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   冬 〜分岐駅〜


 いつもの駅。定時刻に来る、同じ電車。似たような面子の人混みにもまれ、変化に乏しい景色を眺めながら、決まった駅で降りて、見飽きた建物に向かって、今日も、歩いて行かなければならない――。

 田舎だが、急行電車の止まるやや規模の大きな駅。乗り換えによく利用され、各学校、各会社に向かう人々の進路を分岐している。
 毎日毎日、無数の足が刹那の交差を繰り返し続ける、ここはそんなどこにでもある駅のひとつだ。
 この駅が始発であるローカル電車に乗るために、高校生の直哉は学生鞄を脇に挟み、四番ホーム側に向かって立ち、電車が入ってくるのを待っていた。
 季節は冬。身を切るような寒風を遮るものがない駅のホームで、ただ突っ立って電車を待つというのは辛い。四番ホーム側に集まった同じ学校の生徒達は、マフラーや手袋を身に着けて、白い息を吐きながらくだらない会話に笑顔を見せている。
 平穏な日常という、当たり前のものに妙に冷めてしまったのは、いつからだろう。
 くだらない。つまらない。
 顔で笑っていても、心のどこかでそう呟いてしまう自分にさえも、直哉は嫌気がさし始めていた。
 皆は、そうではないのか……。
 この駅に立ち一人で電車を待っている時、彼は大勢の人間の往来の合間でどうしようもない孤独感に襲われる時があった。
 だからといって、誰かと一緒にいればそれがなくなるわけではなかった。むしろ逆効果であるとさえ思い、いつしか直哉は登校するのは一人で、と決めていた。
 今日もまた同じような思考に囚われている、そんな彼の目にふと止まった、一人の女子高生がいた。クラスメイトの高原夕菜だ。しかし何故か彼女は、学校とは逆方面の三番ホーム側に向かって立っている。
 ただそれだけなら、特に気にすることもなかっただろう。何故彼の目を引いたか。それは彼女が、この寒い中、白い半袖という夏服を着ていたからだった。
 二人共、ホームの中央辺りでそれぞれのホームに身体を向けているが、直哉は右に見える彼女の様子が気になっていた。
 真っ直ぐ前を見据えたその横顔から見うけられる表情は、どこか思い詰めているように思えた。
 もうすぐ、三番ホームには駅を通過する特急電車が入ってくる。
 ご注意ください、とアナウンス。
 まさか……。
 嫌な予感が膨らむ。警笛と共に、特急電車の音が迫ってくる。
 彼女の足が前へ進み始めるより先に、直哉の足は彼女へ向かって動き出していた。
 前に向かって、駆ける夕菜――。
 スピードに乗ったままホームに進入した電車。
 轟音、吹き抜ける風――。
 それはあっという間に、走り去っていった。
 直哉は夕菜の手首を掴んでいた。夕菜はその彼を、驚いた顔で見ている。
「何やってんだよ、ばか!」
 怒鳴られても、夕菜は呆然とした様子で反応が薄い。
「……私……を、助けて、くれた……?」
「助けてくれたって……自分で飛び込もうとしたんだろ?」
 直哉は怪訝な顔をしながら言った後、はっと周囲を見回した。もしかして、自分はこんな人混みで思い切り目立つ行動をとってしまったのではないかと。
 しかし誰も彼等を見ていなかった。今の時期に夏服など来た、目立つ夕菜が電車に飛び込もうとした事や、直哉が大声で怒鳴った事に、誰も気づいていないというのだろうか。通勤通学ラッシュで、こんなにも人がいるのに……?
 不思議に思いながらも、しかしほっとした直哉は掴んでいた彼女の手首を離した。
 すると今度は彼女の方からその手を握ってきた。
「あの……ありがとう。ごめん……しばらく手、繋いでいいかな……」
 彼女は俯いて小さく言った。震える手で握られ、直哉はどうにも断りようがなくなる。
「あ……ああ……」
 何か握られた彼女の手に、違和感。しかし手がややかじかんでいたのに加え少し動揺していた事もあって、彼はそれには大して気を留めず、付き合っているわけでもない彼女と手を繋いでいるところを他のクラスメイトなどに見られて、誤解されやしないかという事ばかり考えていた。
 やがて四番ホームに電車が入ってくると、直哉達はなだれ込む生徒の波について、夕菜と手を繋いだままそれに乗り込んだ。
 人が多いのに車両は三両しかなく、座席にはいつも座れない。扉際の少し広い場所もすぐに埋まり、彼等は座席と座席との間の通路、しかも吊り革も持てない中央という、中途半端な場所に立った。
 すぐに扉が閉まり、電車は動き出す。この時間のこの電車は、直哉達の学校の生徒達でいつも殆ど貸しきり状態だ。
 彼女は、ずっと俯いたままだった。直哉から話しかける事もせず、混み合った車内のざわめきの中、二人はただ黙って揺られていた。
 直哉達の高校は、二駅目。八分きっかりで到着する。
 その八分がいつもより長く感じるのは、今日の状況がいつもとは違っているからだろうか……。直哉はぼんやり、考えていた。

 目的の駅に、到着する。
 乗り込んだ時よりは活気なく、生徒達がぞろぞろと降りていく。
 人が減ってようやく動きが取りやすくなり、直哉も降りようと一歩踏み出す。
 が――。
 手を繋いだ夕菜が、その場を動こうとしない。
「おい、着いたぞ。早く降りねーと……」
 彼女は窓の外を流れ行く生徒達を見ながら、言った。
「私は、もうここで降りてはいけないの」
 直哉には夕菜の言っている事の意味がさっぱりわからなかったが、彼女の表情は真剣そのものだった。
 次々に降りていく、生徒達。
 誰も、彼等を見ない。まるで誰の目にも映っていないかのように。
 何かが、おかしい――。
 その異様さに、直哉は戸惑った。
 彼女の手を振り払って一人電車を降りる事も、やろうと思えばできたのかもしれない。でも彼は、それをしなかった。彼女に対して、嫌悪感のようなものが一切なかったからだ。そうするのがためらわれたし、してはいけないような……そんな気さえもした。
 他の生徒達が全て降り、扉が閉まっていく。
 直哉達だけを残し、急にがらんとした、車内の空間。
 電車が再び、ゆっくりと動き出す。
 呆然と、後方に流れゆく駅を見る直哉の中に、枷がひとつ外されたような、そんな感覚が静かに起こった。
 彼には、ちょっとした憧れのように何度も思っていた事があった。
 この時間のこの電車、この駅で降りるという毎日の決まり事から、一度外れて――。その先の駅まで、乗って行ってみたいと。
 そんな、小さな願い。
 しかし同時に、それをしてしまったら、そのまま戻れなくなってしまうような、恐れに似た気持ちもあった。
「座らない?」
 不意に彼女が、直哉に言った。
 彼女は直哉に、はじめて微笑みを見せた。そして彼から握っていた手を離すと、座席に座った。直哉を見上げて、自分の横のシートをぽんぽんと叩いて彼を促す。
 直哉は言われるがままに、彼女の横に座った。そして、また奇妙な沈黙が流れる。
 直哉は調子が狂い、うまく回らなくなっている頭の中で、この掴みどころのない行動ばかり取る彼女の事を、考えようとして――。その時、初めて気づいた。
 彼女は確かに、高原夕菜という名のクラスメイトだ。それは、わかる。しかし彼女がどんな生徒で、学校でどんな風に過ごしていたのか――。まるで、覚えがないのだ。
 例えどんなに目立たない生徒だったとしでも、目立たない、という事くらい印象として残るはずだ。彼女の場合は、それが全く、何もない。活発なのか、おとなしいのか? 仲の良い友達は? 勉強はできる方か? クラスの中で、どんな存在だった……?
 直哉は夕菜を見た。彼女は直哉に、静かに笑いかけている。
 直哉は彼女に何か話しかけようとするが、しかし言葉がつかえてうまく出せない。
 次の駅までは、三分程だった。ほどなくして着いたそこは、小さな無人駅。
 夕菜は立ち上がり、降りましょう、と言った。開く扉に向かっていく彼女に引かれるように、直哉も立ち上がって電車を降りた。
 屋根のない、幅の狭いホーム。その中央には、少し足の錆びたベンチが設置されている。
 夕菜は電車から降りてすぐ前にあったそのベンチに腰掛けた。直哉も、その横に座る。
「……びっくりしているでしょう」
 夕菜が言った。それに緩い金縛りを解かれたように、直哉はやっと、自分の口を開く事ができた。
「君は……どうしてしまったんだ。俺と……同じクラスの生徒だよな?」
 夕菜は顔を前に向けて彼を見ぬまま、静かに話し始めた。
「私……夏の日の、あの時間に……。三番ホームから、特急電車に飛び込んだの」
 直哉は驚く。そして同時に、おかしいと思った。
 自分のクラスメイトが電車に飛び込んだなどという話には、全く覚えがない。クラスメイトでなくても、ラッシュ時にそんな事故があったなら結構大きなニュースになりそうなものだが、それも見聞きした覚えがなかった。
 それに本当に特急電車に飛び込んだとしたなら、今ここにいる彼女は、一体何だというのか――。
 直哉が見つめる中、彼女は続けた。
「私は、そこで死んでいるはずだった。なのに、次の日も、また次の日も……。気づけば、私は三番ホームに向かって立っていた。そして毎日繰り返し、同じ気持ちで……特急電車に、飛び込んでいたのね。自分でも、わかっていなかったけど……」
 夕菜は顔を上げて、直哉を見た。
「私は、生でも死でもない場所に、落ちてしまったのよ。そして今日、あなたはその無限のループから、私を助け出してくれた」
 そして、寂しげに笑った。
「こんな事になったのは、贅沢を言って、命を粗末にしようとして……。ばちが当たったのね、きっと」
 直哉は、にわかには信じられない話に唖然としながらも、気づけば真面目に尋ねていた。
「どうして……電車に飛び込んで、死のうとしたんだ」
「同じ、繰り返しの毎日から……変わりたかったんだと思う。決まった時刻に走り抜ける、あの電車に……身を投げる事で」
 彼女は再び顔を前に向けて、伏せ目がちに答えた。
「この先、高校を卒業して、大学に入ったとしても、OLになったとしても、結婚して、家庭に入ったとしても……。必ず、そこには飽き飽きした繰り返しの日々が待っている。人生をかけられる程のやりたい事もない、ただ時計の針と一緒にぐるぐる回されて、毎日が終わっていくような……そんな行く先に対する、漠然とした、でも大きな不満と不安……。弱い私は、それに呑まれてしまった」
 夕菜は、そこまで聞いて閉口してしまった直哉に、問いかけた。
「私が見えたって事は、あなたも……私と近い場所に、いるんじゃないかな」
 直哉は考えた。
 自分が、先の駅へ行ってみたいと思っていたのと、彼女が、電車へ飛び込んだのと……。何が違う?
 元を辿れば、同じ感情に起因するではないか。
 自分と彼女は、何ら変わりない――。
 この不思議な存在の彼女は、自分と同じものを抱え、そしてそれに、全てを奪われてしまったのだ。
 直哉は、何も言えなかった。そんな彼女を、目の前にして――。
 しばらく、そのまま黙り込む二人。灰色の上空で唸ってから吹き下ろす風は、直哉の心も直接叩きつけていくかのようだった
 遠くから、電車の音が近付いてきた。自分達の来た方面の線路上に、電車の陰が見える。鈍い黒色の車体。この路線では普段見かける事のないものだった。
 減速しながらゆっくりと迫り、それはブレーキ音を響かせてホームで停車した。行き先がどこにも表示されていない、車体番号もない電車。扉が開けられる。
 夕菜は膝に置かれた直哉の手に、そっと触れた。その彼女の手は、温かいとも、冷たいともとれず――。それは、もう彼女が生きた人間ではない事を示していた。
 彼女は立ち上がり、その電車へ向かって歩き出す。そして乗り込むと、扉口でくるりとこちらに身体を向けた。直哉は立ち上がって、その場から彼女を見続けた。
「私――前に聞いてピンとこなかった事の意味が、ようやくわかったの。幸せって、なるものじゃなくて気づくものだって。今思えば、巡り続ける日常の中に、それはいくらでもあったはずなのに……。遅いよね、今更。私は、一体何が欲しかったんだろう……」
 駅のすぐ横の踏み切りの、警報機の音がけたたましく鳴り出す。今度は逆方向から、見慣れた電車が近付いてきていた。
「できれば、あなたには私のいる側に来て欲しくない。私は……後悔しているから」
 夕菜は直哉の目をじっと見据えていた。二人の間を、頬を裂くような冷たい風が吹き抜ける。
 ブレーキ音。反対側のホームに緩やかに滑り込み、停車する電車。
「でも生きる上で、選ぶ自由はあると思うの。それが、生でも、死でも……」
 扉が、開かれる。
「あなたは……どっちの電車に乗る……?」
 直哉は、泣いていた。
 夕菜はもう、戻れないところにいる。彼女の、後悔。自責。そしてそこから生まれた――最後の、思いやり。
 直哉は涙を隠すように俯き、夕菜に背を向け、後から入ってきた電車の方へと足を運んだ。
 扉口で振り返り、彼女を見る。
 とても優しい眼差しを彼に向けて、彼女は笑っていた。
 互いの電車の扉が、閉まる。そして同時に、動き出した。左右逆方向にずれ、次第に離れていく、二人の距離。
 平穏の中にあっては、当たり前にやって来る代わり映えのしない明日に対し、差異はあれ、誰しも失望に似たおごりを抱く事があるだろう。
 その中で、確かに在るはずの自分を、振るい落とされ見失ってしまうのか、それとも離さずに持ち続ける事ができるのか――。
 それが、分岐点。
 夕菜は、小さく手を振っていた。
 直哉は、その彼女を乗せた電車が遠く見えなくなるまで、見届けていた。


 分岐駅/終



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