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   定めのままに近づきて  
 
 
 ※この話は、「声」のちょっとした続きです。  
 
 
 遭難したペレス船団の者達がアブトゥ船団に救助されて、数日。彼等は順調に、リスボンへ向かう航行を続けていた。救けられた水夫達は遭難生活による衰弱から幾分回復し、恩を返すべく徐々に働き出している。先の航海に関する報告書をまとめ終えた夜、ペレスも何か出来る事をしなければと上甲板に出た。
 帆を減らして漂泊する船は今、海原の青い月影にひっそりと浮かんでいる。舳先か艫には必ず見張りが配置されているので、それを手伝おうと、ペレスは舳先の方へと足を向けた。
 見張りの定位置には二つの人影があり、一人は座っていて、もう一人はその後ろに立っている。近づくペレスの足音に気づいて、立っている方の男が振り返る。
「あ、ペレス提督。どうしたってんですこんな夜中に」
 彼はペレス船団の水夫の一人だった。
「見張りの目を増やそうと思ってね。君も、それでここに?」
「俺は提督がじきじきに見張りしてるってんで、代わろうと思って来たんすけどね」
 提督がじきじきに、と聞いて、ペレスは縁で座っている方の者に目を凝らす。暗がりでも輪郭で判別出来るターバンと外套の後ろ姿は、紛れもなく現船団の提督を勤めるアブトゥである。彼女は前方を向いたまま、二人に淡白に告げた。
「代わる必要も増やす必要もない。今日はいつもより星のささめきがよく聴こえる。今の見張りは私が適任で、一人でも十分だ」
 アブトゥの言葉に馴染みがない水夫は、首を傾げる。
「ほしの、ささめき……? 星が喋ってるんですかい? 俺にはなんにも聞こえねえっすけど」
 見上げると、煌々とした半月を遠巻く星達が、水平近くまで満ちて光っている。ペレスは顎に片手を添えるいつもの仕草で、空の模様を観る。
「ふむ、風がほぼなく、雲も星の瞬きもごく僅かだな。しばらくは安定した天候を望めそうだ」
 ペレスの見立てに、水夫も頷く。
「その通りで。俺は経験でしか物を言えねえんすが、学者先生が同じ意見なら安泰でさあ」
「船乗り達が経験を積み重ねて得た知識には、必ず科学的な根拠があるはずだ。それらを解明して予見の精度を上げる事が出来れば、後の航海はより一層安泰なものになるだろうね。しかし今尚、空にはそれこそ星の数ほど謎がある。解明から実用までには未だ程遠い」
 水夫とペレスは見上げたまま、夜空を介して話し続ける。
「謎ねえ。考えてみりゃ、空ってのは奇妙なもんでさあね。そこにある月や星だって、こっちがいくら逃げても振り切れねえし、追っかけても近づけねえ。ただただ、頭の上をついて来やがる。面倒くせえ、言いたい事があるなら聞こえる声ではっきり言えってんだ」
 空へ悪態を吐く彼に対し、ペレスは嬉しそうに口角を上げた。
「そういう、当たり前に思える事象に気づいて疑問を見出せるのは、良い事だな。月や星が進んでも進んでもぴたりとついて来るのは、あまりにも遠くにあり過ぎて『そのように見えている』に過ぎない。私達の移動する距離など、その天体との距離に比べれば無きにも等しい微々たるもの。故に変化の実感を持てないのだよ」
 そうした途方のない頭上を仰ぎ、目下の生活に追われがちな水夫は溜息をもらす。
「へえ、そんなにも遠いんですかい。世界の果ての『滝』よりも、もっと遠いんすかねえ。俺の頭じゃとても追っつかねえや。次の陸地までの距離すら、勘に頼るばっかりだってのに」
「君達の言う『勘』も、多くは経験の積み重ねの賜物だろう。それらは今現在役立っているだけでなく、私達に謎を謎と認識させ、いずれ紐解かせる鍵となる。後世の者達がそれを成せるよう、大切に受け継いでいってもらいたいものだ」
「はあ、そんな、大層なもんですかねえ」
 自分が頼る、自らの経験。思いがけずその価値を認められ、水夫は照れ臭そうに頭を掻く。そしてしみじみと、船乗りとしての心情を吐露した。
「俺達はいつだって、この訳の分からん空に方角と機嫌を窺いながら行かなきゃならねえ。どんなに不確かでも、海の真っ只中では他に命運を託すところがねえんでさ。もっとも、何度死にかけてもまた漕ぎ出しちまう自分が、いちばん訳の分からんところでね。はは、世話がねえや」
 見張りは不要と言われた以上留まる意味はないので、言い終えた水夫はさっぱりとした挨拶をし、その場を去って行った。残ったペレスはアブトゥに向き直る。相変わらず微動だにせず、聞いていたのかいなかったのか、水夫とのやり取りのあいだ終始黙していた彼女に、彼は話しかける。
「星がついて来る……か。あれは何回目だったかな。ほら、『星』を題目に議論した事があったろう。あの時に君が展開した持論――」
「――『我々は星を従えているのではない。我々が星に従っているのだ』」
 間髪置かず、アブトゥは過去の発言をそっくりそのまま繰り返した。ペレスは苦笑する。ただその苦笑は、アブトゥに対してのものではない。かつてはいくら議論を重ねても彼女の非科学的主張がまるで変わらない事に、もどかしさを覚えていた。なのに今は、確固として変わらない彼女そのものに、何処か安堵を覚えている――。そんな自分に対してのものだった。無論、観察力を外側に全振りしていて自身の内側はとことん見えないペレスの事。本人は無自覚である。
「その、君が言うところの意味はやはり掴みかねるのだが……。後になって、それは私の中で長らく眠っていたひとつの説に、光を当てたよ。もしかしたら、『星が私達の周りを巡っているのではなく、私達こそが、星の周りを巡っている』のではないか――と。地が動き、天を回る。古くからの言い伝えで、まさしく天地がひっくり返る説だ。私はまだ誰も証明出来ていない『現在の定説』などに囚われて、それを取るに足らない作り話と思い込んでしまっていた。だが気づいたんだ、私の考えが正しければ、それは『世界球体説』とも大いに関係する、検証すべき事柄だと」
 今宵は黙って耳をそばだてている日頃の議論相手に、ペレスは淀みなく述べ続ける。
「求める真理までは、それこそ未だ天体との距離ほどあるのかもしれない。全く近づけていないように見えたとしても、それでも、実際に距離が全く変わっていない訳ではないはずだ。だから僅かであろうと、私は進み続けるつもりでいる。後から後からついて来る知識欲も、振り切れそうにないのでね」
 いつになく熱の篭る言葉を吐き切ったペレスだったが、アブトゥの返しは、やはり変わらず淡白なものだった。
「お前の知識欲は、後世の者達を救うかもしれないが、先にお前自身を殺しかねない。定めのまま求め続けるにしても、忠告には、素直に耳を貸す事だな」
 幾本目かの釘を刺されたペレスは、きまり悪そうにひとつ咳払いをする。
「それに関しては、まあ……いま君の船に乗せてもらっている身の上では、流石に強く出られないな。出来れば私の理解が及ぶ、論理的な忠告を願いたいところだ」
 それを聞いたアブトゥが背を向けたままそっと微笑んだのを、ペレスは知らない。かけ離れた世界観を持つ二人の距離も存外、『変わっていないように見えるだけ』なのかもしれない。
 
 
 定めのままに近づきて/終 (初掲載:2017/09/04)



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