨らむ不安と恐れは抑え切れない。
「……提督」
 水夫達はすがる眼差しをアブトゥに向ける。
 此度の航海の最たる目的は、世界の果てがどうなっているかを確認してくる事。水夫達の間では長らく『世界は平らで、端は滝になっている』という説が信じられている。そしてそこに到達した時、滝に飲まれないためにはシンドバッドのイカリが不可欠だと、彼等の誰もが思っていた。
 アブトゥの意向を聞いた時、水夫達は当然動揺し、彼に問うた。
 ――提督は、世界の果てがどうなっているとお考えなのですか? もしやそこの滝から落ちて、俺達もろとも、死者の国とやらにまで行かれるおつもりで……?
 彼等はいま死を強く意識し、各々の胸に最も大切な者の姿を思い浮かべている。そんな皆の心像を透かし見るアブトゥはふと、自身の胸にも浮かぶ者があるのに気づいた。その彼は過去、アブトゥにこう話していた。
 ――溺れて死ぬと悟った時に考えたのは、君の事だったよ――。
 彼が皮肉の混じらない笑みを見せたのは、それが初めてだった。
 星はアブトゥを導いた。運命の者と、世界の果てを確かめよと。身の保障があるかどうかまでは告げずに。
 そうして行く末が読めないまま、いざ訪れた生死の際。更にそこで自分が彼を思い浮かべるなどという事態も、彼には予見出来なかったのだった。
 この不確定な状況に敢えて身を置いたとも言えるアブトゥは、改めて『彼の信念』を信じ、水夫達に問われた時の答えを、今一度決然と繰り返した。
「私は、死者の国の者達と繋がる事が出来る。だが私自身が、そこの民になるつもりは未だない。この目で世界の果ての真実を自ら確かめ――生きて、帰還する」
 揺るぎなき強い意志。それを受けて、水夫達は思い出す。
 ――アブトゥ提督は勝負に必ず勝つ――。
 カード遊びに限らない。航海を共にするほどに、シャーマンと称する提督の奇妙で理解しがたい判断はしかし正しかった、と結論づけられる経験の積み重ねが、彼等にそう確信させ、この船に乗り込ませたのだ。
 死への恐れによって曇らされていた眼前が晴れ渡り、水夫達はそこに迫る真実を、ようやく正しく捉え始めた。
「……おいよく見ろ、あの船の旗」
「あれは、俺達と同じ、商会の?」
 マスト上の見張りが叫ぶ。
「――ペレス船団! ペレス提督の船団です! 間違いありませんっ……!」
 光より出でたものは、やはり光。
 アブトゥ船団に真向かって来ていたのは死の影などではなく、ペレスの率いる船団だった。
 水夫達は呆然とする。
「……俺達とは反対の西へ向かって行ったペレス船団と、世界の果てで出会ったってのか……?」
 ごろりと落ちそうなほど目の玉を剥く水夫長。
「世界が丸けりゃ東と西が繋がるって提督のとんでもねえ話が、本当だった訳か!」
 アブトゥ船団の航路は、アフリカ大陸の南端を回り込み、インドを経て進む東ルート。対してペレス船団の航路は、ひたすら西の海洋を進む西ルート。
 リスボンから異なる方角へ分かれて発ち、平面地図上の最東端と最西端を確認しに向かったはずの船団がこうして出会った事実こそが、かねてよりペレスの掲げていた説――世界球体説の証明。
 事前にアブトゥが願い出た航路の変更先は、世界が球体になっている事を前提とし、ペレスが到達する予定の『世界の最西端であり最東端でもある』現在の地点だったのだ。
 水夫達の手に握られていたカードが一斉に放り上げられ、潮風に舞う。
「やったぞ、俺達は賭けに勝ったんだ! 世界の果てを見た最初の人間になれたんだ!」
 それが、彼等がこぞって命を賭けるだけの価値を見出した後世に残る栄誉。
 徐々に接近する二つの船団。ペレス船団の水夫達も、アブトゥ船団側と同様に喜びに沸いていた。それぞれの提督を信じて自らの全てを賭し、栄誉を獲得した者達同士、朝の穏やかな波越しに大きく手を振り合う。
 水代わりのワインを祝杯とばかりに呷る水夫長が、アブトゥの背に問いかけた。
「いやぁ、にしても提督には、実はあらかじめ分かっていたんじゃねえんですか? 世界の真実の姿ってのが、この通りだと」
 常より何があろうと動じないアブトゥを見続けてきた彼には、そうとしか考えられないのだった。
「いや」
「でも、星のお告げでいっつも全てお見通しでしょう?」
「星は、全ては告げない。定まらないところは、告げようがないのだ」
 先ほどカード遊びをしていた水夫の一人が、横から入る。
「定まらないところ? 提督は以前、自分が知り得るのはあらゆる者の『運命』に関する事だと仰いました。それは、必ずそうなると定まっている未来ではないのですか?」
「一切には、星の定めがある。運命と呼ばれるそれ自体からは、決して逃れられない。ただし、人の運命との向き合い方次第で、未来は――後に見る世界の姿は変わる」
「人の、運命との向き合い方?」
 ターバンの端を閃かせ、アブトゥは彼等の方を振り向く。
「お前達が水夫としての栄誉を強く欲し、私やペレスを信じてこの航海に命を賭けたのも、運命と向き合った結果であり、『シンドバッドのイカリを持たずに果てへ到達しても生還できる世界の姿』を確定させた要因の一つだ」
 逆光が美しさを際立たせるアブトゥの横顔に、水夫達は以降尋ねる言葉を失くし、ただ見惚れた。
 今日までに、アブトゥの神秘的な予見とペレスの科学的な知見の双方が信頼を得ていなければ、水夫達が奮い立つ事はなく、ここに観測された事象は有り得なかった訳である。
 二度目の、運命の出会いも。
 危険のない距離を保って対向し、二つの船団が横に並ぶ。
 向こう側の船団に視線を投げたアブトゥは、先頭を行く船の縁に、彼の姿を見つけた。
「――ペレス」
 ペレスもアブトゥを見つけ、笑う。船から落ちて溺れ死にかけたと語った、あの時みたく。
 ――沈む中で、このまま死ねばもう君に会えないという事しか頭に浮かばなかった。しかし助かってまた君と会え、こうして議論を再開できた。それが嬉しいんだ――。
 今の自分も同じ表情をしているのだろうと、アブトゥは思った。
 互いに、高々と拳を突き上げる。日頃相反する思想を持つ自分達が真逆の方角へと進んだ末、同じ地点に至り、遂には世界の姿を確定させた、この永劫の瞬間を称え合って。
 自身の学説を信じるペレスを、アブトゥは信じた。
 ――自身の未来も世界も変わる。『運命の人』と向き合う事で――。
 信じてそれこそを真に確かめたかった彼は、次第に離れ行くペレスとは再び逆となる前方へ向き直り、今後更に変わっていくであろう先を見つめた。
 
 
 運命交路/終 (ネオアトアンソロジー参加作品)



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