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   三途の川原にて


 見渡せない程だだっ広い紙をもらって、好きなものを自由に描いていいよと言われても、多分何を描いてよいかわからず困ってしまう。
 小さく四角く切り取られた紙をもらって、これに納まるような絵を描きなさいと言われた方が、きっと描くもののイメージが膨らみやすい。
 自由を持て余すというのは、こういう事じゃないだろうか。


 生前の知識によると、あの世へは三途の川とやらを渡ると行けるらしい。
 虚無感に支配され、睡眠薬を使って自殺を図った俺は、気づけば霧がかかって向こう岸の見えない、大きな川を臨んで立っていた。
 しかし、どこにも橋や渡し舟は見当たらない。ここは一体どうしたら渡れるのだろうと考えていた時、不意に後ろから声をかけてくる奴がいた。
「自殺しちまったのか」
 振り向くと、そこによれよれの黒い衣を着た青年がいた。
「お前……誰だ」
「俺? 俺はまあ、あれだ……。あの世から雇われた、アルバイトってとこかな」
 俺は呆気にとられた。
「……アルバイト? あの世で、アルバイトなんかする必要があるのかよ」
「ああ。あの世なんて、ろくなもんじゃねえぞ。だから、さっさと帰れ」
「……は?」
 青年はその場によっこらせと腰を下ろし、あぐらをかきながら話した。
「最近くだらねえ理由で自殺する奴がやたら多くてよ……。あの世が忙しくなっちまって処理が追いつかねえってんで、追い返せる奴はこの川を渡る前に追い返せって言われてんだ」
 言っている事が何だかよくわからないが、追い返す、という言葉に驚いて、俺は思わず叫んだ。
「冗談じゃない、俺はもう死んでんだぞ!?」
「いいや、まだ死んでないね。お前は生死の狭間にいる状態だ。ここからなら、どちらにでも行ける……」
 言いながら、青年はどこか遠くを見やるような目をした。
「じゃあ、ここまで来たんだ。俺は死ぬ方を選ぶ」
 鼻息を荒げた俺をなだめるように、青年は言う。
「まあ、そう急くなって。向こうの、何がそんなに気にいらない?」
「何が気に入らないのかもわからないところが、気に入らないんだよ」
 あー……そう……。と、青年は呆れ気味に言葉をもらした。小指で耳の穴をかきながら、俺をじっと見据える。
「……とりあえず、耳、澄ましてみろよ。お前を呼ぶ声が聴こえるだろ?」
 ……声?
 俺は言われたとおり、耳を澄ましてみた。
 ……遠くからかすかに聴こえてくるのは……。よく知る者達の、必死な声。俺を、呼び戻そうとしている――。
「向こうに残された奴らが、待ってるんだよ。だから帰ってやれ」
 俺は、思わず両耳を塞いでしまった。
「……もう、関係ない。向こうに戻ったって、俺は親にも友人達にも……何も、できない。何も返せない。俺は、居ないほうがいい」
 俺は人の期待に応えられる人間じゃない。だから死んだのに。何故、あいつらは俺を呼び戻そうとするんだ……?
 うつむいてそこにうずくまった俺を見ながら、青年はすくりと立ち上がった。そして今までとはうって変わった強い口調で言い放った。
「甘ったれんなよ。言っとくが、俺はお前に優しくねえからな。できないとやらない、が違う事くらい、教わってきたろ? やる前から自分を捨ててんじゃねーよ」
 耳を塞いだ状態でもはっきりと聴こえてくる……まるで自分の中に直接響いてくるような、青年の声。それに対し、俺はだんまりを決め込む。
「ほんとは、全部わかってんだろ?」
 ――人は、厳しく制限される中で初めて自分の強い意志を持てるものだと思った。
 何をしたら良いかわからず、でも手を抜いたってどうとでも生きていける時代。
 駄目な自分を作り上げたのは、そんな今の世の中のせい。
 恥ずかしげもなく堂々と、「俺を甘やかして、打たれ弱く育てた大人達が悪い」、そう考えた。
 壮大な甘え。
 ……わかっている。わかっている何もかも……。
「……。お前、親にも殴られた事ないって顔してんな」
 青年が歩み寄る。
「向こうには、お前にそんな事する奴はいねえってか……。じゃあ、俺が代わりにやってやるよ」
 彼は俺のすぐ前に片膝をついた。ゆっくりと顔を上げた俺の、その頬に飛んできたのは、強烈な平手打ち。
 衝撃と共に、一気に目の前が真っ暗になった――。

 目を開けると、そこは病院のベッドだった。
 いろんな奴が俺を囲んで、目を覚ました俺に喜んでいる様子だった。俺はしばらく、それをただぼんやりと眺めていた。
 左の頬が、心なしかジンジンと痛んでいた。

 霧にかすんだ川の向こうから、ひとつの木の小船がやって来た。それには渡し守りの他に、黒装束の男が一人、乗っている。
 岸に着くと、青年はその船の元へと歩いていった。乗っている男が、彼に声をかける。
「……計二十人、達成したな。ご苦労だった。これで、君は晴れてあの世に行けるわけだ」
「ああ、長かったな……。しかし自殺した奴を使って、自殺した奴を追い返させるたぁ……。俺こっ恥ずかしくて、たまんなかったよ」
 青年は乗り込みながらそう答えた。
「そうして自分の罪の重さと向き合い続ける事で、お前は許されたんだ。こちらとしても助かったし、一石二鳥だろう?」
 青年が座ったのを確認し、渡し守りが手にした棹を動かして船を出す。
 青年はフッと笑みを浮かべ、船の縁に片肘をかけながら、呟いた。
「……やっぱり、あの世なんてろくなもんじゃねえや」


 三途の川原にて/終 (掲載:2005/08/26)



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