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 港のない岸辺。陸まで持ち堪えて懸命に水夫達を守った末、岩礁に食い込んで竜骨や肋骨に甚大な傷を負ってしまった船達は、今は穏やかな日差しと波の中で、静かに眠っている。彼が傾いた船のひとつで『それ』を拾ったのは、別の船による帰還の目処がつき、残したままになっていた積荷を移すべく戻った時だった。
 
 
   ***
 
 
 海上を行く船は、夜も眠らない。太陽と星の軌道からは時と方角を、風雲と波の起伏からは天候を読み続け、揺れ動くのとはうらはらに、これと定めた航路を譲らずに進んでいく。だがいくら心構えていようとも、予期せぬ事態には遭遇するもの。如何な世界も、順風満帆とはいかないのが常である。
 かくして先の航海で嵐と怪物の同時襲撃をくらい、一時遭難状態にあったペレス。現在はその状況を脱し、船首楼にある部屋の机で経緯を書き綴っている。リスボンに帰還した後、提督として雇われている貿易商に提出する報告書だ。
 といっても、帰途にあるその船はペレス船団のものではない。命からがら陸まで逃げ伸びられたは良いが、どの船も損傷が激しく、帰還しようにも航海に耐えられる状態ではなかった。水夫達が全員無事な事、また見知らぬ国に留まるにおいて、現地の村人達が来訪者に対し非常に友好的だった事は幸いなものの、船を修復するための設備や資材は乏しく、救援を呼ぼうにも連絡手段は皆無で、彼等は途方に暮れて幾月も過ごしていたのだ。そこへ偶然訪れた救いが、この船――ペレス船団と同じ貿易商の、アブトゥ提督が率いる船団の船だった。
 ただ、『偶然』とはあくまでペレスが個人的に出した結論であり、アブトゥの主張とは異なる。アブトゥは精霊の声を聴いてペレス達の受難と居所を知り、救助に来たと言う。だが未だ地図に記されていない地の小さな村に、遭難した自分達がいると確信して迷わず来られたというのが、ペレスにはどうしても信じられなかった。二人は提督であると同時に、ペレスは科学を重んずる学者の顔を、アブトゥは神秘を敬するシャーマンの顔を、それぞれ持っている。それが故にあらゆる事象について見解が相違してしまい、彼等はしばしば対立していた。此度も彼等の間で一悶着あり、相変わらず答えは出ず仕舞い。ペレスは仕方なく、この件に関してはひとまずアブトゥ船団に助けられた事実のみを、報告書に記載するのだった。
 そうして走らせていた彼のペンの速度が徐々に衰え、やがて文字は、紙の半ばで尽きてしまう。片肘をついてうな垂れ、妙に重たい頭を支えた。先程からどうも気分が優れず、悪心もある。彼は提督になってからこれまで、体質のお陰か船上でどれだけ書き物をしようと読み物をしようと、気分が悪くなった事はなかったのだが。
 ――遭難生活で蓄積した疲労が、船酔いを併発させてしまったのかも知れない。
 そう考え至ったペレスは一旦ペンをスタンドに収めてインク瓶を閉め、椅子から立ち上がった。部屋を出て夜風に当たれば、多少は良くなるかもしれないと思ったからだ。据え付けられた寝台と机があるだけの狭い部屋なので、上甲板に出られる扉へは数歩。手をかけたその扉は、しかし先に外側から強い力で開けられた。押された勢いと驚きで後ずさったペレスは、開いた出入り口に立つ人物の名を口にする。
「アブトゥ」
 冷たい風が、彼女のターバンの端と袖なしの外套を揺らして室内に流れ込む。吊り下げた明かりの橙が、鼻筋の通った顔立ちを美しくも妖しく見せた。
「どうしたんだこんな夜更けに、何かあったのか」
「何処へ行くつもりだ」
 彼女はペレスの問いを流し、ぶしつけに問い返す。
「え、いや……少し気分が優れなくてね、夜風に当たりに行こうと」
 その言葉を受け、アブトゥは彼に警告した。
「お前は今、『呼ばれている』。ここを出てはいけない、海の闇に引きずり込まれるぞ」
 突飛な内容に、ペレスはぽかんとする。
「私が、呼ばれている? 誰に。そんな声など聞こえないが」
「耳に聞こえるものばかりが声ではない。そしてお前を呼ぶのが何者かは分からないが、悪意を感じる。私はそれを伝えに来た。今夜はここを出てはいけない」
 ペレスは溜息を交えて言う。
「……また精霊の声、とやらか? 相変わらず馬鹿馬鹿しい。聞くに値しない非論理の展開はいい加減にして、早くそこを退いてくれないか」
 ペレスがアブトゥの神秘的な話に否定的なのはいつもの事で、それはアブトゥもよく分かっている。もっとも、自分と自分の一族への侮辱に等しいその認識を改めさせるために、押し掛け提督となった程の彼女である。決してそれを許してなどはいない。ただ普段のペレスなら、否定するにももう少し言葉を選ぶ。面と向かっての、いつにも増して刺々しい物言いと態度に、アブトゥは眉をひそめた。目を光らせ、真を見定めようとする。
「海も夜も、底知れず深い。数多のものが潜み、常に我々を伺っている。目に見える者も、見えざる者も、良き者も悪しき者も――。お前はその怖ろしさを分かっていない」
「確かに、海には多様な生物が棲息している。時に巨大化したものが襲ってくる怖さなら、骨身に染みているよ。兆しが見えない天候の変化も恐ろしい。今回遭難してしまったのも、嵐の中で怪物に出くわした為だからね」
 アブトゥが説くのとはいささか世界のずれた返答をしながら、ペレスは苛立って頭を掻く。そうしている内にも、彼の船酔いに似た症状はだんだんと重さを増していく。あたかも、彼を急かすように。
「私は今ここで君と問答する気はないんだ、とにかく部屋から出してくれ」
「何故、そんなにも表へ行きたがる」
「だからそれは、単に夜風に当たりたくて――」
「違う。『声』がお前を連れ出そうとしているからだ。今お前を冒している不快も、苛立ちも、それの影響だ」
 頑として出入り口に立ちはだかるアブトゥに、ペレスはほとほと困り果てる。自身の異変を自覚できないまま。
「やれやれ、ただの船酔いだというのに、どう言えば納得してくれるんだ」
 するとアブトゥは腕を組み、敢えて高圧的に言い放った。
「……ならば、こちらもお前が納得する言い方を選ぼうか。この船団の提督は私だ。これに乗っている限り、私の指示には絶対に従ってもらう。もう一度言う、『ここを出るな』」
 こんなところでそんな権限まで持ち出したアブトゥに、ペレスは閉口してしまう。しばし真向かった後、彼女のただならぬ意気に圧される形で、彼はやがて、諦めるに至る。
「……ああ、そうだな。そう言われてしまったら、同じ提督の立場にある者としては従わざるを得ない」
 それにより、ペレスが――否、『ペレスを呼んでいる者』が怯んだと見るや、アブトゥはすかさず船室へ入り、内から扉を閉めた。そしてペレスの腕を掴み、彼の足がもつれるのにも構わず強引に部屋の中央へと引っ張って行く。
「おい、何なんだ一体」
 アブトゥはペレスを離すと足早に奥の机へ向かい、持って来た木の椅子を彼の側にどかりと置いた。
「これに座ってもらおう」
「何だ、また私に意味の分からないまじないをするのか? そんなもので船酔いが治る根拠など――」
「いいから座れと言っている」
 またも強引に両肩を掴まれ、ペレスは押し込められるようにして椅子に座った。
「全く、お前は無関心と無防備が過ぎるのだ。だから他の者なら畏怖を覚えて敬遠するはずの禁域にさえ不用意に踏み込み、呪われもする」
 呪われる、という言葉と椅子に座っている状況から、ペレスはアブトゥと初めて対面した時の事を思い出す。彼は未だに自分が『ファラオの呪い』にかかっていたとは認めていないが、その後のアマゾネスの件といい、今回の遭難の件といい、ペレスが科学的には説明しがたい形で幾度もアブトゥに危機を救われているのは、紛れもない事実。積み重なるそれらは僅かずつ、しかし着実に、彼の凝り固まった観念を溶かし始めていた。
 ――本当に、放っておけない。
 何かを唱え始める前、迂闊にも口から零れてしまった彼女の『心の声』はペレスの耳に届いたが、それもまた、彼が真に理解するのはまだまだ先となるであろう、所謂非合理な感情。アブトゥはペレスの正面に立ち、片手を彼の頬に添える。その細く長い指先の感触だけでどきりとして固まったペレスは、不意に身を屈めて覗き込んできた彼女に息を呑む。夜の色をした双眸。瞳越しに自分の内側を見透されると同時に、彼も、彼女の内側を垣間見る。一族の掟で名を明かせない彼女に『深い所』を意味する『アブトゥ』という名を付けておきながら、その深さに初めて直に接し、吸い込まれていく感覚を知る。そしてまさに吸い込まれてしまったかのように、そこでペレスの意識は途切れた。
 
 
声
 
 
   ***
 
 
 全身に纏わりついていた重たい何かが、解けて落ちるのを感じた。姿形の判然としないその『何か』は、昏い水底へと帰っていく。最後にきらきらと舞い散った光のつぶてが涙に見えて、悲しみに沈んでいくのだと、彼は無意識の海を漂いながら思った。
 
 
 瞼越しの薄明かりは、横の小窓から射したもの。夢の波から現の浜に寄せられて目を覚ましたペレスは、自分が船室の寝台で横たわっている事に気づく。船酔いと認識していた諸症状が、すっかり失せている事にも。着せられていた毛布をどけて身を起こすと、扉を背に片膝を立てて座り、眠っているらしきアブトゥが目に入る。昨夜の記憶が曖昧で声をかけあぐねていると、気配を察したのか彼女は目を開け、ペレスに視線をくれた。様子を伺って黙したままじっと見てくる彼女に、ペレスはようやく口を開く。
「……アブトゥ、私は確か、椅子に座って」
「寝台へは水夫達に運んでもらった。私がお前の身を通じて『声の主』と話をした後、お前は眠り込んでしまったからな」
 覚め切らない頭に飲み込めない状況。そんなペレスの困惑をよそに、アブトゥは続けた。
「ペレス、お前はこの海域に住まう何者かの、怒りに触れたようだ」
「海域に住まう……? 何の事だ」
 心当たりがない素振りの彼に、アブトゥは思案した後、昨夜『声の主』について知り得た事を語った。
「助けたのに無碍にされたと、憤っていた。おそらくは難破しかかったお前達の船を、陸へ導いた者だ。それに対し、お前は礼を欠いた」
「陸へ、導いた?」
 言われてふと何かを思い出しかけたが、非科学的現象を否定する頭が、記憶の蓋の重石となる。
「それ以上の事は聞けなかった。結局、何者なのかさえも。しかしあの念、単なる怒りとは違う気もする。一体、何と呼ぶべきか――」
 語りながら、次第に独りごちる風になって考え出す。
「……君にも、そういった類のものと通じ合えない事があるのか」
 存在を証明出来ない世界の一切を信じないペレスだが、アブトゥという人物そのものを信じていない訳ではない。彼女の言う事を否定する反面、決して人を謀るような事はしない、信用に値する者であると認めてもいる。それゆえ彼の発言は決して皮肉などではなく、自己矛盾から舌を転がり落ちたものだった。
「私に対して、ひどく頑なだった。お前に対する憤りとはまた違う、敵意、のような」
 しばらく考え込んでいたアブトゥだが、やがてひとつ息を吐いてゆっくりと立ち上がり、ペレスに告げた。
「ともあれ、深淵へ去って行ったからもう危険はないだろう。……疲れた。部屋へ戻る」
 ペレスが眠っている間、アブトゥは正体の分からない『声の主』の再来を危惧して、ずっと彼を見守っていたのだった。それにやっと気づいたペレスは、彼女の語ったものが実在するかどうかは一旦置いておく事にし、礼を述べる。
「……随分と心配をかけてしまった。ありがとう」
 アブトゥは扉にかけた手を止め、振り返る。
「礼なら、私よりも先にお前達の命を救った『声の主』に言うべきだ。一度救ったはずのお前を、今度は奪おうとするまでの怒りを買ったのは、間違いないのだから」
 そう言い残して、アブトゥは部屋を出て行った。
 
 
 少しして、ペレスも船首楼の部屋を出た。ボートの置かれた甲板には陽光が注ぎ、帆には潮風が満ちている。縁の柵に手をかけて、一度深く呼吸する。空も海も、未だ見ぬ果てまで続いている――。彼が二つの青の狭間でそう思うのは幾度目だろうか。その果てを知る前に自分の命が果てそうになった、あの恐ろしい日の記憶が甦る。
 ペレスはこの船へ乗り込む前、壊れた船に残したままだった積み荷を引き上げに戻ったのだが、共に行った水夫達は国へ帰れる事になりやっと心からの安堵を得てか、遭難中には重かった口を開き、あの日の出来事を語り合っていた。荷と引き換えに、今日までの絶望をそこへ置いていくように。その中で彼等が自分に言った事のひとつに、ペレスは頭をひねる。
 ――嵐にも怪物にも飲まれずに今こうしていられるのは、提督が的確な指示で皆を動かしてくれたからですよ。
 嵐により体制の維持もままならないところで更に怪物の襲撃にまで遭ったペレス船団は、上から幾重も被さってくる激浪と下から無数に絡まってくる触手に翻弄されていた。真っ先に砲列を備えた船を掴み取られたのが致命的で、ペレスが乗っているものも含めて武装のない他船では怪物に応戦できず、事態は軋みながら最悪へと傾いていく。皆ずぶ濡れになりながら必死で抵抗するも、混乱と絶望から次第に頭が働かなくなり、しまいには船にしがみつき神にすがりついて、ただ祈るばかりとなった。ただ一人、神を信じないペレスを除いて。存在しないものに祈ったところで変わるはずがない状況をどうにか打開しなければと、彼は今現在確固として存在し、頑強な造りで物理的に自分達を守ってくれている船の方を信じて、機を伺い続けた。とても明日など見えない視界の悪さを、しかし突如、不可解な『光』が打ち払った。海から瞬刻溢れたその眩さが失せた直後、船団を捕らえていた怪物の触手が軒並み緩んだのに気づいた彼は、ここが生死の潮目、と即刻怒号を飛ばして水夫達を奮い立たせた。そうしてペレスの指揮の元、波風を割り、触手を振り切って、彼等は九死に一生を得た訳だが――。
 ――あの状況で、私はどうやって陸のある方角を知り得た……?
 自分の乗る船を先頭にして、ペレスは全船を誘導した。指示する方角に陸地があるという、確信を持って。なのにその確信をどこから得たのかは、やはり非科学的現象を否定する頭が邪魔をして、思い出せない。
 ふと、先刻のアブトゥの言葉が頭を掠める。
 ――お前達の船を、陸へ導いた者だ。
 同時に、かつん、と足元で音がした。見るとそこには貝殻とも鱗ともつかない、半透明の小さな欠片が落ちている。それは水夫達と先の話をした船で拾ったもので、収めていたはずの上着のポケットに手を入れると、遭難生活でくたびれたのはお前だけではないと言わんばかりの穴が空いていた。
 もう一度拾い上げ、改めて観察する。見る角度によって色彩を変える様から、空にかざすと色の変化で方角が分かると言われる鉱石があるのを思い出す。だがこの欠片から受ける印象は、石、ではなく、本来形を持たない『光』そのもの。まさか本当に『あの日の不可解な光』の残渣であるとは知らずに、ペレスは移ろう心を思わせる輝きに目を細めた。あの日、船上で例の光を目にしたのはペレスだけ。水夫達は全員目を固く閉じ、神に祈り続けていたからだ。そうしてペレスは奇しくも神秘を信じないが故に神秘に遭遇し、導く『光の元』であり後に呼ぶ『声の主』となる者を認知する事で、向こうからも認知されてしまったのである。
 その者を怒らせた原因は、実はペレスが欠片を拾い上げた時にあった。彼は雇われ提督として貿易商との関わりが長くなってきたせいか、世界各地の調査で新たな産物を発見すると、商業の分野には興味ないながらも価値や生産量、加工の可否などについて考察するようになっていた。未知のものはとりあえず収拾してしまう学者の性で持ち帰ったその欠片についても、加工したら良い装飾品が出来るかもしれない、と思い――。
 ――出来るなら今回助けられたアブトゥへの、礼の品に。
 何気なくそう考えてしまった事がよもや命に関わる災いに繋がろうとは、ペレスに予測できるはずもなく。何と呼ぶべきか見つからなかった『声の主』の感情がよもや自分への『嫉妬』だったとは、アブトゥに分かるはずもなく。
 真相は海の中。もはや誰が知る由もない。
 ――礼なら、私よりも先にお前達の命を救った『声の主』に言うべきだ。一度救ったはずのお前を、今度は奪おうとするまでの怒りを買ったのは、間違いないのだから。
「……そう、かもしれないな」
 理屈を伴わない理解。随分と遅い返事が、空に放られた。
 体は形を成さず、心は形を成す、底知れない海の、得体の知れない存在。そんな相手に対し、彼は礼に代えて欠片を一度強く握り締める。そして今だけと合理性も論理性も一緒に、それを遠くの海へ投げた。欠片は海面で音もなく弾け、照り返す温かな光へと溶けていった。
 
 
 声/終 (初掲載:2017/04/09)     ちょっとした続き→「定めのままに近づきて」



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