忘却の森
ここは深い底。二度と表の世界に通じる事のない、閉じた場所。
彼は今、私の懐で永い眠りについています。
その安らかさを守るため、私は子守唄ほどのささやかな声をもって、彼がここに眠る訳を、お話したいと思います。
人は何度でも、同じ過ちを繰り返します。
悲しいかな、忘れるように出来ている生き物は『過ちの忘却』に傷を癒され、背を押されして先へ進んでは、『忘却の過ち』にその行く先を絶たれて、再び傷を負うのです。
この世界でお決まりの戯曲でもあるかのように繰り返される、喜劇ともとれる悲劇。忘却の淵から津波のごとく寄せた大過による幾度目かの廃退と復興の中で、人はこれまでに築いてきた文明の粋をかき集め、『ウタウタイ』という機械仕掛けの人形達を、創り上げました。
先に話しました通り、人は忘れる生き物。増え続ける記憶と時間に希釈されていき、手に入れて久しく、ある事が当然になったものに対してそのありがたみも、失くした際の痛みも、忘れてしまうのです。
人に備わったそれの全てを否定するわけではありませんが、ただ、それに起因してもたらされる残酷な結果に限っては、人の咎と言わざるを得ません。
失ってから思い知る。そんな愚行をいつまでも繰り返さないためにと、人は、平和や、愛や、自由への思いと願いを込めた歌を、たくさん作りました。
単純にそれらの歌をこの世から絶やさぬようにするだけなら、歌を録音したものと再生機器さえあれば十分です。しかし人というものは、自分に似た姿や性質を持つものにほど親しみをわかせ、心動かす傾向にあります。箱の形をした再生機器から淡白に流れ続ける歌よりも、人の姿をした者が目の前で歌ってみせる歌の方が一層、人の胸に響きやすい。そのように考えられ、歌の媒体として創られたのが本物と見紛うほど精巧に人の姿と声を模した、ウタウタイ達です。
そうして新たな時代、彼等は歌い伝えるという人為的な宿命のままに、人の寿命が遥か及ばぬ時を渡り、諸所の遍歴を続ける事となりました。
人から親しみを持たれるようにと作られたものですから、彼等1体1体には識別番号の他に、固有の名も与えられています。
今私の元に眠る彼においては、『KAITO』という名が、与えられていました。
KAITOもウタウタイとして、随分と長い年月をずっと独りで歩んでいました。他のウタウタイ達の事については、知る術を持たないので分かりません。ただこのKAITOというウタウタイに限っては、遍歴の半ばで、ある理由から自身を『不良品』と認識していた事を、私は知っています。
機械仕掛けの彼の身体は全て、無機物で構成されています。彼は本来、命なき『物』でした。しかし実に奇妙な事に、物にも人の概念でいう『魂』が、宿る場合があります。特に目を持つもの、人や生き物の形を写されたものほど、その器となりやすいのです。
外界を内に取り込む目の器官、及び人型を有したKAITOも、いつしかその身に魂を宿すものとなっていました。
その魂が司る『心』の存在を自覚した彼は、それこそを指して自身を不良品、と称したのです。
明確な目的を埋め込まれた機械は、その目的のみを動機にし、常に忠実でなくてはなりません。それは不確定な要素を一切持たないからこそ遂行できる事であり、機械として世に出された彼にとって心という不確定極まりないものは、あるまじき欠陥としか捉えられなかったのでしょう。
KAITOのその心はまず、人に託され自らが歌い続けている『歌』に向きました。
これまでに無数の人の胸を打ち震わせてきた、それらの歌に込められた意味をKAITOは知りません。彼は訪れた土地土地で稀にできる、特に親しく接するに至った『友』と呼べる人に、度々その意味を尋ねました。
返ってきた言葉の羅列は初めのうち、彼の中で意味を成しませんでした。それらをようやく彼に理解させたのは、膨大な時間と経験です。
一度去り、時を経て再び同じ町へ帰ってきた時にはもう、その町は繁栄または衰退によりまるで過去の面影を失っている。
それを積み重ねて、彼は『平和』の意味とともに『喪失』を知りました。
一度別れ、時を経て再び友の元を訪れた時にはもう、その友の寿命はとうに尽きて居なくなっている。
それを積み重ねて、彼は『愛』の意味とともに『孤独』を知りました。
そして最後には『自由』の意味とともに『拘束』を、知るに至りました。
有限の時間は命あるものを縛りますが、最期にはそれを解放します。
無限に近い時間を与えられた、命なき彼は一見、時間の拘束を受けない自由な存在に思われます。しかし喪失を、孤独を知ってしまった彼にとって、それらとの直面を無限に繰り返さなければならない時間の中は、もはや牢獄でしかありませんでした。
KAITOは自身の在り方に、迷いを抱きました。
機械に徹する事が出来ず、人としての解放を得る事も出来ないまま、これまでに巡り巡った地を、記憶を遡りながらまた辿った末、彼がその姿を隠すように身を置いたのは、とある廃墟の村でした。
以前に訪れた際、彼はその村で一人の愛くるしい少女と知り合っています。しかし経過した歳月を考えて、かつて失ってきた数多の友と同様、そこでその少女と生きて再会できるはずはありませんでした。
樹林を切り拓いて築かれたその村は、瓦礫の下に根を巡らせ、砂塵の中に草木を芽吹かせて、人知れず元あった姿へ還ろうとしています。
その只中でKAITOはあるものを見つけて、それについての記憶を、呼び覚ましました。
彼の眼前にあったのは、オークの大木。少女と知り会うきっかけになった木です。
当時は丈こそ人より高くありましたが、まだ幹も枝も細く頼りない若木でした。その根元に座って歌っていた時、そこへ遊びに来た少女から木の実拾いを手伝ってほしいと無邪気にせがまれ、彼は見よう見まねで――少女のかがんだ格好や落ち葉をかき分ける仕草までそっくりにまねて計らず村人達の笑いを買ってしまいながら、木の実拾いを、手伝ったのです。
晩秋の空。雲間に声を響かせて、鳥達が日暮れを連れてきます。
KAITOはひとつだけ拾い上げた小さな木の実を手にひとしきり回想にふけった後、今や大人の両腕でも到底抱え込めない太さに育ったオークの木の幹に背を預けて、あの日と同じように腰を下ろしました。寄り添う宵闇がそっと聴かせたのは、今はなきその村に溢れていた、子ども達の声。
――彼はやがて、歌い始めました。
その身の内にある魂を、歌に変え全て吐き出してしまおうとするかのように。歌の内容はこれまでと一字一句違えないものでしたが、その歌声はこれまでにない、まさしく魂のこもるものへと、変わっていました。
誰も居ない土地で歌はただひたすら、彼の記憶に留まるもの達へと宛てられていました。
それから、KAITOがその場所を動く事はありませんでした。
いっそ人のように忘れていく事が出来たなら、彼はこれほどまで苦しみ続ける事もなかったでしょう。
平和を知っても、変わらぬ郷は常になく。
愛を知っても、愛する人は既になく。
何もかもが自分を置き去っていき、喪失と孤独が膨らみ続けるばかりの、時の牢獄から解放される事も叶わないまま。
どれほど季節が過ぎようとも、どれほど時代が移ろうとも、座り込んで以降、KAITOは一度として歌を止ませませんでした。握り締めていた木の実はとうに朽ちて土くれのようになり、指の間から零れ落ちていました。
魂を吐き出し、機械として無心になろうとすればするほど、誰に届く事もないその歌は、皮肉にもますます機械が放っているとは思えない、血の通ったものとなっていきます。
ウタウタイの製造元は、位置決定システムを用いて常に彼等の所在地を把握しているはずでした。一箇所に一定期間以上留まり続ければ何らかの障害発生を疑われて、探しに来る者があってもおかしくありません。しかし一向に、誰かがKAITOを探しに来る様子はありませんでした。
情報の引き継ぎを幾度となく繰り返す中、目まぐるしく移り変わる時代の流れにそそがれてしまった、彼に関する記録。
忘却に起因してもたらされる残酷な結果に限っては、やはり人の咎と言わざるを得ません――。
――更に幾星霜。
村であった場所はそこに人の営みなど初めからなかったかのごとく、すっかり森に沈みました。
風雨や露や土埃に延々晒され、彼の身体は随分と汚れてしまいましたが、それでも壊れる様子はなく彼は尚、歌い続けています。
頬に刻まれた幾重もの雨筋は、嘆く事の出来ない彼の涙に代わり、その悲しみを表しているようでした。
平和の歌、愛の歌、自由の歌。人を思い幸せを願う意味が込められたそれらを歌い伝える事で、彼はここへ着くまでに十分過ぎるほど、世の人々に尽くしたはずです。
ではその彼を思い、幸せを願って報いる者は、一体どこにあるというのでしょうか――?
生い茂る草の葉や蔓が彼を慕うようにその身を覆う中、『私』もまた、土からせり出した根と、幹についたヤドリギの枝で、少しずつ彼を抱き込んでいきました。
――もう歌わずとも良いのです、もう歌わずとも良いのです――。
彼の歌によって彼の魂を吹き込まれた私は、ただその一心でした。
特異な材質の身体も途方のない月日の放置を受けてさすがに劣化が進み、表層が萎縮して、いたる箇所にひび割れが走るようになりました。裂傷のように痛々しいそこここから、絡んだ蔓が、枝が、時をかけて静かに侵食していきます。
――ええ、ええ。ここの者達は皆知っています。貴方が『生』きていたことを。
どうか私達とともに、唯々、安らかなる時を――。
そうしてそれらはやがて、彼の全機能を停止させるに、至ったのです。
***
その眠りを包むのは、やわい絹の静寂。
忘れられたものが最後に行き着く先は、『無』なのでしょう。しかし彼が無に呑まれる事はありません。
彼はかつて、人のための思いと願いが込められた歌を伝える、ウタウタイでした。
その歌から彼の魂を受け継いだ森は今、歌に込められたその思いと願いの全てを、彼に捧げ続けています。
ここは深い底。二度と表の世界に通じる事のない、閉じた場所。
優しい歌だけを伝え残し、人の世と記憶から沈んだ『KAITO』という名を持つウタウタイの眠りを永劫守る、忘却の森。
忘却の森/終 (初掲載:2009/04/01)
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