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 演劇の稽古をしてから下校する日が続く。疲れを癒しに、龍彦と訪れた鈴音の湯。タオルを頭に乗せ、客がまばらで広々とした湯船に浸かる。この浴場の壁に描かれているのはよくある富士山ではなく、穏やかな河口。海に臨む葦沢町からの景色が元のイメージだ。
 それを背景に、俺は復習のつもりで台詞の暗唱をしていた。
「――魔女様は偉大な力をお持ちだそうですね。何にでも姿を変えられるとか」
 そこへ頼んだわけでもないのに、横の龍彦が軽妙に合わせてくる。
「ああその通りだ、見て驚け! ……はいここで魔女、ライオンに変身」
「これは素晴らしい。しかし如何に魔女様といえど、小さなネズミには変われますまい」
「何を言う、そんなこと朝飯前だ。ソレ!」
 台本も無しでそれをやってのける龍彦に、俺は復習を中断して聞く。
「……お前、もしかして全部の台詞覚えたのか?」
「流石に全部じゃねえよ。稽古観たりお前の練習に付き合ってるうちに、猫との掛け合いになるとこは大体な」
 確かに練習に付き合ってもらってはいるが、それにしても俺よりずっと覚えが早い。実際に舞台で演じなければならないプレッシャーが無いからか、元々の記憶力の良さが無駄に発揮されていた。
「そういや暗記科目得意だよな。小学の時から漢字とか地名のテストだけ、やたら点良かったし」
「『だけ』って強調するなよ、高校受験で底上げ頑張ったから、今は一夜漬けがきかない教科の成績もそれなりだぞ」
 高校受験か、と去年の今頃のしんどさを振り返る中で、牧村先輩から聞いた話を思い出す。
「最近知ったんだけど、徳永先輩、河西高を狙えたくらい成績良いらしくてさ」
 牧村先輩と徳永先輩との間にあった事については、繊細な事情なので龍彦にも黙っている。
「へー、なんか意外だな。意外と言えば先輩、こないだ小さい妹さんとうちに来てよ」
「そうなのか?」
「つっても前通っただけだけどな。ムサシの件の後に家の場所聞かれて教えたから、たまに庭のムサシを見に寄ってるっぽい」
 みゆちゃんの幼稚園の通い路から龍彦の家は大きく外れているはずだが、公園でユキチに会うように、みゆちゃんにせがまれてムサシに会うため、遠回りして行く事もあるのだろう。
「俺はレースのカーテン越しにそれ見てたんだけど、外の先輩からは中の俺が見えなかったみたいで、はしゃぐ妹さんの横でめちゃめちゃ無防備な笑顔になってて……。あのギャップはやばいな、惚れるわ」
 俺は別方面の意外さに、思わず龍彦を二度見する。
「……まあ、何て言うかその、お前が真剣だっていうなら応援するけど」
 彼は俺の発言に疑問符を浮かべたが、すぐに意味を理解して呆れ返った。
「バッカお前、俺じゃねーよ天瀬だよア・マ・セ!」
「ああ……え?」
 なんだ勘違いかと流しかけて、三たび龍彦を見る。
「天瀬は先輩のあの顔を直接見られるんだぞ? いつ落ちてもおかしくないってかもう落ちてるかもって、あん時マジで思って」
 無闇と危機感を煽ってくる龍彦に、焦りから反論を口にしようとする。
「まさか、そんな事は――」
 ない、と言えないのが悲しかった。徳永先輩の家で和やかだった二人の情景が思い返され、気持ちと共に顔の半分まで湯に沈む。
「お前も、もっと自然に笑ってみせられりゃいいんだけど。天瀬を前にすると演技以上に硬くなるからな……。いい機会だし、今回の演劇でそこらへんの度胸つけとこうぜ。先のためにもよ」
 先のため、と言われても望む先はあるのだろうかと、またあの不安が頭をもたげる。しかし想像でしかない事に悩んでいたって仕方がない。まずは今し方、何気に指摘された演技の硬さのほうを何とかしなくてはと思った。
 
 
 晩秋の夕。河向こうの山脈に赤い陽が落ち、次に藍色の帳が下りてくる。昼から夜へのグラデーションの美しさと、肌寒さが染み入る刻だ。
 このところ下校の遅さと日没の早さから、平日の定期巡回は早朝に行う事が多い。今日も既に終えていたが、ちょっと高い所から暮れの町を見渡したくなり、客と番台の目がない隙を見計らって、コクミツの姿で表へ出た。例のごとく、後の事はビン牛乳一本で龍彦に任せている。
 横の木から唐破風の屋根に移って上まで登ると、先客が居た。
「――コクミツか?」
「ああ、ススケか。暗がりで黒いのでよく見えなかった」
「それはお前も同じだ」
 先客、と言ったが彼はここの通い猫なので、客は俺のほうだなと思う。それでもってお互いにどうしてここへ上がってきたかなど、望める情景を前にして聞くほど野暮ではない。
 宵闇の中で黒猫二匹、並んで座る。背にした東半分はもう晩に入っている。残り半分も藍が濃さを増していき、空には星が、町には灯が点々と灯っていく。夏のうちは一夜かけて天頂を渡っていた白鳥座も、今時分になると、姿を現わす頃にはもう西に差し掛かっているのだった。
「今日も一日、皆変わりなくて何よりだ」
 刻々と夜が更けて、深々と感慨にふける。そうして呟いたのに対し、しかしススケが気掛かりを口にした。
「それが一匹だけ、変わりあってな。昼間にデガラシが来て、ここの風呂へ入って行ったんだ」
「ほう、珍しいな」
 松原字のデガラシは飼い猫であり、綺麗好きだが自分の家で洗ってもらえるため、鈴音の湯があるここ貝塚字まで来る事自体が稀だった。
「朝からあちこち歩き回っていたらしい。疲れた様子だったので一風呂浴びていくよう勧めて、梅じいさんに入れてもらったのだが、回復しないままおぼつかぬ足取りで帰って行った。あれから家にたどり着けただろうかと心配している」
「どうして歩き回っていたんだ?」
「それには答えなかった。いくら聞いても上の空でな。何かふらふらというよりふわふわとしていて、地に足が着いていないふうにも見えた。病気でなければいいのだが……」
 班長猫なので俺としばしば会い、二日前にも話をしたが、その時のデガラシにはおかしなところなどなかった。季節の変わり目で急に体調を崩したか、それとも、何かあって悩み事を抱えたか――。
「確かに心配だな。明日、様子を見に行くとするか」
「頼む」
 ススケの瞳が、星明かりを拾ってきらりと光る。松原字があるこぐま座の方角を仰いで、大事ない事を願った。



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