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   モノクローム・ラジオ


 俺の心は、麻痺して二つに割れてしまったらしい。多重人格、とまで表現してしまうと大げさだが、要するに自身の中に『自分』を二人、感じるのだ。
 巡る日常をこれまで通りそつなく、そして淡々と過ごしている、妙に冷静な俺と。
 そんな自分を、色も味も香りもない世界から呆けたように見ている、離人症めいた俺と。

 ――またね。

 駅のホーム、閉まったドアのガラス越し。そう唇を動かして、詩織は電車の中から笑顔で手を振った。
 それが、俺が見た彼女の、最後の姿。
 その夜、詩織は自宅近くの路上で交通事故に遭い――死んでしまった。

 その日は二人で買い物に出かけ、晩飯を駅前の洋食屋でとった。帰りが遅い時間となってしまったのに加えて少し酒を入れた事もあり、俺はタクシーを拾って彼女を家まで送っていこうとしたのだが、それに対し彼女は首を横に振った。タクシー代がもったいないし一人で帰れるから大丈夫、と。

 ――もうじき結婚するんだもの。将来に備えて、これから倹約していかないとね。

 あの時、自分が彼女を引き止めていたら。
 心配だから、大事だからと、彼女を離さずにさえいれば――。
 そんな無益な過去への仮定は、後悔の念が強いほど、繰り返し思わずにはいられないものだ。
 そうした重すぎる負荷から自己を防衛しようとした結果、俺はいつの間にか自分で『自分』を、両極端な形に二分してしまったのだろう。
 詩織が生きていようがいまいが無関係に、容赦なく訪れては去っていくその毎日をただなぞるためだけの、機械的な外側の俺と。
 そちらから隔離した負の念が集積し、現実感の損なわれてしまったモノクロ世界でぽつねんと膝を抱えるだけの、虚脱した内側の俺とに。


   ***


 眠つけない夜、俺はいつも部屋の隅に置いたミニコンポで適当な音楽CDをかける。何かしら外部から感覚に訴えかけてくるものがあった方が、暗い想念にとらわれにくくなるからだ。
 だが最近、どうもそのミニコンポのディスク再生動作があやしく、度々エラーを起こすようになっていた。中古のものであるし、読み取りレンズに寿命がきているのかもしれない。そう思いつつも、しかし新しいものに買い換えるような気力が湧く事はなくそのまま数ヶ月間放置していたところ。
 ……今日、とうとう本格的に壊れたようで、全く再生されなくなってしまった。ベッドで横になったままリモコンで何度も再生ボタンを押してみるが、ディスクが空回りするばかりで音楽は流れない。
 俺はため息をついて、リモコンを持つ手を下ろした。
 ミニコンポの小さな液晶画面の明かりだけがともる、闇の中。――無音。
 押し迫る虚無を埋めようとするかのように、心が、ざわつき始める。察した俺はそれを回避しようと再びリモコンをミニコンポに向け、とっさにその機能をCDからラジオに切り替えた。
 スピーカーから、クリアな音で軽い洋楽ポップスが流れ始める。周波数はFMの地方番組に合わせられていた。
 そういえば、ラジオなんてもう十年以上まともに聴く事がなかった。このミニコンポでラジオをかけるのも、購入した際に機能の確認をして以来。だから今かかっているFMチャンネルは、当時合わせてそのままになっていたものだ。
 学生時代には、勉強のお供によくラジオをかけていた。テレビは視覚的にうるさく勉強の妨げになりがちだが、ラジオにはそれがない。耳からのみ入ってくる情報は適度に聞き流す事ができ、また適度に寂しさを払ってくれもするので自分の性に合っていると感じていた。
 その頃の事を何となく思い出しながらしばらくぼんやりとFMラジオを聴いていた俺は、だがふと思う。今の自分にはFMラジオよりも、AMラジオの方が合っているかもしれないと。
 以前ラジオを聴いていた頃は音のきれいなFMを好んでいたが、今はFMのシャープなステレオサウンドよりも、AMのまるいモノラルサウンドの方が優しく感じられて良いような気がしたのだ。
 ラジオをFMからAMに切り替えてみると、AMの方はチャンネルを合わせていなかったため音がふつりと途切れる。俺は適当に周波数をいじり、受信できる番組を探した。
 ほどなくして、中波特有のくぐもった音質で番組のオープニングかジングルらしきピアノのインストを捉える。少しほっとして手を止め、心をゆだねるようにそれに耳を傾けた。
 そしてその後に続いた、女性パーソナリティの声を聞いて――俺は、自分の耳を疑う事になる。
『――……こんばんは。音楽という追想のショートフィルムを映写する、【M‐シアター】。どうぞ貴方の心にあるスクリーンの幕を開いて、夜半のひとときを、ゆったりとお過ごしくださいませ』
 信じられない気持ちで横たえていた身体を起こす。やや雑音が混じっていて音の輪郭もぼやけているが、それでも感じたのだ。
 控えめに発せられる暖かみを含んだその声が、詩織のものにそっくりだと。

 番組はそのまま一曲目に移った。俺はベッドの上でしばし茫然としていたが、しっとりと包んでくるような曲にさざめいた心を鎮められ、俺は次第に平静を取り戻していく。ふっと自嘲がもれた。
 似通った声の人間くらい、いくらでもいるだろう。あまり良くないラジオの音質も手伝って、尚更錯覚しやすくなっているだけだ。
 彼女に近い声を持つ、別の人間。曲がフェードアウトするとBGMが入り、それにのせて再びそのパーソナリティが話し始める。
 詩織を想起させる声は、とても懐かしく、そして心地良く思えた。俺は再び横になり、静かにそれに浸る。
『――時を歩む上で巡り合うあまたの音楽達は、その折々の思い出を記録、再生してくれるフィルムのように思えます。この番組ではオーディエンスの方々の、大切な思い出が記録された曲のリクエストを受け付けております。その曲にまつわるお話を添えて、当番組までメールをお寄せください。メールアドレスは……――』
 読み上げられるメールアドレスを聞きながら、地味に時代の移り変わりを感じる。俺がラジオを聴いていた時分は、リクエスト方法の主流はハガキかファックスだった。電子メールが普及した今は携帯からでもパソコンからでも、手軽にリクエストを送る事ができるようになったんだなと。
「……思い出が記録された曲、か」
 最初のリクエストメールが読み上げられる中、俺は詩織が好きだった曲のひとつを思い浮かべる。
 フォークロック系を好む彼女がよく聴いていたのは、六十年代に活躍したとある海外アーティストの曲。彼女と居た時の事を思い返すと、車で遠出する際にはお決まりのようにかけていたCD、そのアーティストのベストアルバム曲も自然と伴われる。それに収録されている【Before daybreak】という曲が特に気に入っているのだと、彼女は助手席で嬉しそうに話したものだ。
 詩織が死んでしまってからは、車に乗ってもカーオーディオに入れっ放しにしている彼女のそのCDをかける気にはなれず、一度も聴いていない。変わらずにある音楽が、左隣の空虚をより増長してしまうような気を抱く自分のセンチメンタルさも、見ないようにしていた。
 でもこのパーソナリティの声に誘われ、俺は久しぶりに、それを聴きたい気持ちになる。
 ――曲にまつわるお話を添えて、当番組まで――。
 今リクエスト受け付けのアナウンスをしたからといって、これがリアルタイム放送であるとは限らない。冒頭で何も言わなかったから、多分録音された番組なのだろう。
 後日再び聴くかどうかもわからないこの番組に、しかしそれでもリクエストをしようと決めたのは、思い出のフィルムである曲と一緒に、その詩織との事、そして今の自分の事を、メールに込めて送りたいという思いにかられたからだ。採用などされなくて構わない。ただ一度、内に抱えたそれらをメールという形に簡潔にまとめて、送信できればそれで良かった。
 俺は枕の脇に置いてあった携帯を手に取り、先程聞いたメールアドレスを設定して文章を打ち込み始める。
 彼女との時間、共にあった音楽。
 自分の軽率さが招いてしまった彼女の死。
 割れた心。
 機械的な上辺、現実味のなくなった世界――。
 パーソナリティの声と彼女の声が似て聞こえたのがリクエストのきっかけになった事も付け加えて、送信ボタンを押す。文章に書き起こすという外部出力を初めて行った事で、俺は一時的に、気が楽になった。
 それに伴って、解放を得たようにゆるゆると眠気が訪れる。
 かけっ放しのまま眠るつもりで、俺は夢うつつにそのラジオを聴き続けていたのだが――。
『――……次のリクエストは、ラジオネーム【ブルーホース】さんからです』
 はっと目が冴える。
 まさか、と思った。そのラジオネームは自分の名前、蒼馬を英語にもじって、先程のリクエストメールに使ったものだったからだ。
 たまたま同じラジオネームの別のメールかとも思ったが、読まれたそれは、紛れものなく俺が送った内容。
 リアルタイム放送だったのか……。
 淡々とメールを読み終えたパーソナリティは、ふとそれを噛みしめるかのように、少しの間を取った。辛気臭い内容だから、コメントには困るかもしれない。そう考えていると、パーソナリティは静かに、自分の言葉を語り始めた。
『――私達のいる世界は、実際にはひとつなのかもしれませんが、その世界は心というフィルターを通した、間接的な形でのみ認知されるものだと思います。ですから色や音や感触など、あらゆるものの捉えられ方はきっと人によって違い、心の数だけ世界の姿があると言えるでしょう。貴方に私の声とフィアンセだった彼女の声が似て聞こえたのも、貴方の心が、その彼女に未だ大きく占められているからなのかもしれません』
 その通りなのだろう、と胸の内でうなずく。
 今俺の見ている世界は、日常の側から隔離してしまった内側の俺が認知しているもの。詩織を失った事に対する負の念に染まったフィルターは、世界をどこまでも無機なものにしている。
 採用されるとは思っていなかったのでそれに対するコメントにも特別期待を寄せる事はなく、俺は、後から考えてみれば奇妙なほどの平静さで、続く語りを聴いていた。ひとつひとつ言葉を選ぶようでもあるおっとりとしたテンポも、高すぎないトーンも、詩織と重なって感じられる。
『――失われた彼女を取り戻す事はできませんし、それゆえに、貴方の心から彼女を取り除く事もまた、難しいと思います。ですが……』

 ――貴方の中にいる彼女が
 貴方と、貴方の世界を褪せたものにしてしまう事は
 彼女の望むところではないと思うのです。
 割れてしまった心を元に戻す事ができるのは
 二人で過ごした頃の、他の何にも変えられない
 幾多の記憶ではないでしょうか。
 今、悲しみや後悔に深くうずもれて
 冷たくなっている大切なそれらを
 どうかもう一度その手に抱いて
 温めてあげてください
 当時の思い出を記録した曲を聴く事が
 傷ついた貴方の癒しとなりますように。
 そして貴方の中に在り続ける彼女が
 生気を失くした貴方の世界に
 再び息吹と色彩をもたらすものとなるよう
 心より願います――。

『――……それでは聴いてください。T.A.J.で、【Before daybreak】……――』
 音量の抑えられたドラムが、スローなビートを刻む。アコースティックギターのストローク伴奏にのせられる、男性デュオの穏やかなハーモニー。
 AMラジオで流されるその曲は、ざらついたローファイな音質により懐古的な雰囲気を包み含んで、彼女と刻んだ時を、滑らかに再生していく。
 ささいな事で笑い、ささいな事でけんかした。
 何気ない、至極当たり前な日々の幸福。
 詩織の死という現実を受け入れてしまう事になるのを恐れて避けていた、その優しすぎる過去達に触れて。
 気がつけば、俺はこれまで流す事のできなかった涙で、枕を湿らせていた。
 しばらくかかり続けた曲が余韻を残すようにフェードアウトすると、ラジオは放送終了の時間を迎えたのか、そのまま音を、途絶えさせた。


   ***


 次の休日、俺は特にあてを定めず車を走らせていた。
 詩織も俺もドライブに出かけるのが好きだったので、あの頃もよく、こうして時間の許す限り走り続けたものだ。
 車内を緩やかに満たすのは、彼女が残していった例のCDアルバムの曲。
 ラジオを聞いた後日、あの番組を放送していたAMのチャンネルは、何を受信する事もなかった。思い返して更に不思議に感じたのは、通常ラジオがその日の放送を終了する際に流す放送局や周波数などのアナウンスが、あった覚えのない事。
 そして、俺はそれに気づいた。
 番組宛てに送信したメールを何度見直してみても、文章のどこにもリクエスト曲のタイトルがないのだ。添える話を打ち込む事に気を取られ、肝心のそれを入れ忘れてしまったらしい。
 だが、あの番組では俺のメールを読み、俺がリクエストしようと思った曲を、かけていた――。
 カーオーディオのアルバムは数曲巡り、【Before daybreak】に移る。
 ぽっかりと空いた助手席は、やはり言いようのない悲哀を誘う。
 何らかの思い違いが生じているのか、それとも、全ては夢だったのか。あの夜の不確かな出来事を、しかし俺は突き詰めようとは思わなかった。
 内側と、外側と。完全に分かたれてしまった俺が一つに戻るまで、時間はかかるかもしれない。でもこの曲がいずれ両側の隔たりを埋めて、その距離を縮めていってくれるような――。パーソナリティの言葉が、そんな気持ちへと導いてくれたのは確かだ。
 それで、十分だったから。


モノクローム・ラジオ/終 (初掲載:2007/01/05)



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