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 用が済み、交番を出てこれからの事を考えかけた時、意外にも予定より早く『彼』に出会った。
「考史郎」
 名を呼ばれて振り返った道の端に、自転車から降りた徳永先輩の姿。交番を忌避する彼は、どうやら中からは見えないその位置で俺達が出て来るのを待っていたようだ。黒いジーンズの膝上に引っ掻いたような裂け目が入っていて、猫の仕業にしてはちょっと大きいな、なんてくだらない事を思う。
 歩み寄ると、彼は気だるげに聞いてきた。
「通り掛かったらお前等が見えたから、何やらかしたんだか気になってよ」
「いえ、警察の人を煩わせるような事はしてないんですけど……」
 ……笑わせるような事はしたが。
 天瀬が事の次第を説明する。
「ついさっき、商店街で騒ぎがあったんです。それで――」
 一通り聞き終えた徳永先輩はしげしげと俺を見た。
「……ふうん、やっぱ強いんだな、お前」
 気恥ずかしさを覚えてその視線からやや逃げ、俺は先輩の自転車の籠に入れられた薬の紙袋に話題を移す。
「病院帰り、ですか? 風邪で欠席だったんですよね」
「あー。薬がなくなる頃にもっかい来いって医者に言われてたからよ。今日は十二時までしかやってなくてめんどくせえ」
 熱は下がっても、不快な諸症状はまだ残っているらしい。しかし彼が気だるそうにしている一番の理由は、今がまだ正午前だからな気がする。
「……てか何で知ってんだよ。牧村か」
「あ、その事で先輩に預かり物があって」
 天瀬との買い物が終わったら渡しに行く気だった封筒。それを鞄から取り出そうとしたが、すぐに牧村先輩から頼まれた本題の事を思い出し、手を止めた。徳永先輩は怪訝な顔をする。
「何だよ」
「……えっと、これを渡す他に話したい事もあるんで、後で改めて、家まで行ってもいいですか」
 体調は優れなさそうだか機嫌は悪そうではないと感じて、尋ねてみた。常に仏頂面で言葉遣いも荒っぽいため判別は難しいが、多少読めるようになってきた気がする。
「意味分かんねえけど好きにしろよ。ただ待ってる気ねえし、遅かったら昼寝すっから出ねえぞ」
 一応の了解を残して自転車にまたがり、彼は帰って行った。
 一つ息を吐いて、俺は天瀬との時間に戻るべく彼女のほうを向く。
「昼、食べに行くか」
 すると天瀬は、昼食よりも先に先輩の家へ行く事を勧めてきた。
「先輩ああ言ってたし、寝ちゃう前に、今から行かない?」
「え、天瀬も?」
「うん。自分の用事に付き合わせちゃうから、孝史郎君の用事にも付き合うつもりだったんだ」
 俺は考える。天瀬はあの徳永先輩が笑顔を見せる希少な存在。同席してくれたら、無闇と邪険にせず今回の話を聞いてくれるかもしれない。それにもし、先ほど徳永先輩の機嫌が悪くなかった事自体が既に天瀬のお陰だとすれば、家を訪ねる事への了解も、彼女の同行を織り込んでのものだった可能性がある。
 ――という事は、やっぱり徳永先輩も天瀬に好意を持って……?
 それに天瀬の側も、徳永先輩に対してどういった感情を抱いているのかが全く窺い知れない。そうなると俺としては、この二人を再び合わせてしまう事に抵抗を覚えた。
 ――一緒に行ってほしくもあり、連れて行きたくなくもあり――。
 こうして二つの念をせめぎ合わせたまま、一人で行く心づもりでいた徳永先輩の家へ、天瀬と二人で向かう事になったのだった。
 
 
 大衆食堂である徳永先輩の家は、一階が店で二階が住居。いずれの客としても、訪ねるのは店の入り口からになる造りだ。
 大きなのれんが掛けられた引き戸を開けると、中は昼時でやや混み合っていた。
「いらっしゃい、二人? 空いたとこ座って」
 テーブルを拭きながら俺達を迎えた三角巾のこの女性が徳永先輩の母親かと思ったが、後で先輩に聞いた話、それは父方の叔母である絹代(きぬよ)さん、との事だった。葦沢町内に住んでいて、忙しい時間帯だけ働きに来るという。ちなみに祝日で周辺町工場の常連客が少ない分、これでもいつもより空いているらしい。
「いえ、俺達はとく……隆先輩に用事があって来たんですけど、呼んで頂けますか」
「へえ! あのタカ坊にこんな可愛くて真面目そうな後輩ちゃん達が訪ねて来るなんて珍しい。ちょっと待っといて」
 呼びに行ってもらい、俺達は邪魔にならないよう客の談笑の隅に寄った。
 なかなか昼食にありつけないので、食堂の匂いには一層空腹を煽られてしまう。そうして所在なく待つ間に壁のお品書きを眺めていたら、別途書かれた『今日の日替わり定食』のボードが目に入った。
 ――『鶏の照り焼き』。
「あ、食べたい」
 にわかに躍った心がそのままひょこりと口を出た。横に立つ天瀬が、俺の呟きと目線の先から察する。ほどなくして絹代さんが「もうすぐ来るから」と告げに戻ると、天瀬は彼女に頼んだ。
「それとすみません、日替わり定食ふたつ、お願いします」
「え?」
「まあ食べてってくれるの?」
 絹代さんは快く注文を受けて俺達に壁際の席を勧め、足早に厨房へ伝えに行った。
「……昼、ここにするのか」
 驚いている俺に、天瀬は照れ笑う。
「考史郎君がいま食べたいもので、お礼したいから」
 気持ちは嬉しかった。しかし天瀬と初めて食事する場所が、徳永先輩の家になるとは。やや戸惑いながら、向かい合わせて席に着く。
 天瀬は少し改まって言った。
「さっき、助けてくれてありがとう。自分でもびっくりするくらい、全然動けなくなっちゃって」
「あ、いや……何ともなくてよかった」
「でも一番びっくりしたのは、孝史郎君がほんとに強かった事かな。空手やってたとは聞いてたけど……。怪我で、やめちゃったんだっけ」
 前に濁した話題を直に振られる。徳永先輩に打ち明けた通り、あまり格好の良くない内容というのが話したくない理由なのだが、そこにはあのとき先輩にも言わず、心情として特に天瀬には知られたくない『ある事実』がまだ残っていて、そのせいで隠すのが苦手な俺は、分かりやすく動揺してしまった。
「ああ、うん、肩が、外れやすくなって……」
「あ、先輩」
 天瀬が向いたほうから徳永先輩が姿を見せ、こちらへとやって来る。そのタイミングに少し救われた。
 寝転がっていたのかぼさついた頭を適当に手櫛しつつ、俺に聞く。
「で、わざわざうちまで来て話って何だよ」
「はい、ええと――」
 俺は鞄から出した封筒を、徳永先輩に差し出した。
「――先にこれ、先輩が休んでた間の学校のプリントです」
「……なんで学年も違うお前が持ってくんだよ」
 学校からの連絡で生徒が持ってくるとは聞いていて、その生徒も本来なら同級生の牧村先輩だったはずなので、訝しく思われて当然だ。俺の隣の椅子を引いてどかりと座り、封を切り始めた彼に答える。
「同じ町内に住んでて家も知ってたので、引き受けたんです。それと封筒には、牧村先輩が入れた文化祭についての詳細もあって――」
 文化祭、の言葉に反応してか彼の眉根が寄る。封筒から取り出した紙束の中に該当の用紙を見つけ、舌打ちした。
「……あの、去年の文化祭には出なかったって聞いたんですけど」
「それで、牧村から今年は出ろって言わされに来たのか」
 思い切りばれてしまったが、逆に遠回しに話す手間は省けた。口下手な俺にはいささか難しかったので、そっちのほうが助かる。
「去年は、どうして欠席したんですか」
 しかし話は一方的に打ち切られる。
「別に。ただつまんねえからだよ。用がそんだけなら、もう戻るぞ」
 徳永先輩は封筒と紙束を重ね持って立ち上がる。
「え、じゃあ今年は……」
「出ねえよ」
 取り付く島もなく、俺は焦る。ここで去られると次以降は疎まれてこの話をできなくなる気がした。だが彼を引き止められるような言葉が浮かばない。
「どうせ面白くも何ともねえし」
 踵を返して独りごちた背に、横から返したのは天瀬だった。
「あの、今年はきっと面白いです、孝史郎君が演劇の主役をやるので!」
 おひやを飲んでいる途中だったら間違いなく盛大に吹いていた。
 徳永先輩の足が止まる。そこで止まってもらっては困る。いや、止まってもらわないと困るのだけど――。
 彼は振り向いて、まじろぎもせず俺を見る。
「ほんとかよ」
「え、ああ……はい……」
 尻すぼみに返事すると、徳永先輩は戻ってきて再び俺の隣にどかりと座った。
「そりゃ面白そうだな」
 窮する俺への助け舟として天瀬が発した文化祭関連情報は、見事徳永先輩の興味を引いて彼を席に呼び戻したが、俺はその船ごと沈んでいく心持ちだった。しかしせっかく場が持ち直したのに、ひとり沈んでいるわけにはいかない。この際、使えるものは何でも使おうと開き直った。
「……それじゃ、演劇を観るついでに、文化祭に出てもらえますか」
 多少順番がおかしいのも気にしない。
「まあ、考えてやるよ」
 出席するとは言わないが、出ないと明言してからの、これへの変化は大きかった。
「何の劇やるんだよ」
「……『長靴を履いた猫』、です」
「行くわ」
 即決された。拍子抜ける大逆転に、巧まずして決め手を放った俺だけがぽかんとなる。
「やっぱり観たいと思いますよね! 孝史郎の猫役」
 多いに納得して嬉しそうな天瀬に、同意している様子の徳永先輩。二人とも、この話に何故こうも食い付くのか。更に意気投合して目の前で和やかにしないでほしい。置いてきぼりにされた俺の心はいろんな角度からダメージを受けていた。
 ともあれ、徳永先輩が文化祭に出る意思を示してくれた事には違いないので、肩の荷がひとつ降りた。後は当日までに気が変わってしまわないよう願うのみ。
 ……と、思っていたらひとつだけ、彼から条件のように依頼された。 
「ただし、この事で牧村と話す気ねえから代わりに伝えとけよ。『勝手に責任感じて関わってくんじゃねえ』って」
「責任?」
「……風紀委員長、だからな」
 腑に落ちかけたが、ふいと目を伏せられて、引っかかった。本当にそれだけの意味なのだろうかと。まどろっこく探り合う徳永先輩と牧村先輩との間に、何か易々とは取り除けないしこりがあるように感じた。
「はいお待ち、日替わりの鶏照り二つ」
 そこへ絹代さんが注目した定食を持って来て、俺達の前に手早く並べた。
「……何でうちで飯食ってこうとしてんだよ」
 文句を付ける徳永先輩の頭に、絹代さんが大きな盆の裏を見舞う。
「いってぇ!」
「食堂だからに決まってるだろ、お客にぞんざいな口聞いてんじゃないよ。タカ坊の分も持ってくるから、一緒に食べて持て成しでもしたらどうさ」
「誰がするかよ、……その呼び方もやめろ」
 きっと小さい時分からの呼ばれ方で、普段は気にも留めていないが今は知り合いの目があるから恥ずかしい――といった反発の仕方に見えた。それも含めて『タカ坊』をちょっとかわいいと思った、などとはまかり間違っても本人には言えない。
 何よりまた一人、徳永先輩に正面から物言える人の存在を知って和んだ。
 
 
   ***
 
 
 徳永先輩の家の前で天瀬と別れて帰宅した後、諸々やり遂げた俺は、疲れがどっと押し寄せて夕方近くまで爆睡してしまった。まだ町の定期巡回の仕事が残っている。日の短さに急かされて起き、水を一杯飲もうと台所へ足を運んだら、仕事から帰ったばかりの母さんが居た。
「あ、孝史郎ちゃんただいま。寝てたの?」
「うん」
 母さんは帰りに商店街で買ってきた品々をテーブルに積み置いて順に片付けていたが、そこから袋をひとつ取り、水を飲み終えた俺に持たせた。
「夕飯までまだかかるから、お腹空いたのならこれで繋いどいてね」
 それはさくらだベーカリーの袋。開けてみると、形が崩れないよう一番上に乗っけられた繊細で異彩な『それ』が目に飛び込む。
「……母さん、この黒いの」
「そうそうそれ! ウニみたいで可愛いでしょ! 最後の一個だったのよねえ、もっと欲しかったんだけど」
 ……母さんと天瀬は、感性が似ているのだろうか。それとも俺の感性のほうが世間一般からずれているのか。あの後完売したらしいのは良かったと思う一方で、悩んでしまった。
 それはさておき、このウニ似のイガグリパンに関して母さんから俺と天瀬の話が出てこないという事は、桜田さんは俺の願い通り黙っておいてくれたんだなと思う。そこは素直に感謝した。
「ちょっと龍彦んとこ行ってくる。夕飯頃には戻るから」
「そう、お家の人によろしくねー」
 文化祭が終わるまで孝史郎の生活は忙しくなるが、コクミツの生活も疎かにはできない。力を蓄えるため、また龍彦にも意見を聞くために、普通のパンと問題のパン――は母さんも食べたいようなので今朝自分が桜田さんからもらった方――を一個ずつ携えて、俺は巡回の拠点である龍彦の家へと出掛けた。
 
 
 長靴を履いたニャンデレラ・前編/終



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