前の項へ戻る 次の項へ進む ★ くろねこ風紀録・目次 小説一覧



 現在の俺の『高峰』という姓は母方のもので、両親が別れるまで、俺は父方の姓である『渡会(わたらい)』――渡会孝史郎、だった。
 父さんとは、たまに連絡が取れるとこうして会っている。俺が小学生の間は母さんも一緒に会ってくれていたけれど、中学に上がったのを機に「私を気にせず好きに会えばいい」と俺に告げ、以降、父さんと母さんは多分一度も顔を合わせていない。
 以前は大体年に二回の頻度で会っていたが、父さんの仕事の都合により、今回会うのはおよそ一年半ぶり。いつも待ち合わせに使っている島中字の駅裏の小さな喫茶店に入り、一番奥のテーブル席で向かい合わせて座る。元々痩せ型の父さんは、ダウンジャケットを脱いだら前より更に痩せて見えて、相変わらず忙しい毎日を送っているのだろうかと少し心配になった。
 父さんはコーヒー一杯、俺は朝食がまだだったのでオレンジジュースと一緒にサンドイッチを頼み、注文した品を待つ間は、父さんの近況をあれこれ尋ねて過ごした。そのうち運ばれてきた飲み物を一口含んで心を落ち着け、俺は前回言えずに誤魔化して終わった『例の件』を、やっと父さんに打ち明けるに至る。
「……空手を、やめた、って……? 道場を抜けたって言うのか? どうして! さっきあんなに一生懸命稽古してたじゃないか!」
 コーヒーにそっと入れられるはずだった三個目の角砂糖が取り落とされ、ばちゃりとはねた。
「試合での怪我が元で右肩が外れやすくなって、競技を続けられなくなったんだ。今は加減しながら、独自にやってるだけで」
 空手に励む事が俺の心の拠り所だったと知る父さんは、少なからぬショックを受けていた。
「そんな、全然知らなかった……怪我は、いつ?」
「……二年と、ちょっと前」
「それじゃ、前に僕と会った時にはもう……? そんな重大な事を、どうして言ってくれなかったんだ」
 俺は努めて明るく返した。
「あの時はまだ、口にする気になれなくて。でもいいんだ、あれからけじめはしっかりつけられたし。ああついこの間、怪我した時の対戦相手と打ち解けられてさ――」
「肩が外れやすくなったって、関節の修復手術で根本的に治療できるはずだろ? そうして復帰したスポーツ選手なら幾らか知ってる」
 俺は、その後も前向きに楽しくやれている話に繋げたかった。けど父さんと俺との間にある時間だけは当時のまま止まっていて、事実を知ったばかりの父さんはテーブルに身を乗り出して真剣に、俺の心を振り出しに戻そうとしてくる。良かれと思っての事とは勿論理解しているが、俺は首を横に振った。
「二年以上経つし、そうでなくても最初からそこまでする気なんて俺にはないよ。ただ父さんにもちゃんと知らせておかないとと思って、話しただけで。やめたの自体は、とっくに終わった事で……」
「何を言うんだ、あれほど好きで打ち込んできたのに。大丈夫だよ、一人稽古を続けていたなら競技のブランクはきっとすぐ埋められる」
「いや、だから……」
「費用は父さんが出す。養育費とは別に、お前のために積み立てている分があるんだ。な、今からでもしっかり治療して――」
「――もういいって言ってるじゃないか!」
 怒鳴ってしまってから、俺は我に返る。
「孝史郎――」
 驚く父さんと目を合わせていられなくなり、俯く。
「……ごめん」
 父さんは身を後ろに引いて、椅子に深く沈む。
「……母さんの手前、僕に頼る選択肢は、なかったんだな」
 それに関しては、その通りだった。本音を言えば、もしもあのとき両親が揃って側に居てくれたなら、俺はためらわずに手術を受けていたんだ。二人に、素直に甘えて――。でも実際には片方しか居なくて、決して経済的に楽じゃないのに無理してでも俺に治療を受けさせようとしてきたその母さんに、俺もまた無理してでもきっぱり諦めた振りをして、勧めを拒んだ。
 そしてしばらく後、俺は何も知らない笑顔を下げて会いに来た父さんに対し、なぜ一番肝心な時に居てくれなかったのかと、内心恨めしく思った。いま怒鳴ったのは、停止したままの時間に残されていた感情の発露。
 肩の事を話したら、父さんがこうして積極的に治療を勧めてくるのは明らかで、あの時のまだ酷く不安定だった俺なら言われるまま、甘えて援助を受けてしまっただろうと思う。だけど、強がって偉そうに母さんを説き伏せておいて後からやっぱり父さんを頼るなどという、常に側に居てくれた方の母さんをないがしろにする真似は、とてもじゃないが出来なかった。そうなるのを恐れて、俺は一切を明かせなかったのだ。
 父さんは震える指で、コーヒーカップを口元に持っていく。
「……僕がやりたい事を諦められずに出て行ったばっかりに、お前にやりたい事を諦めさせる結果になったなんて……僕は……僕は親として情けないっ……!」
 ぽろぽろと泣き出す。せっかく甘くしたコーヒーを辛くする勢いで。……父さんは、息子の俺がこう言うのも何だが『泣き虫』だ。下がり目は、涙の重みのせいじゃないかと思うくらいに。
 やりたい仕事があって、父さんは海外へ赴くと決めた。母さんの猛反対を押し切って。それで、離婚した――。
 さておき、止まっていた時間に多少足を取られはしたものの、せっかく久しぶりに会えた父さんと明るい話をしたい俺の気持ちには変わりなかった。
「あの、『もういい』っていうのは自暴自棄で言ったんじゃなくて、本当の意味で、もういいんだよ。去年は受験勉強で大変だったし、それが明けて高校生になった今は生活一新して毎日忙しくて、過ぎた事をいつまでも気にしている暇なんかないんだ。元気でやってるから、俺の心配はいらない」
 言って笑ってみせると、そこに偽りがないのはどうにか伝わったようだ。父さんの目に新たな色の光が湧いた。
「そう、か……。今更余計な世話を焼いて、かえって困らせてしまったみたいだな。悪かった。自分で乗り越えて、成長したんだな孝史郎……父さんは嬉しいっ……!」
「変わってないなあ父さん、泣かなくてもいいんだってば」
 俺は恒例のハンカチを取り出そうとするも、父さんがカップを置いて自分で出してくる方が断然早かった。伊達に長年必需品としちゃいない。俺はサンドイッチを運んで来た店員さんと、困った顔で笑い合ってしまった。
 涙で磨き直した笑顔で、父さんは聞いてきた。
「高校生活が忙しいって、勉強一本ではないよな。何か新しく始めたのか? 部活とか?」
「ううん、部活には何も所属してないよ。新しく始めた事って言ったら、生徒総会の風紀委員とか――」
 ――ボス猫とか。までは語れない。
「へえ、風紀委員かあ。真面目な孝史郎らしくていいな。僕もならって、先へ動き出さないとな……。そこで成長した孝史郎に、伝えておきたい事があるんだけど」
「何?」
 父さんは急に背筋を伸ばして改まった顔つきになり、ひとつ咳払いをした後、告げた。
「――母さんと、復縁したいと思ってる」
 ハムサンドを齧った状態で、俺は止まる。
「勝手だと思われるかも知れないけど、僕はずっと、そのつもりでいたんだ」
 父さんは俺の反応を窺う。しばし止まったままになってしまっていたら、不安げに覗き込まれた。
「……孝史郎?」
 いざ明かされた驚きでそうなったのは確かだったが、俺は口の動きを再開し、齧ったハムサンドの端をよく噛んで飲み下してから返事した。
「……そんな気がしてた」
 父さんは目を見開く。
「気づいてたのか? いつから?」
「父さんが出て行く時から、何となく」
 子の俺だけが、見て知っていた。背を向け合った父さんと母さんの、『各々の表情』を。それが根拠。
 なら、と父さんは不要になった話をひとつ省き、問い掛けてきた。
「正直に聞かせてほしい。孝史郎としては、それは許せるか?」
 当然易々とは受け入れられないであろうと、父さんが気構えているのは態度で分かった。例え戻って来る意思が元よりあったとしても、出て行った時点で、一度母さんと俺を捨てる形になったのだから。
 わだかまりがないわけがなくて逡巡した後、俺は言われた通り、自分の気持ちのみを正直にぶつける事にした。
「……確かに勝手だと思う。今更許せないって反発したくもなるよ。でも、いつかまた三人で暮らせる時が来るんじゃないかって……最後に思わせていった父さんにまた裏切られたら、俺は、そっちの方が許せないかも」
 父さんは、俺の言葉を噛み締めているようだった。零されたのは、涙ではなく『あの時と同じ』微笑み。
「……お前は小さい頃から、物分かりが良過ぎたからな。その分余計に、寂しい思いをさせてしまったと思ってるよ。すまなかった」
 かくして父さんと俺とは、互いの思いをひとまず穏便に確認し合った。後は――と考えを巡らせた時、俺は大事な事を思い出す。
「それで、最近の母さんの様子はどんな――」
「……でも母さん、好きな人が――あ」
 考えが不用意に口を転がり出てしまった。父さんの顔の色がさっと引く。
「えっ……ちょっ、ちょちょちょっと待て、何て? 母さんに、他に好きな人がいるっていうのか? 本当に? 確かなのか? 僕の知ってる人か?」
 気を動転させないよう慎重に話すべきだったと、テーブルをひっくり返しそうな勢いで迫られて後悔する。
「いや、母さん『を』好きな人がいて……多分、だけど。母さんの方がその人をどう思っているのかは分からないよ。ただまんざらでもなさそうで、俺も、気になってて。誰かまではちょっと……」
 この件に関して確定している事はまだ何もない。母さんを好きな人というのは、例のパン屋の桜田さんだ。しかし俺の思い過ごしかも知れないし、そうでなくても俺がこんなところで勝手に名前を出すわけにはいかない。
「……何てこった……どうすればいいんだ、その相手に対する母さんの気持ち、どうにかして確認できないか?」
「流石に、それは俺には難しいよ……聞けないし」
 親の現行の恋愛事情に切り込むなど、御免こうむる。
「でもお前しかいないんだよ、頼むよ、助けてくれよ孝史郎っ……!」
「助けてって言われても……」
 父親に泣きつかれ、困ってしまう。
 心情的には、両親の復縁を願っている。桜田さんという母さんの恋の影に対して俺が抵抗を感じていたのは、そのせいだ。でも母さんの心が既に父さんにないのなら、俺は立場的に、母さんの新しい幸せの方を願うべきなのだろうと思う。
 俺達家族を隔てた年月の溝は、決して浅くなかった。



前の項へ戻る 次の項へ進む ★ くろねこ風紀録・目次 小説一覧