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   或る旅人の手記2・表裏   画像で表示


 空が青いのは、海の青を映しているから。傲慢にもそのように考えてしまうほど、『起源』としての海には魅力が濃縮している。船はその掌に命運を預けて進む。命は海からやって来たものであり、身の大半は水で成る。そこに染みついた心も、揺られて波を立てない訳がなかった。甲板で知り合った独り身の女性は、ひとしきり泣いて涙を潮に戻していた。
 航海中の晩、誰かが海に転落したとの噂が立つ。真相は定かでないが、表へ出て縁から見下ろした海は凝った闇そのもので、人が吸い込まれたとも、また自分が吸い込まれるとも錯覚させるだけの引力があった。内面に作用するその奇妙な重力場は、明るい時分のそれとは全く質を違える。魂を奮わすものから奪うものへと転じているのだ。黄泉は不安定な足元の、ほんの下にあるのだと、否応無しに実感させられた。今これほどまで近くにあるのなら、重みに抗わず一息に呑まれてしまいたい。そんな衝動だけに支配されそうになる。
 眩暈を覚えて部屋に戻ろうとしたところ、軽く肩を叩かれた。見れば昼間の女性が、小さな酒瓶を手にからりと笑っている。一緒にどうかと言われたが、僕はやんわり断って扉を閉めた。衝動を抑える理性をたやすく崩すものがあるとすれば、それは酔いを誘う酒と月だろうから。


歌詞集「ことのおと」 畏敬の章より
火の鳥
わだつみ
ひのかみ
つくよみ



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