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 俺だって母さんの事は気になっている。だが本人には、やはり聞くに聞けない。回答によっては受け止められる自信がないのだ。
 父と母との間でどう振る舞えばよいやら分からなくなったまま、迎えた翌二十四日。悩み多き頭を少しでも軽くしたくなって床屋へ行ったら、理容師さんにデート前だと思い込まれ、やたら張り切ったヘアスタイルを勧められた。まあクリスマスイブなんかに髪を切りに行った俺が悪いのだけど、いつも通りのカットだけでいい、特別な予定は何もないのだ……と自分で自分の傷口に塩を擦り込むかの如く繰り返し説明するはめになり、消耗してしまった。
 天瀬と徳永先輩の関係が気になる今は、親の世話を焼くどころか自身の世話で手一杯――。そう胸の内で父さんに嘆き、とぼとぼ帰る。島中字の商店街から一筋外れたそこは、文化祭前に買い物の付き添いで天瀬と歩いた道。端にユキチの祠があり、今日も彼は、そこでお供えの饅頭みたく丸まって寝ていた。
 相変わらず、近づいても安心し切った様子で眠り続けている。後でコクミツとして巡回に来た時には起きてくれるだろうかと考えながら、俺はふと、祠の軒にぶら下がっている物に目を留めた。
「……靴下?」
 片方しかなく、人間には小さ過ぎて、でも猫には大き過ぎるサイズ。多分クリスマスツリー用の飾りだ。商店街に設置されているツリーに飾られていたのを、オレンジと黄のシマ柄からユキチを連想した誰かが、ここへ持って来たのだろう。クリスマス気分のお裾分けとして。猫にクリスマスは関係ないと思っていたけれど、そうでもないらしい。
 そんな事を思って和んでいた時、道の風上より聞き慣れた笑い声が弾んできた。そちらの遠い辻に見えた声の主は案の定、母さん。今日は仕事が休みで、俺が出掛けるまでは家に居た。午後に用事で外出するとは聞いていたけど、一体誰と一緒に――と連れの人物に目を凝らした俺は、喫驚する。
 ――桜田さん。
 和気あいあいとした雰囲気の二人は、俺に気づかず過ぎって行く。すっかり平静さを欠いてしまった俺は、父さんに頼まれた事もあって二人がどういう仲なのかを追って確かめなければならない使命感に囚われた。反射的に駆け出した足は、しかし数歩で止まる。
 このまま追ったところで、両者に直接関係を聞くなんて大胆な行動は取れない。ならば跡をつけて見つからないように、でも会話が聞こえる距離で様子を窺いたい。となると、適するのは人ではなく、猫の姿。
 右手には、ブロック塀に挟まれた家一軒分の空き地がある。奥の隅に古いタイヤが積み置かれていて、すぐ裏は民家の生け垣。そこの合間なら後で取りに戻るまでの間くらい、孝史郎の服を置いて行っても誰にも発見されないだろうと踏む。
 辺りに人目がない事を確認して空地へ入り、タイヤの陰で猫に転身してすぐさま出る。
 ……人の目は、確かになかった。が、『猫の目』に対しての注意は、不十分だった。
 気配がして見上げたブロック塀の上で、その白い猫は驚きにより全身を膨らませ、俺を凝視していた。天瀬の飼い猫、アメリアだ。俺もまた、尻尾の先まで膨らむ。
 ――人から猫へ変わるところを、目撃された?
「え、と……アメリア……」
 恐る恐る声を掛けると、彼女は一呼吸置いて一回り小さく萎み、塀を降りて俺の前まで来た。
「塀に登ったら、知っている人が空地に入って行くのが見えて、でも出て来たのは……コクミツさんで……?」
 アメリアは、孝史郎の俺を見知っている。天瀬の家へ行った時に一度会っているからだ。俺は黒い外見のくせに頭の中は真っ白になって、何も答えられない。
「あら?」
 間近まで寄ったアメリアの鼻とヒゲが、ぴくぴく感知する。彼女は身を屈め、固まっている俺の前脚の先を嗅いだ。
「……やっぱりこれ、小夜子ちゃんが爪のお手入れする道具の匂い」
 更にぎくりとする。床屋から帰ってすぐ定期巡回に行けるよう、出際にベースコートを重ね塗って補強したばかりの爪。アメリアはそこに付着した特有の匂いを嗅ぎ分けたのである。そのベースコートは天瀬に貰った物で、それが孝史郎に渡されるところを、一緒の部屋に居た猫の彼女は、見ていた――。
 アメリアの中で、孝史郎とコクミツとが結びついてしまった瞬間だった。
「小夜子ちゃんとお友達の、あの、孝史郎さんって人は……実は、コクミツさん――」
 俺は汗をかけない猫の身体で冷や汗が止まらない感覚に陥る。ああ、とうとう人でも猫でもある俺の秘密がバレてしまっ……。
「――ともお友達だったのね!」
「……え?」
 アメリアの尻尾がご機嫌に立つ。
「コクミツさんの爪、あの人がお手入れしてくれているんでしょ? 小夜子ちゃんがあの人にあげていたのと全く同じ道具の匂いがするもの。きっと毎日お務めで町中駆け回っているコクミツさんを労って……。なんて優しいのかしら!」
「……ああ、まあ……」
 どうやら、バレずに済んだようで。俺の方の尻尾は緊張が解け、くたりとへたる。
「前に家へ来た時はどんな人か分からなくて近づけなかったけど、もう怖くないわ。何と言っても小夜子ちゃんとコクミツさんの共通のお友達だもの、きちんとご挨拶しなくちゃ。あ、でもさっき急に消えるみたいに見えなくなって……それでびっくりしたのだけど、もしかしてまだそこに?」
 不思議がって積みタイヤの方へ足を向けるアメリア。その陰に脱ぎっぱなしになっている孝史郎の服が見つかってはまずい。
「もっ……もう居ないぞ、俺と入れ違いで、生け垣の向こうへ抜けて行ったんだ」
 焦って言ったでまかせを、彼女は素直に信じた。
「なあんだ、そうだったの。じゃあご挨拶はまた今度」
 ほっとした途端、どっと疲れが押し寄せた。それが滲み出てしまったのだろうか。
「コクミツさん、お疲れなら家で休憩していかない?」
 思わぬ誘いを受け、やや驚く。
「ん、アメリアの家で?」
 ……て事は、天瀬の家で?
「ええ。一度コクミツさんと、ゆっくりお茶してみたくって。子育てもひと段落して、ゆとりが出来たし……」
 アメリアは俺への好意を隠さず、うっとり希望を述べる。お茶する、と言っても猫の場合、飲み物は水かペットミルクとなる。
「それはありがたいが、しかし野良の俺がいきなり上がり込んでアメリアのミルクを飲んだら、家の者に怒られてしまうんじゃ?」
「大丈夫! コクミツさんの事は小夜子ちゃんが知っているし、私と一緒に入れば快く二匹分のミルクを用意してくれると思うの」
 ああ、天瀬には金だらいで丸洗いされて以降、『ツクダニちゃん』の愛称でしっかり覚えてもらっているからな……と自虐気味に思い返した後、俺はアメリアの言葉に含まれていた重要な情報を拾い上げる。
 ――クリスマスイブでも、天瀬は予定を入れずに家で過ごしているという事か……。
 ちょろい尻尾がくるりと踊る。その事実だけで龍彦の言う通り、銭湯前に居た天瀬と徳永先輩が偶然そこで会っただけのような気がしてくるのだから、我ながら単純だ。
「そうか。じゃあ安心して一緒に――」
 一緒に、と発した直後に脳裏を過ぎっていった、関係不明なもう一組の光景。
「……ぬかった」
 真顔になった俺は、アメリアに背を向ける。
「え、コクミツさん?」
「すまないアメリア、大事な用の途中だった。お茶はいずれまたな!」
 言い残して、空き地を駆け出る。アクシデントで追いそびれてしまった母さん達を捜し、辻を通って向かったと思しき先をあちこち回る。けれど捜索虚しく、もう二人は見つけられなかった。
 町工場の機械音が響く入り組んだ路上で、溜め息を生産する。結局、秘密がバレるリスクを無駄に負っただけの徒労。俺は諦めて引き返し、一旦家へ帰る事にした。
 
 
   ***
 
 
 家で孝史郎になって服を回収しに行った後、改めてコクミツとなり、町内の定期巡回へ出た。その仕事が済んだ夕、俺の帰宅から少し遅れて、母さんも帰って来た。
 晩ご飯の時間、ダイニングキッチンのテーブルに着いて二人でオムライスを食べる。
 何処へ行っていたのかとか、何の用事だったのかとか、食事しながら今日の母さんの行動についてをさりげなく尋ねられればと考えていたのだが、さりげなく――と意識した時点で、それは出来なくなってしまった。俺が跡をつけて様子を探ろうとしていたなんて知る由もない母さんを前に、どうにも気まずくて俯き加減で食べていたら、心配された。
「どしたの? 何か元気ないわね。中のケチャップライス、味薄かった?」
「そんな事ないよ、ちょっと考え事してただけで、いつも通り美味しいし」
 返事が少々ぎこちなくなった俺を、母さんはしばし看護師目線で観察する。
「……体調が悪いわけではなさそうね。ところで明日、誰かと遊ぶ予定があったりする?」
「何、急に」
「ほらあ、クリスマスじゃない。もしかしたら素敵な約束をしてて、それで頭が一杯になってるのかなーと思って」
 あまり行きたくないキラキラしたイルミネーション方面に話を転換され、半ば悔し紛れに言う。
「予定は、あるよ」
「ほんと? 誰と誰と?」
「……龍彦……」
 母さんは弾けて笑う。
「やっぱりそうくるぅー? あんたたち毎年変わんないわねえ。あ、泊まり掛けで遊ぶなら龍彦君ちじゃなくて家にしたらいいわ、母さん夜勤で居ないから。おもてなしは出来ないけど気兼ねしなくていいでしょ」
「……そうするよ」
 嘆息まじりに返して終わらせたかった話題を、しかし母さんは引っ張る。
「友達もいいけど、実を言うと私、孝史郎ちゃんが恋人を連れてきて紹介してくれる日を楽しみにしてるのよねー。ねえここだけの話、もう付き合ってる子がいるとか、ない?」
 スプーンの先を運び入れる俺の口が、どんどんへの字になる。
「明日龍彦と遊ぶ予定になってるんだから、分かるだろ」
「……クリスマス前に、フラれちゃった?」
「まだフラれたわけじゃ――」
 飛び出してしまった反論に、ブレーキをかける。が、遅かった。母さんはにこりと笑む。
「『まだ』って事はいるんだ、好きな子は。考え事は、その子の事?」
 それこそを知りたかった、とでも言いたげな眼差しに、隠しようのない頬の紅潮。俺は勢いまかせに追加したケチャップで顔より赤くしたカモフラージュオムライスを、ばくばく食べる。
「……いたって、おかしくないだろ」
「うん全然! いいわねえ青春」
 俺はしてやられた感からの反発で、気づけばさりげなく母さんに聞いていた。
「そういう母さんは、どうなの」
「えー、それ親に聞く? 明日夜勤の予定なんだから、分かるでしょ」
「ふうん、そう……」
 俺のオムライスはそこでなくなる。
 ――恋人がいる事の否定。事実と受け止めてもいいのだろうか。ならさっき一緒にいた桜田さんは何なのか。明日の代わりに、今日会っていただけでは――?
 大して興味のないフリをしつつ、フルで回す思考。母さんは受けた質問自体から、俺の心を推量していた。
「というか……孝史郎ちゃんとしては、母さんに良い人がいても構わないって事? この際聞くけど、再婚してもいいと思ってる?」
 真面目な顔で率直に問われ、内心どきりとする。
「……それで母さんが幸せになるなら、俺は、別に」
「あらそう……」
 母さんのオムライスもそこでなくなり、この話題は「ごちそうさま」で終了となる。
 何だか母さんの再婚を後押ししてしまった気がしてならず、父さんの泣き顔が浮かんで、申し訳ない気持ちになった。



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