前の項へ戻る 次の項へ進む ★ 人が星に願う訳・目次 小説一覧


   5.星の灯る方角


 その日の晩、アルアはいつもと同じように家中の施錠を確認しながら、カーテンを閉めて回っていました。
 階段で二階へ上がると、突き当たりにある物置部屋の扉が少し開いている事に気づきます。ラセフがいるのかと思った彼女は、長い廊下の絨毯に足音を吸わせてそこへ寄り、中を伺いました。けれど壁際にごったに積まれた箱の輪郭が、吊るされた裸電球の煌々とした明かりに浮かぶばかりで、彼の姿は見当たりません。
 入ってみたところ、上から沈んでくるような冷気にするすると撫でられました。僅かに浮いた天井口の真四角な戸と、そこへ至る、壁に固定された鉄はしごが注目されます。アルアはこれまで足をかけた事の無いそのはしごを、思い切って登って行きました。
 戸を押し上げて顔を出した外は、深々と夜の闇が降りています。
「来たのかい」
 横から声がしてそちらを向くと、物置部屋の上にあたる屋根の平らな面に、片膝を立てて座るラセフがいました。彼はこちらへおいでと、アルアを隣に招きます。
「このように暗いところで、一体何をなさっているのですか」
 屋根の上へと移りつつ尋ねる彼女に、彼は言いました。
「その戸を閉めてごらん」
 すぐ答えを得られない事に首を傾げながらも、アルアは言われた通り、いま抜け出てきた戸をゆっくりと閉めました。活栓を締めるように、漏れ出ていた部屋の光が徐々に絞られていきます。
 完全に閉め終えて辺りが本当に真っ暗になってしまうと、アルアは言いようのない不安を覚えました。芽吹く時候といえども夜は未だ寒く、冷たい風に胴を鷲掴みされて何もないところへさらわれる気さえして、そうなるまいと、子供みたくラセフの腕にしがみつきます。そんなアルアを軽く笑いながら、ラセフは空を仰ぎました。
「ほら」
 彼女はその横顔を間近に見て、そろそろと、彼にならいます。うるさい明かりを蓋する事で、それらのささめきは再び、夜空へ戻ってきていました。
 金や銀をした星の砂原と、そこに架けられた、煙るように光る橋。天球一面から降り注ぐ眩さでアルアのココロはいっぺんに跳ね上がり、その端から端までを、渡っていきました。
「父様、父様、すごく綺麗です!」
 ラセフを揺さぶる勢いで、アルアはその感銘を表に現します。幾星霜、人の心を震わせ続けてきた輝き達は今、アルアのそれも共鳴させていました。
 その様子に目を細めたラセフは、しかし拭えない憂いをそっと暗がりに隠します。
「アルアには、何か願い事はあるかね」
 不意の質問に、アルアはきょとんとしました。うつむいて、願い事、と口の中で一度繰り返した後、彼に答えます。
「私は、父様とずっと一緒にいたいです」
「私と?」
「はい。大好きな父様と過ごす、こうした時間が逃げずにいつまでも続いてほしいと願います。母様の時と同じ悲しい思いは、もうしたくないのです」
 ラセフは、そうか、と一言呟いて目を伏せました。その反応に、彼女は何か見当外れな返答をしてしまったのかもしれないという心配を抱きます。
「父様は、そのように思われないのですか」
 ラセフは絡んでいたアルアの両腕を優しく解いた手で、彼女の頭を撫でました。
「いいや。私も同じ事を願っていたよ。愛する人と、ずっと一緒にいたいとね。だから人がその寿命から解放されるようにと、こうしてアルアを形作っているような機械の発展に、貢献した。ユディエもそうだった」
 ラセフは着ていたジャケットを脱ぎ、昼間買った衣装のみでいて肩を震わすアルアに、羽織らせました。彼女は人と同等の五感を持っているので、冷たいも温かいも分かります。もちろん外側の体表だけでなく、内側のココロも、人の感情からそれらを知覚できます。アルアは彼の服に温もりをもらいながら、彼の奥に凍らされた涙を、感じ取りました。
「だがいくら機械が優れようとも、どういうわけか、人はその粋を集めた身体の活動を維持できずに、いずれ止まってしまう。原因を疑われた『心』を含む分野には明るくないが、もしも本当にそこが関係しているとするならば、私はようやく、その理由を認められた気がする」
 分かった、ではなく、認められた、と彼は表現しました。それは根拠のない感覚的な論で、彼の中にありながら、今日まで直視を避けてきたものだからです。
 彼はズボンのポケットから銀の時計を取り出しました。チェーンがからりと微かな音を立てます。
「ユディエが死んでしまってから考え続けていた事のひとつに、この時計があった。彼女は何故、私の時計を選んで細工を施したのか。これと一緒に遺された言葉とその後の状況から、時計が、アルアの『ココロ』をその誕生日に立ち上げるための、時限錠になっていた事は理解できる。ただ、他にも伝えたい何かがあったのでは、という気がしてならなくてね」
 自分のココロが身体のどこに収められているかは分からなくとも、アルアの片手は、その位置を知っているようにそっと胸へ当てられました。ラセフは更に語ります。
「先の『人が止まってしまう』話と、今日アルアが口にした、『ココロが時の流れを作っている』という話。心と時の流れについて、その命題の真偽は証明できない。だが2つの話が噛み合って、腑に落ちたんだ。『心を失くした人の時間は止まってしまう』のだろうとね」
 ラセフは、弾むココロを追うように街を駆け回っていたアルアを、想起します。
 心という形なき知覚装置が、あらゆるものを感受する事でベクトルを生じさせ、人の形ある身を動かすのです。従って心が外へ向かわなくなり、しぼんで無くなれば、人は時空上にそれを描けず、時が止まったかのように動かなくなると、彼は解釈したのでした。
「『人と星の愛と命が、永遠に続くように』と願い、それを叶えるために人々が発展させてきたものだったからこそ、私もユディエも賛同して、その工学技術の世界に飛び込んだ。生きる者の普遍の願いを叶える事に貢献できれば素晴らしいと思った。しかしいくらでも換えの利く、実質永遠の身体を手にした者からは、愛の苗床となる心が否応なしに消失していく。器ばかりが強固になり、肝心の中身を空にしてしまうとは、何とも滑稽な話だ」
 愛のない言葉。まくし立てる無神経。結果的にそうしたものを増やすのに加担してしまった、自分達の手。彼は時計に視線を落としたまま、針のこつこつとした振動を掌に受け続けます。
「ユディエは、自らの時間を止める事でそれに抗ったのだろうか」
 彼女が命を絶ったのは、『心』を研究対象としていた事に起因し、自身のそれを病んで絶望に呑まれてしまったためと、ラセフは認知していました。
「父様と母様は、イノチとアイが続く事を願って、お仕事をなさっていたのですね。その願いの端から生まれた私のココロにも、アイは、芽生えるでしょうか」
 ――限りがあるから アイは芽生える――。
 アルアは、『アイ』という言葉がとても気になっていました。ラセフは微笑んで返します。
「もうアルアにはあるよ。愛する心を持つ、かつての誰もが抱いたのと同じ願いを答えたろう」
 ――大好きな人と過ごす時間が、逃げずにいつまでも続いてほしい――。
『人と星の愛と命が、永遠に続くように』とは、その思いから来た願いなのですから。
 そのときアルアの胸に、一筋の光が流れました。刹那、記憶が冴え渡ります。
「母様が仰っていた、『湧き出て、溢れ出るもの』とは、アイの事だったのですね」
 ラセフもそれを噛みしめました。彼女の言っていた通り、愛がこんこんと湧く水のように想像されます。その源である心が人から失われてしまう理由については、人が止まってしまう理由と同様、既に彼の中にありました。彼は再び前へ向き直って話します。
「身体は、人を人と、自己を自己として確立させる柱のひとつだ。物と同じに扱っていれば、いずれ自分と他人の区別もなく、世にある全てを、物としてしか見られなくなる」
 以前、家を訪れた研究所員にも語っていた内容であると、アルアは黙って思い返します。
「自分の身体、というものへの執着が断たれる毎に、心はそこから零れ落ち、いずれ無くなってしまう。生まれ持った唯一のものと違い、いくらでも置き換えが利くものに、それを繋ぎ止めるだけの力はなかった」
「では、イノチは永遠となっても、アイは、その願いを叶える事が出来ないのでしょうか」
 アルアはラセフにすがりました。彼のそれと、たったいま自分にもあると教わったばかりのそれに、終わりが来る事を恐れて。
「私が思うに、愛は、永遠や無限とは相容れないものなんだ。儚く限りある、互いの憐れみこそが愛の始まりならば」
 アルアがそのココロにアイを芽生えさせたのは、ユディエの死という終焉と離別に直面し、人の本来の儚さを思い知ったから。あのとき嘆きの産声を上げた彼女の姿が、ラセフの考えを結びます。
「形ないものを収める、形ある器はいつか壊れる。だから器が壊れるまでの間に、生きる者達は後に残る他の器達へと精一杯、溢れる愛を注いで脈々と継いでいく。愛がそのように流れ流れる事で続いてきたものであるならば、壊れない器を作って留めようなどと、してはならなかったのかもしれないな」
 ユディエが抱えていたのと同じ思いが、ラセフの中でも疼きます。
 ――本来なすべき事はいつだって、学者や技術者じゃなくたって、出来るのよね。だから私は、ラセフとアルアに伝えたいの。愛しているって――。
 ラセフの最後の否定と諦念の響きが悲しくて、アルアは違うと首を振りました。
「でも、その願いが過ちだとは思えません。アイするココロを持つ誰もが抱くものであるのなら、それは、アイそのものではありませんか」
「ああ、確かにそうだ。それは人の幸せがいつまでも続く事を望む、愛そのものだ。願う事は決して過ちではない。人は一歩一歩その願いへ近づこうと努力する事で、輝くのだからね。ただ私達は、途中で勘違いしてしまったのだろう。そうして向かった先は、『果てあるもの』という、有限を運命づけられた者には扱いきれない、『果てないもの』だった」
 彼はアルアの肩を抱き、満ちる星空を見上げて語ります。
 
 星の輝きを、人の願いと営みに。
 その無数を抱く夜空を、果てのないものに。
 それぞれ見立てて、星に願おう。
 人が持て余すほど果てのないものを、果てのない空へ投げるように。
 身を滅ぼすほど持て余すなら、その輝きは夜空と、分かち合おうと。



前の項へ戻る 次の項へ進む ★ 人が星に願う訳・目次 小説一覧