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 昼寝から覚め、同じタイミングで起きてきた母さんと一緒にケーキを食べている間に、雨が上がった。母さんは仕事へ行き、龍彦が家に遊びに来るまでまだ時間があったので、俺は少しでも町を回ろうとコクミツになって外へ出た。
 雲の切れ間より、金の夕陽が覗く。今日初めて会えた陽は、もう別れを告げている。沈む間際の煌めきを、路面の水溜まりに配って。
 眩さに目を細めて歩いていたら、向かいからユキチが来た。彼の方も俺に気づき、光をぴょんぴょん跨いでこちらへ駆け寄る。
「よう、ユキチ。……ん?」
 俺は彼が口にくわえている物を注視した。オレンジと黄のシマ柄をした、片方だけの靴下。祠にぶら下げられていたクリスマスツリー用の飾りだ。しかし俺が昨日見た時よりも随分と膨らんでいる。彼はそれを一旦足元へ置き、興奮気味に話す。
「コクミツさん聞いてくださいよ! 雨が止むまで祠で寝てたんスけどね、起きたらなんと、これにニボシが詰まってたんっス!」
 確かに、ヒゲを傾けると靴下の中からはニボシの匂いがした。
「ほう、サンタが来たのか」
 きっと魚鮮のオヤジが持って来てユキチにあげようとしたものの寝ていたため、サンタクロース気分で靴下に入れていったのだろう。そうと気づかないユキチは、俺が出した馴染みのない名に興味を示す。
「サン、太? コクミツさんのお知り合いっスか?」
「年に一度、プレゼントを配って回る粋な白ヒゲだ。故あって誰にも見つからないよう、おとなしく寝ている者のところにだけやって来ると聞く」
 夢のある話に、ユキチの目がキラキラする。
「へええ、変わってるけど太っ腹で良い人なんスねえ! ん? でも白ヒゲって事は、猫かも?」
「さあ、どうなんだろうな。とにかく良かったじゃないか」
「はい! せっかく貰ったのでヨツバと子供達の所へ持って行って、皆で食べるっス! ではまた!」
 靴下をくわえ直し、ウキウキと去って行くユキチ。今度は彼がニャンタクロースとなって最愛の家族を喜ばせるのだなと考えたら、見送りながら羨ましくなった。
 例年通り、変わりないまま終わろうとしている俺のクリスマス。その平穏自体は決して悪くない。悪くないが、どうしても天瀬が今宵会う相手とやらの件が頭を離れず、自身の変化を求める気持ちから逃げてしまったばかりにそいつに先を越されてしまった点は、非常に悔やまれるのである。
 梶居が、別れ際に言っていた。
 ――もし来年のクリスマスもお互い暇してたら、四人でどっか遊びに――。
 天瀬の約束相手が恋人でなきよう祈り、他にプレゼントは何にもいらないからと、今年のクリスマスもまだ終わっていない内よりそれの実現を切に願う。そんな自分が可笑しくて、胸の中で苦笑する。
『来年の事を言えば猫が笑う』というのは正にこの事――、などと思っていた矢先だった。
 真横より、勢いよく引っ被せられた水。一瞬にして、俺は全身ずぶ濡れになった。そこへ追い打つ、冬の夕暮れの風。ひとつ吹いただけで体温を根こそぎ持って行かれ、凍ったみたく固まる。
「ああっ! 水跳ねちゃった!?」
 自転車のブレーキ音とその声を聞いて思う。前にもこんな災難があったような、と。
 道端に駐輪した天瀬は、カチコチの俺を見て驚く。
「やだ、またツクダニちゃん! ごめんね、すぐ洗うから……!」
 あれよという間に布でぐるぐる巻きにされ、自転車の籠へ、ビニール鞄と一緒に押し込められる。俺は顔だけ出した状態で、再び自転車を漕ぎ出した彼女を呆然と見ていた。
 息急き向かっているのは、どうも自宅方面ではない。それに気がつくと同時に思い当たる。彼女が今晩、誰かと会う予定である事に。
 ――まさか俺を連れたまま、そいつのところへ行くつもりなのか……?
 更に勘づく。俺を包んでいるフカフカのこれは、バスタオル。でもって横の鞄からほのかに漂う、石鹸の香り。察せられる行き先は、一つしかなかった。
 到着して自転車を停めた天瀬は、俺と鞄を抱え、のれんの掛かった入り口へ向かう。案の定、鈴音の湯である。
 そこで彼女が会う者は、即ち例の約束相手。タオルの中でもがいて身を反転させ、見上げた夕闇に浮かぶ明るい茶髪に、俺は二度目の絶望を食らう。予測的中、徳永先輩だ。
「わあごめんね! 先に来るつもりだったのに。待たせちゃった?」
 あの先輩に対するものとは思えない、くだけた言葉遣い。それだけで彼等の親密さが窺えた。ああ、やっぱり天瀬は、徳永先輩と……。
「――みゆちゃん」
 天瀬の口からぽんと出た、思いもしない名前。俺は地獄へ転がり落ちる途中で引っ掛かって止まる。
「おねえちゃん!」
 下方より小さな女の子の声がして、天瀬は身を屈める。彼女が親しげに話し掛けていたのは、徳永先輩の妹のみゆちゃんだった。先輩は他に小学生の弟達、翔太君と拓海君も連れている。
 みゆちゃんが左右に結った髪を跳ねさせて逸る。
「おふろはやくー!」
「うん、一緒に入ろうね。あ、もう一つ約束してたクリスマスプレゼントも持ってきたよ」
 言って天瀬はビニール鞄を下に置き、俺を抱いていない方の手で取り出した品をみゆちゃんに渡す。手編みの、赤いマフラー。みゆちゃんは喜びで緩む頬をそれに埋め、温かさと柔らかさを楽しむ。
 徳永先輩が幼い妹を促す。
「貰ったら言う事あんだろ」
「ありがとっ!」
 愛らしい礼を笑顔で受ける天瀬に、先輩は言う。
「妹の我がままに付き合わせた上に、手間の掛かるもん作らせて悪かったな」
「いえ、私が編みたかっただけなので全然。まだ下手で友達に教えてもらいながら編んだんですけど、喜んでもらえて良かったあ」
 その流れから、天瀬の真の約束相手は徳永先輩ではなくみゆちゃんで、梶居との編み物で彼女が編み上げたかったのは、みゆちゃんにプレゼントするためのマフラーだったと理解する。
「……何だそれ?」
 徳永先輩が目を留めたのは、立ち上がった天瀬の抱えているバスタオル。彼女は端をめくって俺に頭を出させた。
「来る時に自転車で水溜まりの水を跳ねて、この子をずぶ濡れにしてしまったんです」
 俺と徳永先輩の目が合う。
「ん? こいつ、もしかして……」
 彼は俺を凝視する。俺が文化祭の日に助けた猫だと気づいたらしい。
「先輩、ツクダニちゃんのこと知ってるんですか?」
「ツクダニ?」
「この町のボス猫ちゃんだと、前に名前と一緒に教えてもらったんです」
 いや天瀬、龍彦は俺の事をボス猫だとは教えても、名前がツクダニだとは教えていないはずだが――と突っ込みたくても突っ込めないもどかしさ。
「へえ、ボス猫……。お前、偉い佃煮だったんだな」
 世の中には、旨い佃煮と偉い佃煮の二種類がある……のか? そう言えば徳永先輩にも、俺は佃煮みたいだと評されていたのだった。
「きれいに洗って乾かしてあげないといけなくて……ここの浴場でさせてもらえないかな」
 そのつもりで天瀬は俺を連れて来た、と。
「ここの梅爺さんは町の猫を風呂の湯で洗ってやってるって話だし、入れていいか聞いてみりゃいいんじゃねえか」
 徳永先輩が言うと、弟達が張り切って駆け出した。
「俺が聞いてくる!」
「俺も!」
 二人が揺らして行った銭湯ののれんから目を戻し、徳永先輩は片膝をついてみゆちゃんにマフラーを巻いてやりながら天瀬に話す。
「こいつ、すっかり天瀬に懐いちまったな。前来た時、お前との風呂がよっぽど楽しかったらしくよ。ずっと姉が欲しかったのかも知れねえ」
 天瀬ははにかんで笑う。
「男の子兄弟の中に、女の子一人ですもんね。私もみゆちゃんと一緒のお風呂、すごく楽しかったんです。私は一人っ子なので、妹がいたらこんな感じなのかなって思って」
 徳永先輩はみゆちゃんの頭を撫でる。その笑みは天瀬に対しても向けられていた。
「妹を連れて入んのに人の少ねえ時間を選ぶとどうしても夜遅くなるし、誰も来ないとは限らねえしで俺がゆっくり出来なかったんだが、お前に話す機会があって良かったよ」
「大事な妹さんを男湯に入れたくない気持ち分かります。私で良ければ、いつでも。来るのは週一くらいでしたよね」
「流石に毎回世話になる訳にいかねえから、たまに頼むわ。こないだは別れ際にみゆが大泣きして、なだめるのにその場で次の約束させちまったけど、ほんとに今日で良かったのか? クリスマスなのによ」
「はい、私はいつもの休みと何も変わりなくって。みゆちゃんだけです、クリスマスに誘ってくれたの。ねっ!」
「ねーっ!」
 みゆちゃんはご機嫌で天瀬に返す。
 今の会話で分かった事を、俺は頭の中で懸命に整理した。冬至に銭湯で徳永先輩と天瀬が会っていたのは、徳永先輩がみゆちゃんを女湯の方で入れてやってほしいと天瀬に頼んだため。そのとき姿の見えなかった弟達と妹は、先に中へ入っていたのだろう。よって二人だけで銭湯へ来ていたわけではなく、クリスマスの予定についてのやり取りからしても、彼等は、現時点で特別な間柄にない――。
 思いがけず真相を知れて、俺は心底安堵する。同時に、天瀬とみゆちゃんの仲の良さにほっこりした。
 そして決意する。天瀬は他に誘いがなかったと残念がっていたし、それなら次こそは、俺が誘おうと。来年の話で猫が笑おうが誰が笑おうが構いやしない。
 だなんて調子づいていたら、翔太君と拓海君が駆け戻って来た。
「湯船に浸けなかったら猫洗ってもいいってー!」
「良かった! お待たせツクダニちゃん、元通り綺麗にするからね」
 そこでハッとした。これから俺は、銭湯で天瀬に洗われる。天瀬が入るのは女湯。という事は俺が入れられるのも、女湯になるのでは……?
「あー、そっちにはみゆを頼むし、よけりゃ猫はこっちで洗ってやるぞ」
 徳永先輩が天瀬に言うと、弟達がはしゃいで俺に手を伸ばしてきた。
「やったあそうしよ!」
「俺が連れてく! 貸して!」
 さすれば、連れて行かれるのは男湯。急激に炙った俺の心臓がほっとして治まる。女湯に入るなんてとんでもない。当然ながら風呂では誰もが裸。天瀬だって服を全部脱いで入るわけだし、そんな状況で彼女に洗われた日には、湯に浸からずとものぼせ上がって本物の極楽に行きかねない。
「いいんですか? じゃあお願いして――」
 天瀬が彼等にタオルごと俺を委ねようとするのを、しかしみゆちゃんが遮った。
「だめ! みゆがねこちゃん洗う!」
 徳永先輩は了承しない。
「お前には難しいだろ、引っ掻かれるかもしれねえし」
「やだあ! 連れてっちゃやだあああ! ねこちゃんとおふろ行くのおっ!」
 駄々をこね始めたみゆちゃんに、毎度手を焼く先輩。すると天瀬は腕を引っ込め、俺を抱き直した。
「あ、大丈夫です。私、前にもツクダニちゃんを洗った事があるんですよ。水を嫌がらない大人しい子なので、こっちでみゆちゃんと一緒に洗えると思います」
 話が二転して元に戻り、再度ばくばく炙り出す俺の心臓。
「そうか? ならいいが」
 いい――いやいや、よくない。これはまずい。非常にまずい。逃げ出そうともがいたが、天瀬にしっかり抱き締められていて身体がタオルから抜けない。
「それじゃ、しばらくみゆちゃんをお預かりします。さ、行こっか!」
「またねえー」
 みゆちゃんはしばし別れる兄弟達にニコニコと手を振る。そして天瀬はみゆちゃんと俺を連れて、禁断の女湯ののれんを、くぐったのだった――。
 
 
 帰宅した俺は今、自室のベッドの隅で毛布を被って膝を抱えている。その俺と、向かいの学習椅子に腰掛けた龍彦が話しているという、三日前の夜と同じ図。
「……入っちゃったのか。女湯に。よりにもよって、天瀬と一緒に……」
 改めて状況を言葉にされ、俺はがばりと顔を上げる。
「だっ、だけど俺は何も、ほんとに、誓って何にも見てないからな? 天瀬は髪を上げてて両肩は露わだったけど、洗い場で俺を洗っている間は身体にタオル巻いてたし、自前のバスタオルは汚れた俺を包んで使えなくなったんで、番台で買い直した白地で端に大きなイチゴ柄のあるやつを巻いてて、そのイチゴが、ちょうど胸元に乗っかってて――」
 一体何を口走っているんだか分からなくなった俺に、龍彦はじっとりした視線を寄越す。
「……しっかり見てんじゃねえかよ。真っ赤な顔で言われてもな」
「だから! 見てないって話をこうして一生懸命……!」
「あー分かった分かった! とにかくこれで、お前とコクミツが同一だって秘密は天瀬にも徳永先輩にも打ち明けられなくなったわけだ」
 俺は天を仰いで額を押さえる。
「……それも、痛い……」
 龍彦の言う通り。ツクダニちゃんことコクミツが孝史郎と同一の存在と天瀬にバレた場合に、そうとは知らず一緒に女湯へ入ってしまった彼女が、俺に対して沸き上がらせるであろう強烈な嫌悪は、全く想像するのも恐ろしい。拒絶され、俺の恋路が即終了する案件。そうしたとんでもない爆弾が、俺の元々の秘密と抱き合わせになってしまったのだ。
 同様に天瀬とコクミツの関係を知った徳永先輩にも、やはり秘密は明かせない。明かせば何としても天瀬には黙っていてもらわなければならず、その理由である俺の天瀬への恋心も彼の知るところとなって、以後ずっと弱みを握られ続けるはめになるのだから。
「まあ確かに懸念は増えたが、とりあえず秘密を守ってる限りはこれまでと何も変わんねえよ。それと、天瀬と徳永先輩が付き合ってないって分かったのは良かったじゃねえか。ならお前が打ち明けるべきは、秘密じゃなくて天瀬への気持ち!」
 龍彦にびしりと指差される。気後れする俺にお構いなしで、彼は続けざまに説く。
「そのために来年お前が心掛けないといけない行動は、『慎重かつ大胆に』だな。これを機に、そろそろ思い切って踏み出す事も考えようぜ。相談ならいくらでも乗るからよ。……よし、この話終わり! さあ、ゲームでもやって遊ぼうぜ。俺達のクリスマスはこれからだ!」
 勝手に総括して立ち上がり、龍彦は遊ぶ準備に取り掛かる。俺は説かれた内容を基に、今一度考えた。
 ――誰かに先を越されたと思った時、天瀬を遊びに誘えなかった不甲斐ない自分を悔いたのは確かだった。そうだ、言われなくても次こそは俺が誘おうと決めたはずじゃないか――。
 その気持ちを思い出して、俺は脳内でシュミレーションする。白いもやが揺らいで、徐々に浮かび上がるイメージ。しかし白いそれはもやでなく立ち昇る湯煙で、現れたのは、髪をヘアバンドでまとめ上げ、イチゴのバスタオルを一枚巻いただけの――。
「――わあああああごめん! ごめんなさい何でもないですっ……!」
「はあ?」
 突然毛布を被り直してベッド上で突っ伏した俺に、その妄想から取り残された龍彦はひとり疑問符を浮かべていた。
 
 
 クダケタ・カンケイ/終



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