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   或る旅人の手記4・残影   画像で表示


 衰弱している時は、すがるものを求めて追憶に溺れやすい。独りなら尚更。雇われ先の下宿でひどい熱に侵され、動けなくなった。底冷えのする部屋、ベッドには毛布が1枚きり。僕は家主が分けてくれた熱冷ましを飲み、そこに包まっているより他なかった。何が原因の熱か分からず、押し寄せる言いようのない不安に身体を縮こめる。土地に対しても人に対しても、ひととこに根を下ろす事はやめて久しく、未練はない気でいた。だのに混濁した意識は、ここぞとばかりに懐かしい光景や姿形の幻灯を見せる。その影が濃いほど、自分の内に灯る火が未だ強い事実を思い知らされた。
 同じように体調を崩した経験は以前にもある。違うのは、傍の温もりがない事。その心細さが、あの人の影をより具体的にした。彼女と共にあった頃、当時の僕はそれこそ熱病のような状態だった。しかしその心を面と向かって打ち明ける事はついぞなく、最後には、互いに別の道を選んだ。
『記憶』は血で、『過去』は流れ。どれほど胸を圧迫しようと、自らの手でその狂おしい心臓を握り潰す事ができないように、生きている限り自身を形成するそれらから逃れる事は叶わない。
 結局この度の熱は疲れのせいだったようで、3日の休息ですっかり引いた。ただ既往の病は潜伏し続け、僕は生涯それを抱えて歩むのだろうと思う。


歌詞集「ことのおと」 切愛の章より
Silent Xmas
Vermilion
紅の花
白い窓辺で
小夜の星紡ぎ



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