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 祠を過ぎ、ユキチから猫繋がりで天瀬の飼い猫達の近況へと会話が発展していったお陰で、その後の道中で気まずさがぶり返す事はなかった。案内も滞りなく、ちゃんと『人間用のコース』を辿って到着した目的地。民家に挟まるこぢんまりとした呉服屋『しょうふく』で、天瀬は無事、二枚の法被を調達できた。
 天瀬が最初に探し回っていたような葦沢町にない大規模商店は、潤沢な量と豊富な品揃えで欲しい物が手に入りやすい。しかしながら商品の回転が早いため、売れ筋や季節から外れる物はすぐに棚からも倉庫からも消えてしまう。そんな時、こうして個人商店に相談してみると時期を問わない在庫があって救われたりする。
 商業流通を葦沢町らしく川に例えるなら、大きな企業の店は流れが速くて浅い瀬にあり、小さな個人の店は流れが緩やかで深い淵にあると言えよう。目的によって使い分ければ効率も良く便利だろうが、葦沢町の場合は小さいながらも多様な小売店舗が充実していて、川向こうの店まで足を伸ばさずとも大概の物が揃うので、相変わらず不便に思う事はない。この町にはこのまま、緩く深みのある独自の活気を保ち続けていてほしいと思う。
 勘定を済ませて買った物を包装してもらっている時、天瀬は和装用の服飾小物が並ぶ木棚に目を留めた。彼女がそこに見つけたのは、つまみ細工の花が付いたヘアピン。外側の花弁は赤、内側の花弁は白のちりめんで作られていて、可憐だ。気に入ったのかそれを手に取って見る彼女に、包み終えた商品の紙袋を持って出てきた店の若女将――宮下佳苗(みやした・かなえ)さんは勧めた。
「それ、可愛いでしょ。普段使いにどう?」
「普段使い、ですか? でも洋服の時に付けるのって、おかしくないかな」
「全然! お洒落だし、うちとしては洋装にも気軽に和物を取り入れてもらえると嬉しいから」
 言いながら、宮下さんは白いブラウスの上に着ている前開きの紅葉柄を摘んで示した。形式ばらずに引っ掛けられたそれが羽織だと気づいていなかった俺は、なるほど和洋折衷の奔放な着こなしもお洒落のうちかも、と感心した。髪を木のかんざし一本でまとめ上げ、外と内、両方の襟を見せているのも粋だ。
「わあ、そういうの素敵ですね! 合わせ方が難しそうだけど、私もこのヘアピンからやってみます」
 買う事に決めた天瀬は紙袋と交換で、宮下さんに一度それを手渡す。宮下さんは微笑んで、代金も受け取ると彼女に聞いた。
「今から髪にしていく?」
 天瀬はすぐに付けてみたかったらしく、頷いた。
「はい、そうします」
「なら包装なしで、このままね。はい、どうぞ」
 宮下さんから置き鏡のある棚を教わり、早速それを見ながら前髪を少しすくって、買ったばかりのヘアピンで留める。そうして俺の方を振り向いた天瀬は、留めたところを見えやすくするうつむき加減からの上目遣いで、俺に聞いてきた。
「どうかな」
 赤いセーターと、同じ赤が入ったちりめんの花とはとても相性が良かった。艶やかな黒髪にも映え、まさしく、彼女に花を添えている。
「……うん、似合うと思う」
 ようやく答えた時の自分は、一体どんな表情をしていただろうか。せっかくの彼女の笑顔をしおれさせてはいないので、おかしなものではなかったと思いたい。
 
 
 連れ合いが違えば、見える景色もまた、違ってくる。主だった目的を果たし、再び訪れた商店街。馴染みのはずのそこは、手芸屋やインテリア雑貨店といった自分一人ではまず立ち寄る事のない場所に留まらず、日常的に利用している文具店や薬局、靴屋でさえも、『彼女がそこに居る風景』として、新しいものになるのだった。
 心の赴くままくるくると歩く彼女は、秋風に舞って掴めない葉を思わせる。その背を追いながら、俺は考えた。
 ――いつか彼女に、自分の気持ちを伝える日は来るのだろうか。伝えたとして、受け入れてもらえなかったら――。
 もっと彼女の近くにありたいと、望み始めている自分がいた。それは今の瞬間が幸せだからに他ならず、でもそれだけに、ここの位置から下手に動いたら行く先が暗転するのではないかという不安に駆られる。
 この望みは、気持ちを伝えなければ絶対に叶わない。しかし気持ちを伝えれば絶対に叶う、とはならないばかりか、一言で、一瞬で、一切を失う情け容赦ないリスクがある事を思うと、現在与えられている告白までの『猶予の幸せ』に、甘えていたくなる。行動を起こしさえしなければ、良い方にも悪い方にも転ばない。現状で十分じゃないか、と。
 ――この風景が損なわれるくらいなら、このまま、伝えないでいた方がいい。
 そう、自分を納得させようとしていた。
「……考史郎君?」
 我に返ると、天瀬が俺を案じていた。楽しんでいる彼女に浮かぬ顔を見せるという失態を演じ、狼狽する。
「疲れちゃった? ごめん、連れ回したから……」
「あ、いやそうじゃないんだ、ちょっと、考え事してただけで」
 つまらなそうにしていると受け取られただろうか。傷つけたかもしれない。先ほどまでの自然なそれとは違う、俺に気を遣った作り笑い。一人勝手に弱気を滲ませて、天瀬にそんな顔をさせた自分が情けなかった。
 これ以上時間を取らせては悪いからと、彼女は別れを切り出す。
「今日はほんとにありがと。いい物も買えたし、楽しかった。それじゃ、ここで――」
「天瀬」
 このまま帰してはいけないと頭で思うより前に、呼んで別れの言葉を遮っていた。天瀬は少し驚いて止まる。
 今日最大の山場。情けないままでは終われない。俺は初めて、自分から彼女を誘った。
「もうすぐ、昼だし……どっかで、一緒に何か食べないか」
 天瀬は目を瞬かせた後、安堵の表情を浮かべた。
「――うん。お腹空いたね」
 元の晴れやかさが戻ってきて、俺も胸を撫で下ろす。途端に空腹を覚えて近くのタコ焼き屋の匂いに胃袋をくすぐられたのは、天瀬も同じだったみたいだ。
「あのタコ焼き屋さん、お持ち帰りだけじゃなくてお店の中でも食べられるんだね。あ、でも向こうにある洋食屋さんも気になってて――」
 彼女は昼ご飯の候補を挙げ、選び始める。
 ――お前は何においても小さな積み重ねを大事にするタイプだろ。別に告白みたいな大技一発でケリつけて来いって言ってる訳でもなし――。
 龍彦の言葉に、一日遅れで頷く。事を急く必要なんてなかった。今日は今日を楽しんで、彼女との時間を少しでも積み重ねられたらそれでいい。
 そう気を取り直して、歩き始めた天瀬を再び追おうとした矢先。
 怒号と悲鳴が聞こえた。葦沢町におよそ似つかわしくない不穏な空気に、人の流れが止まる。その合間から、魚鮮のオヤジが大柄な男と揉み合っているのが見えた。オヤジを振り払って逃げた男の手の中で、何かが光る。
 ――刃物。
 男は周囲の人々に体当たりしながら左右に引かせてできた道を、こちらへ向かって突進してくる。その進路上には、天瀬がいた。彼女は突然の出来事にすくんでしまっている。
 守らないと、と思うが早いか俺は持っていた物を全て放り投げ、駆け出ていた。天瀬を追い越し、男との間に割り入る。それでも向こうは俺達を障害物とはみなさず、避ける素ぶりなく突っ込んでくる。致し方ない。
 駆けてきた足をそのまま踏み込んで軸にし、利き足の膝を胸に引き付けながら身を翻して突き刺すように放った、渾身の後ろ蹴り。それは片手で抱き抱えられている鞄越しに相手の体幹ど真ん中を捉え、向かってきた勢いもそっくり跳ね返して、そいつを後方へ吹っ飛ばした。
 仰向けに転倒した男を、商店街の男衆が一斉に取り押さえる。俺達の後ろからも警察官が駆けて来て、白昼の捕り物劇はここに終息する。
 振り返って見た天瀬は、すっかり放心していた。
「もう、大丈夫だから」
 努めて穏やかに声を掛けると、強張る首を一応縦に振る。怖い目に遭ったのだからこうなっても無理はない。しかし怪我なく済んで本当によかったと思う。
 大技一発で『ケリ』つける――がよもやこんな形で実現しようとは、思わなかったが。
 
 
 まだ魂が半分抜けたままの天瀬のために自販機で温かい飲み物を買い、件に関わった俺は男を逮捕した三矢巡査の求めに応じて、彼女と共に交番まで事情を話しに赴いた。俺と天瀬が並んで着く机の向かいで、三矢さんは聴取の内容を書類に書き込んでいる。
 捕まった男はベンチで休んでいた商店街客の鞄を置き引きし、犯行に気づかれて逃走していたらしい。商店街の平和な賑わいに紛れて悪事を働こうなどとは、不届きな輩だ。
 ……にしてもあの後ろ蹴りはやり過ぎだっただろうかという懸念があったので、それについて三矢さんに確認する。少し前、ムサシ捜索の際にもお世話になった彼は騒ぎが起きた時、ちょうど商店街を警ら中だった。俺達と同じく犯人の向かう方角から来ていた事を考えると、俺が蹴倒さなくもきっと捕まえてくれていただろう。
 三矢さんは、俺に心配ないと言った。
「居合わせた人が大勢見ていたし、僕も駆けつけながら見て、自分と周りを守るために止むを得ずだったのは分かっているからね。一撃に留めてくれたし」
「すみません、刃物を持っていたので加減する余裕はなくて」
 それを聞いた三矢さんは、小首を傾ける。
「……刃物? いや、そういったものは持っていなかったけど」
「え? でも確かに、光る物が見えて――」
 光を反射する何かが男の手にあったのを目にし、天瀬が命に関わる危険に晒されていると感じての行動だったのにと疑問に思う。
 しかし三矢さんはすぐに解した様子で、吹き出した。
「……ああ、アレかあ。そうか、参ったな。いやごめん笑っちゃって」
「刃物、じゃなかったんですか?」
 ひとしきり笑った三矢さんは、その正体を教えてくれた。
「多分、君が見たのは『イワシ』だよ」
「えっ……」
「『光る物』というか、『光り物』だね」
 話によれば、男は一度魚屋の前でオヤジに捕まりかけた時、店の魚を手当たり次第掴み取って何匹か投げつけたという。オヤジが怯むと最後に引っ掴んだイワシは投げないまま再び逃走し、御用の時まで何故か後生大事に握り締めていた、と。
 ……顔から出た火で魚が焼けそうだ。
「オヤジさん、台無しにされた魚の被害届けを出すって息巻いてたからね。来たら伝えておくよ、鮮度が良過ぎて刃物と見間違えられてたって」
 新鮮な魚の提供にこだわりと誇りを持つ、魚鮮のオヤジ。聞いたら喜びそうではあるが、本気で間違えた俺としては恥ずかしくてしょうがない。まあ、お陰で横の天瀬がほぐれてやっと笑ってくれたので、ここは良しとしておこう。
 
 ……いや、やっぱり良くない。



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