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   その寝顔に思う事  
 
 
 1.青き瞳は夜に迷い
 
 静けさを求めて自分の為だけに用意した場所、の筈だった。海の荒波も街の人波も、ここからは遠い。壁一面の棚に所蔵している本達と、台に設置している実験器具の数々。物言わぬ彼等の有意義な語り以外は聴こえず、知の探求に没頭できる家だったのだ、それまでは。書斎で机に向かっている時に、他に気がいって仕事の手が進まなくなるなど、かつて無かった事だ。
 
 書斎と寝床との間仕切りは棚から溢れてしまった本の山が担っていて、机上から零れた蝋燭の火が、その向こう側で毛布に包まり眠っている者の姿を仄かに浮かび上がらせている。それこそが今、私の気をそぞろにさせている存在。普段はターバンと外套で頑なに覆われている黒髪と褐色の肩が露わになっていて、知らず目を奪われていた私は、暗がりの方へと打たれた寝返りで我に返る。そのとき照らす火が揺らいだのは私の胸が煽ったからだろうか、などと全く馬鹿馬鹿しい発想が出て、かの存在に生活空間のみならず更に深いところまで侵食されている事を懸念する。
 世話になった訳でもないのに、放っておけずこの家へ招き入れた理由は二つある。一つは、半ば押し掛けとはいえ、私との関わりを機に異国からやって来た者だから。もう一つは、提督の業務についての知識を深めたいと望んでいたから。提督になれば日常の大半が船上生活となるが、航海と航海の合間に休息できる場所が母港リスボンに必要だろうし、私自身が提督業に就くにあたって収集した書籍が多数あるここなら、それを学ぶ事も出来る。私は学者として、学ぶ意思がある者を蔑ろには出来ない。そしてそれらの理由より何より、言わずもがなの『前提』があっての話だった。まさか後になって、その前提が崩れていると知る事になるとは思いもよらず。
 彼――いや、『彼だと思い込んでいた彼女』アブトゥは、しかしその事実によれば『異性と暮らしている事になる現状』を、まるで意に介していない。問題のなかったこれまでと何ら変わらないと言い、こうして私が側に居ようと全くの無防備で眠るのが、彼女の言葉の証明だ。以前は、そんな納得のいかない主張をされれば即座に反論してきた。ところがこの件に関してのみそれが出来なくなってしまってる事自体が、私にとっての最大の変化だというのはどうした皮肉だろう。共に過ごすのは、互いに航海のない期間が被った時だけとはいえ――。
 今なら仕事の報酬で、もっと港に近く便利の良いところに自分の住まいを持てる筈なのだが、転居を勧めてもアブトゥは受け容れない。その理由を、彼女はこう話す。
 ――まだ、読めていないものがある。
 翻訳が追いつかず私ですら読み切れていない異国の本も大量にあるというのに、ここの蔵書を読み尽くすまで留まる気だとしたら、一体人生何回分の時間を要するか分からない。
 
 ――でも、それを指摘する気になれない私は心の何処かで、少なくとも私の人生一回分の現状継続を、望んでいるのかも知れない――。
 
 彼女の寝顔による動揺を、彼女の国の香りがする飲料で鎮静しながら、そんならしくもない事を思った後、私は再び机の書類に向き直った。
 
青き瞳は夜に迷いて
 
 
   ***
 
 
 2.黒き瞳は朝に惑いて
 
 星や精霊の声から、あらゆる未来が視えた筈だった。館で霊に憑かれた者を救い、生に疲れた者を導く日々。代々受け継がれるシャーマンの力をもって、読めない先はなかったのだ、それまでは。救ってやったにも関わらずその力を真っ向から全否定された上、予知が及ばなかった屈辱から衝動に任せて一族の館を離れるなど、かつてなかった事だ。
 
 日の光に瞼をくすぐられて目覚め、身体を起こす。朝まで一度も目を覚まさず、深く眠り込んでいた。ふと気配を察して光射す窓の反対側を見やると、本の山越しに、書斎机で伏している者の姿が目に入る。それこそが今、私の気を引いて止まない存在。おおよそ疲れの自覚がないまま書き物をしていて、途中で寝てしまったのだろう。私は立ち上がり、起こさないように自分が着ていた毛布を彼の肩に掛けた。机には書類と筆記具と火の消えた蝋燭の他に、中身を飲み干されたコップがひとつある。それの底に残っている一枚の葉に気づいた私は身を翻し、隣の部屋へと向かった。
 そこで、食事用の卓にぽつんと置かれた品を見つける。燦々と黄色い紡錘の形――レモンだ。この食卓は普段、食事を載せていない時には議題を載せ、彼ことペレスと相対して様々な議論をするところになっている。そしてそのどちらもが無い時は、交互に何らかの『品物』を載せておくのが、いつからか続いている暗黙の遊び。ペレスの書斎机のコップにあった葉は、私が眠りにつく前にここへ置いておいた品。薬効のある葉で、以前彼が酷く疲れていた時に私が酒に浮かべて飲ませたものに同じと、ちゃんと覚えていたようだ。彼が普段してしまいがちな無自覚な無茶への注意とまで、伝わったかどうかは分からないが。ただ忘れて無用な枯れ葉と判断し捨ててあったなら、文句のひとつも言ってやろうと思っていた。……残念だ。その葉と引き換えに置かれたのが、このレモンという訳だ。航海が長くなるほど船上で壊血病が生じやすくなる問題に関して、ペレスがレモン汁を飲めば症状が改善し、また予防出来る事が判ったと熱心に語っていたのを思い出す。今日から私が赴く航海は長期に及ぶ。故に、これを十分に備えてから行くように、との助言と解釈した。
 ペレスは私の事を長らく男だと思い込んでいて、違うと知るや、別の住居へ移る事を勧めてきた。それを拒否し、私がここに住み続ける理由は唯一つ。私はペレスにこう告げた。
 ――まだ、読めていないものがある。
 その『読めていないもの』を、彼はどうやらここに山とある蔵書の話だと捉えたらしいが、そうではない。ペレスと初対面の時、私は彼の未来を視る事が敵わなかった。予知の力は、対象に強い感情を持つと途端に曇る。シャーマンの力を一切信じない態度を取られて激昂した事で、皮肉にもその彼を、初めて力及ばぬ対象にしてしまった自らの未熟さにもまた、憤りを覚えるという負の連鎖。私はそれを克服する為に敢えて彼の近く身を置き、自分を保って『彼の未来』を読めるようになろうとしているのだ。そうして彼と深く関わり合うせいで、私は今、自身の先をも読めなくなっている。その中で、最初『怒り』に近いものであったと記憶している感情は、いつしか変容していた。似た熱を持つそれと彼の寝顔は、私に時折、こんならしくもない事を考えさせる。
 
 ――未来が視えないまま、共に歩んで刻々と定まっていく互いの現在を生涯かけて見続ける事こそが、運命なのかも知れない――。
 
 身支度を整えて出掛ける前、私はレモンと引き換えに、どの本から抜けてしまったか分からない栞紐を置いた。読みかけの本は、見えずともここに在るのだという意味を込めて。
 
黒き瞳は朝に惑いて
 
 
 その寝顔に思う事/終 (ペレス*アブトゥ同棲シチュエーションアンソロジー参加作品)



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